第10話 家の掃除をします!(ガチで!!)
翌日、ハルヒサは事務所のソファの上で目を覚ました。見慣れない天井に寝起きの直後はギョッとするが、すぐにハルヒサは自分が異世界にいることを思い出し、盛大なため息を吐いた。
寝る前はくたくたに疲れていたから溶けるように眠ったが、いざ起きると受ける衝撃は相当なものだ。これが夢ならよかったな、と項垂れるハルヒサはソファから起き上がり、大きく伸びをした。
起き上がったハルヒサにかすかに漏れ出るカーテン越しの光が指す。うっと呻いて光から目を覆い、ハルヒサはゆっくりと事務所の入り口へ歩を進めた。
昨日の夜、パブから戻ったキスタはそのまま三階にある自室へ向かってしまった。ハルヒサが事務所のソファで寝ていたのは単純に空き部屋にはベッドも何もないからで、キスタが三階からもってきた毛布にくるまって寝ることになった。
そして今にいたる。
事務所の扉を潜る頃にはすっかり意識は覚醒し、キスタを起こすためにハルヒサは三階へつづく階段を登っていった。昨日の夜、毛布を持ってきた時にキスタが朝になったら起こしてくれ、と言ったからだ。朝は弱いんだと言い訳する赤髪の魔法使いは鍵は開いている、と言い残してそのまま三階へ消えていった。
実際三階の扉は開いていた。不用心だなと思いながらハルヒサは扉を開き、中へと入っていった。
三階は入ってすぐの場所にリビングがあった。日本と違って外履きを脱ぐという習慣がないからか、リビングの入り口には下駄箱のようなものはなかった。
リビングに入るとまず漂ってきたのはひどい腐敗臭だ。恐る恐る部屋の明かりを点けてみると、まずリビングの中央に置かれていた机の上にネズミか何かが食い荒らしたようなとっちらかった食器の山ができていた。皿はもちろん、スプーンやフォークが洗い場にすら置かれず雑多に置かれ、どこから入り込んだのかハエがぶんぶんと汚れた皿の上で円を描いていたほどだ。
洗い場に目を向けてみればこちらはよくわからない茶色い物体が浮上して、膜を張っており、異臭が一層強くなっていた。換気扇はないのか、と周囲を見回せば中からゴミがはみ出したゴミ袋が冷蔵庫の近くにわんさか置いてあるのが見え、それからは腐臭に混じって酸っぱいゲロのような匂いが漂ってきた。
よくよく足元を見れば床の上には残飯のカスが溢れていた。踏むたびにベチャベチャと変な音が鳴り、靴を履いていなければ今頃えも言えない気味の悪い感触が両足を伝っていただろう。
「なんだよここ、残飯屋敷かぁ?」
とにかく、とハルヒサはリビングを左手に進み、左手を向いて一番左側にある扉をノックした。その扉の先がキスタの部屋になっていると彼は寝る前に言っていた。
ノックして少し時間が経ったが、キスタは顔を見せない。ドンドンと強めにノックしたがやはり扉が開く気配はない。ため息をつき、ハルヒサがドアノブに手をかけると、扉はすんなりと開き、直後よどんだ空気が部屋の中から溢れ出した。
おえ、と嗚咽が漏れ、吐き気が込み上げてくる。いやだいやだ、と言いながら扉から離れると、暗がりの中からゆらりと赤い火の玉が現れた。一瞬、お化けかなにかかと思いハルヒサはとっさによごれた皿を握りしめたが、すぐにその火の玉が面をあげ、肌色の素顔を見せたことでその正体がキスタだと理解できた。
おっかなびっくりしながらハルヒサはキスタのもとへ駆け寄った。近づくとすぐ、鼻が勝手に鼻腔を閉じてしまいそうな激臭が彼の体から発せられ瞬く間に跳び去ったが。
「くっさぁ。なんでこんなに臭いんだよ、お前!」
言いながらその理由に察しがつき、ハルヒサは呆れ顔でため息をついた。昨日は別に臭いとも感じなかった人物が一夜で、こうも熟成された発酵食品みたいな匂いを発する理由なんて一つしかない。なおも漂ってくるひどい激臭に鼻をつまみながら、ハルヒサは入り口へ急ぎ、外の新鮮な空気を吸い込んだ。
外の空気は清涼そのもので、灰の味はもちろん、部屋の中の腐った生物を煮込んで発生したような味も匂いもない。生暖かく、舌先が喉奥に突っ込まれたような感覚もない。
はぁーっと深呼吸を繰り返し、息を整えるハルヒサの後ろからキスタが気まずそうに話しかける。そのキスタをきっと睨み、彼の小さな体を持ち上げると、笑顔を浮かべた。何かが頭の中で弾けたような、澄んだ気分だった。
「とりあえず、お前、風呂入れ。掃除するぞ」
「えー。めんどくさいよ、お兄さん」
「いいから風呂入れ。剥くぞ?」
「いやん。——げほぇ」
たまらず顔面に鉄槌を叩き込み、ぐはーとわざとらしくキスタは大の字になって汚い床に倒れ伏した。そんなだらしない家主の襟を掴んで引き上げ、風呂を探しはじめた。
「あぎゃ、あが」
「ったく、風呂どこだよ」
「奥の扉にあり、あーちょっと引っ張らないで〜!!!」
ズルズルと引き摺られてキスタはハルヒサによって風呂場に連行される。
脱衣所の扉を開くと洗濯機らしき機械にぎゅうぎゅう詰めにされた衣服が山を作っており、それに顔をしかめたハルヒサは嫌な予感がして風呂場のドアを開けた。
直後、これまで嗅いだことのない腐乱臭がむわっと生暖かい空気とともに風呂場から吹き出し、思わず吐きそうになった。おげっとえずくハルヒサが涙目をこすりながら中を覗くと、そこにはかなり広い、大人二人が余裕で入れるくらい広い湯船があった。
湯船には薄緑色の湯が張ってあり、その水面を見た時、ハルヒサはおもわず目を背けた。水面には正体不明の黒っぽい粒状の物体と、凝固したフケに似た物体が浮かんでおり、底が見えないほどに濁っていた。ただ、風呂そのものの深さが大したことがないというのは湯船の大きさから察せられた。
恐る恐る水面へ指を突っ込んでみると、指先を生ぬるい液体が伝い、粘り気のある水が絡みついてきた。湯船の中で指先を動かそうとすれば変な抵抗があり、泥のような重みを感じさせ、沈めるごとに指先から伝わってくる形容できない感触が肩の付け根から脇腹にかけてをくすぐるような気色の悪い感覚を与え、さらに湯船の底を触って見ればこれまで感じたことのないぬめりを感じ、ひぃ、と小さな悲鳴をハルヒサはこぼした。
なんとか数々の気色悪い感触を我慢し、栓を抜くと、ごぉ、というトイレの水を流す音に似た水音を発し、湯船の水位がゆっくりと下がっていった。水詰まりの気配はないようで、しばらくそれを見守っていたハルヒサは水が半分くらいまで減ったところで脱衣所に置きっぱなしになっていたキスタの方へ振り返った。
「お、お兄さん?風呂場の水はまだ全部抜け切ってないよ?それにまだ風呂も臭いままだよ?」
換気扇をマックスにし、小窓も開けてはいるが、相変わらず不愉快な腐乱臭は残ったままだ。しかしそんなことはハルヒサには関係ないことだ。
逃げようとするキスタを捕まえ、ハルヒサは彼の着ているローブを乱暴な手つきで脱がしはじめた。キャーとキスタは黄色い声を上げて抵抗するが、所詮は大人と幼稚園児ほどの体格差をどうにかすることはかなわない。
すっぽんぽんに一糸纏わぬ状態にまでひん剥かれ、ぅう、としおらしく下半身を隠すキスタを無理やり風呂場に連れ込み、シャワーの蛇口をひねり、ハルヒサは彼の頭に水を浴びせはじめた。
「ぎゃ、冷たっ!!」
「我慢しろ!俺だって濡れてるんだよ!」
シャワーから出るのはお湯ではなく、冷水だ。寒々しい朝に浴びせかけられた冷水にたまらず泣き叫ぶキスタをハルヒサは押さえつける。ひとしきりシャワーを浴びせられ、ぐっしょりと濡れたキスタは叫ぶ余力がないのか、すんとおとなしくなった。
おとなしくなったキスタにハルヒサはさらに手を伸ばす。シャンプーはどこだよ、シャンプーってなに、といったやりとりを繰り返し、ハルヒサがシャワーの蛇口を占める頃にはキスタは寝起きの腐乱臭が嘘のように感じるくらい花の匂いが立っているばかりか、髪の毛の粘り気も消えてサラサラとした本来の髪質を取り戻した。
「うん、いい匂い」
「お兄さん、気持ち悪いよ」
「髪の毛もサラサラでこっちの方がいいだろ。俺なんてトゲトゲ頭だからこういう髪質は羨ましいよ」
「お兄さんはつくづくわからない人だねぇ」
濡れた髪をタオルで拭きながら、ハルヒサはそうか、と聞き返す。そうだよ、とキスタは即答した。
「昨日はなんていうか、ただの正義感だけの人って感じだったのに、今じゃ俺をこんなに雑に扱ってさ。俺が怖くないわけ?」
「怖がって欲しいのか?」
「いや、ぜんぜん。むしろこうやって俺を雑に扱う人って珍しいからさ。すっごくうれしいよ」
首を後ろへ向かってかくんと傾け、キスタはハルヒサを見上げる。そしてニカっと白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
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