第3話 聡介、夜の湖で蠱惑の美女に再会する

 時刻が過ぎて、太陽は金色や青や赤に辺りを染めながら沈んで行った。そして、後には爽やかな夏の夜が訪れた。

 聡介はゴルフクラブのベランダから湖を眺め、そよ風の中を穏やかに寄せ来る波の動きを見詰めていた。湖面は明るい満月の下で銀色に輝く糖蜜のようであった。やがて、湖は仄蒼く静まり返って澄み切った。彼は水着になって一番遠い飛び込み台まで泳ぎ、スプリングボードの濡れたキャンバスの上に水を滴らせながら横たわった。

 星が光り、灯火が煌めいていた。何処からかピアノの音が聞こえて来た。水の上を渡って来るピアノの音色はこの上なく綺麗だった。彼は横になったまま、物音一つ立てずに聴き入った。

その時ピアノが奏でていたのは、五年前、大学の二年生だった聡介が、ダンスパーティーで、華やかで斬新なメロディーだ、と感じてじっと聴き入った曲だった。今、その曲を聴きながら、彼は突如として、ある種の陶酔感に襲われた。そして、その陶酔感に浸りながら、現在の自分の姿に思いを馳せた。それは強烈な称賛に包まれている己が姿だった。それは、少なくとも今だけは、自分が今後二度と見られないかも知れないほどの素晴らしい光を放ち、豊満な魅力を発散しているものだった。

 突然、モーターボートの激しい振動音が噴き出し、断ち割られた水が二本の白い条を描いた。その騒がしい水飛沫の騒めきの中に、華麗なピアノの旋律は呑み込まれてしまった。

肘をついて上体を起こした聡介は、ハンドルを握って立つ一つの人影に気付いた。黒々とした二つの眼が彼を窺がっていた。ボートは湖の真中で、飛沫を上げ乍らぐるぐると大きな円を描いて疾走していたが、やがて、其処から飛び込み台の方角を目指して疾って来た。

「其処に居るのは誰?」

エンジンを停め乍らその人影は声を懸けた。女性の声だった。

ボートは飛び込み台の直ぐ傍まで近づいて来て、聡介には彼女の水着姿が見て取れた。ピンクのロンパースを着ていた。と思う間も無く、ボートの先端が飛び込み台にぶつかって聡介は真っ逆さまに湖へ投げ出された。二人は、どちらも共に、相手が誰かに気付いた。

「あなた、今日の午後、ゴルフ場で、あたしたちを先に行かせてくれた人じゃない?」

「ああ、そうだよ」

「ねえ、あなた、モーターボートの操縦出来ない?出来たらちょっとこれを操縦して欲しいんだけど・・・あたし、後ろのサーフボードに乗りたいのよ。あたし、天野麗美って言うの、宜しくね」

そう言って彼女は気取った美しい笑顔を見せた。

「あたしの家の別荘は湖岸を廻った向う側に在るのよ」

 聡介が麗美の隣に座ると、彼女はボートの操縦法を簡単に説明し、それから水に入ると、船尾に浮いているサーフボードまで身をくねらせながらクロールで泳いで行った。腕が律動的に動くと、周りの水が砕けて鈍いプラチナ色のさざ波が立った。

ボートは湖の中ほどまで走り出た。聡介が振り返ると、麗美は頭を擡げて、斜めに浮いているサーフボードの端に膝を着いていた。

「もっとスピードを出してよ!」

彼女は大きく声をかけた。

言われるままに聡介は力一杯レバーを前に倒した。直ぐに、舳先から白い飛沫が山のように盛り上がった。彼がもう一度振り返ると、麗美は疾走するサーフボードの上に立ち上って両腕を拡げ、月を仰いでいた。

「物凄く、冷たいわ!」

声を張り上げて彼女が言った。

「あなた、名前は何と言うの?」

聡介は姓名を名乗った。

「どう?明日の晩、うちへ食事に来ない?」

聡介の心臓がボートの芯軸のように回転した。そして、麗美のこの気紛れが彼の人生の方向を変えることになった。

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