2章 コードブラック⑧
エレベーターで一般病棟へ降りる。
誠也はずっと姿を現すのは疲れるようで、今は一叶にも見えないが、彼も春香を案じているはずなので、そばにいるはずだ。
廊下を歩いていると、春香の病室の前に看護師たちが集まっていた。彼女たちの隙間から、傷だらけの九鬼とエリクが壁に寄りかかるようにして座っているのが見える。
翔太も気づいたのか、隣から「え……」と動揺した声がした。
「九鬼さん、エリクくん!」
看護師たちを押しのけるように彼らに駆け寄り、そばにしゃがむと、頬や腕に切り傷のようなものがいくつもできていて、白衣に滲んでいる。
「患者を診察しようとしたら窓ガラスが割れて、破片と一緒に吹き飛ばされた」
一番傷が深い前腕を自分で止血しながら、和佐が状況を教えてくれた。
「コードブラックだ。俺たちはいいから、患者を探せ」
和佐の話を聞いていた看護師のひとりがナースステーションへ走る。
「僕たちが駆けつけたとき、井上さんは窓を開けようとしたんだ。たぶん、飛び降りようとしたんだと思う。だけど開かなくて、病室を出たんだっ」
エリクも焦った様子で早口で説明する。
翔太の顔がさっと青ざめた。
「じゃあ井上さんは今、死ねる場所を探してる……?」
「うん。部長も怪我してるのに、ひとりでそのあとを追ってて――」
エリクの声は、院内に流れた緊急コールに遮られる。
「コードブラック・ジャンパー、コードブラック・ジャンパー。医療スタッフは七〇五号室に集まってください」
先ほどナースステーションへ走っていった看護師の声だった。
――コードブラック・ジャンパー。飛び降り自殺をしようとしている人が出たときの緊急コールが院内に放送される。
一叶と央は天井を仰ぎ、ごくりと喉を鳴らす。
「……外だ」
ぽつりと呟いた和佐を振り返る。難しい面持ちで床を見つめていた彼は、ややあって閃いたかのように勢いよく顔を上げた。
「駐車場、立体駐車場の最上階だ!」
翔太は困惑気味に眉をひそめる。
「は? 意味わかんな――」
「早く行け!」
和佐の声に尻を叩かれるように、一叶と翔太は一足先に駆けだす。
「井上さんと松芭部長のこと、お願いね!」
後ろでそんなエリクの声が聞こえた。
四階建ての立体駐車場に入ると、翔太が半信半疑の顔で言う。
「本当にここに井上さんがいるの?」
「わからない……でも、九鬼さんがここに行けって言ったのには意味があると思う。ほ、ほら九鬼さんって、たまに預言者みたいなこと言うし」
「確かに……魚住たちが小池の家に行くって話してたとき、俺を残していくなって言ってたよね。井上さんが俺のせいで退院することも、わかってるような口ぶりだったし」
一叶が「うん」と相槌を打ったとき、停まっていた車が一斉にハザードランプをチカチカと点灯させ、キュッキュッと音を鳴らし、やまない。
「うわっ、なに⁉」
「わ、わからないっ」
一叶は先に声をあげた翔太と、ひしっと身を寄せ合う。
「い、行こう」
翔太に促され、歩き出した一叶たちだったが、立体駐車場に響く足音がやけに多い気がした。一叶は眉を寄せ、気にしすぎだろうかと隣を見る。すると翔太も困惑気味にこちらを向いていた。
耳を澄ませながら忍び歩きをしてみると、後ろからコツンコツンと一叶たち以外の足音が確かに聞こえる。それは確実に一叶たちをつけており、急に駆け足になった。
「……っ、ほんと勘弁!」
翔太に手を掴まれ、そのまま引っ張られるように無我夢中でらせん状の坂を駆け上がる。
(こんなことなら、運動をしっかりしておくんだった……!)
一叶は息を切らしながら、なんとか翔太についていく。
「俺たちストーカーして、なにが楽しいわけ!?」
酸欠で眩暈に襲われながら屋上に辿り着くと、京紫朗が首を掻きむしるようにしながら地面で蹲っている。
「松芭部長!」
一叶と翔太は声を揃え、京紫朗のもとへと走り、そばに腰を下ろした。よく見ると、京紫朗の首には黒い縄のようなものがかけられている。その先を目で辿れば――。
「……!」
黒い男――小池がいた。身体中にたくさんある目玉をぎょろぎょろと動かしながら、京紫朗の首にかけられた縄を握っている。
「なにがあったんですか! 松芭部長!」
翔太にはその縄が見えていないので、なにが起きているのかわかっていない。
「な、縄が首にかかってる!」
一叶は黒い縄に手をかけるが、それは固くて引き千切れない。ぐうっと歯を噛みしめて引きちぎろうとしていると、ふいに一叶の手に白い手が重なる。振り向けば、後ろから一叶に覆いかぶさるような形で誠也が縄を握っており、ぐっと力を込めたかと思うと、ぶちっと音を立てて切れた。
「げほっ、かはっ……私のことは……っ、いいです、から……井上さんを……っ」
京紫朗は喉を押さえながら、苦しげに歪んだ顔を上げる。その視線の先には、屋上の縁に立つ春香がいた。
「井上さん!?」
翔太と声が重なる。
「黒いオーラが……っ、井上さんの姿が見えなくなるほど、膨れ上がっています……!」
前に京紫朗は死が近い者や霊に取り憑かれている者のオーラは黒く視えると言っていた。そのときから春香のオーラも黒かったと京紫朗は話していたが、さらに死に近づいているということだろうか。
「ふたりとも、小池さんを刺激しないようにここから井上さんに声をかけてください。小池さんは男性を嫌がるでしょう。ですが、一度対話できた一叶さんなら近づけるかもしれません」
小声でそう言い、京紫朗はこちらを向いた。一叶と翔太は緊張の面持ちで頷き、春香へと視線を戻す。
「い、井上さん、危ないですから戻って!」
一叶の呼びかけに、春香は振り返らない。ただ風に髪をなびかせ、縁の上に佇んだまま答える。
「いいの。これから私、夫のところに逝くつもりだから。夫も……それを望んでくれてる」
隣にいる小池が夫だと思っているのだろうか。小池に向かって幸せそうに微笑んでいる彼女に焦りが募る。
「今、井上さんの隣にいるのは、旦那さんではありません!」
「嘘言わないで。信じない」
どう伝えるべきかと一叶は思考を巡らせていると、ふいに隣に気配を感じた。
誠也だ。切なげに春香を見つめている彼を見上げ、一叶はポケットから飛び出ているあるものに目を留める。
「赤いミニカーのキーホルダー」
春香が「え……」と振り返る。
「す、スマートフォンにつけた赤いミニカーのキーホルダーがズボンのポケットから出てる! 旦那さんはスポーツ苅りで、ストライプのティーシャツの上に紺色のシャツを羽織ってて、ジーンズを穿いてます!」
ひとまず誠也の特徴を息継ぎもせずに、すべて口に出してみた。そうすれば、一叶には夫の霊が視えていると信じてもらえると思ったのだ。
「赤いミニカーは……コンビニの缶コーヒーについてた付録で、私があげたの。それをあの人、律儀に大事にしてて……あなたには本当に……視えてるの?」
「はい、伝え方が悪くて申し訳ありません、旦那さんはちゃんとそばにいます。ずっと、井上さんを守ろうとしていたんです。あなたが車に飛び込んだときも、止められなくて苦しんでいました」
春香が息を詰まらせるのがわかった。
「井上さんは、自分がストーカー被害になんて遭ったから旦那さんの病気に気づけなかったと悔やんでいますね」
「どうしてそれを……誰にも……言ったこと、ないのに……」
「旦那さんが教えてくれたんです。そして旦那さんは、そうやって井上さんが自分を責めてるのは自分のせいだって思ってます。自分が病気になったからだって」
「それは違う! 誠也のせいなんてこと、絶対にない!」
春香は髪を振り乱しながら、大きくかかぶりを振る。
「ふたりとも、悪くありません」
隣にいた翔太が居ても立っても居られないといった様子で言った。
「っ……すみません。俺、医者なのにあなたにひどいことを言いました。だから、俺の言うことは信じてもらえないかもしれませんが、俺……」
翔太は下を向き、深呼吸をすると、静かに告白する。
「俺も、実はストーカーに遭っているんです」
春香の口が「え……」と言葉を紡いだ。
「なんで自分だったんだろう、なんで拒絶しても追いかけ回してくるんだろう。家族にも大学の同級生にも職場の仲間にも勝手に接触されて、迷惑をかけて……ストーカーの考えが理解できなくて……」
語るたびにそのとき背負った苦しみがのしかかるかのように、翔太の声が重たくなっていく。
「きっと相手に好意を向けられるような、そういう間違った対応を自分がしてしまったんだろうって……井上さんも、ですよね?」
その問いにはどこか確信が含まれている。共感力に長けているエンパスの彼だからこそ、感じ取ったものがあるのだ。
「ええ、そうよ……私が過剰に親切にしすぎたのかな、とか……お金の渡し方が悪かったのかな、とか……考えたらきりがなくて……」
ふと気配がして隣を見ると、誠也が悲しげに彼女を見つめている。
「あなたにストーカーに遭ったのは自分のせいだって言われて傷ついたのも、本当にその通りだって思ってたから……傷ついたの」
やっぱり、翔太はただ春香を責めたわけではなかったのだ。彼女が自分を責める気持ちに、同じ経験のある翔太はいつも以上に共感してしまったために、つい本音を口にし
「井上さん、その言葉、訂正させてください」
「訂正?」
「はい。俺、わかったんです。ストーカーに遭う理由、ストーカーの考え、いろいろ理解できないから、そうやって自分の中に原因を探すしかなかったんだって」
「……!」
「井上さんも同じじゃないですか? そんなときに旦那さんの病気が重なったりして、自分を責める口実ができてしまった。でも、俺たちは被害者です。理由とか、どうでもいい! 俺たちはもっと怒ってよかったんだ!」
それを教えてくれたはあんただと、翔太の視線が自分に向く。
想いが届いたのだと、踏み込んでよかったと一叶の胸は熱くなる。
「俺たちは悪くない。だから生きてください。大切な人を失う痛みを井上さんは誰よりも知ってるはずです。だからどうか、旦那さんの前でその命を絶ってしまわないで!」
「っ、はい……っ」
涙で顔を濡らしながら、ゆっくりと春香がこちらを向くが――。
『裏切り……者……!』
低く唸るような小池の声が聞こえ、急激に湿った風が吹き始めた。天を仰げば、晴れていたはずの空を侵食していく濁った灰色の雲。まだ午後三時をまわったばかりだというのに薄暗い。
「これも……霊の仕業とか言わないよね?」
翔太は顔を引きつらせながら、空を見上げていた。その隣で地面に蹲っていた京紫朗の表情にも焦りが滲む。
「残念ながら、そうでしょうね。それほど小池さんの執念が強いと言うことです。いや……もう怨念に変わってしまったかもしれません」
そのとき、ぽたっと雨が頬に当たった。まるで小池が死んだ日のように、ざーっとふり始める。
「あっ」
春香の声がして、視線を彼女に戻す。風と濡れた足場のせいで、春香は足を滑らせたのだ。その身体が後ろによろけるのがやけにゆっくりに見え、一叶と翔太はほとんど条件反射で駆け出していた。
「……っ!」
間一髪、翔太と共に春香の腕を掴む。だが、雨に濡れた肌はずるずると滑って、今にも彼女の命がこの手からすり抜けそうになる。
「お願い……っ、連れて……いかないで……!」
一叶の願いとは裏腹に、一叶の手から彼女すり抜けてしまいそうになり、冷や汗が頬を伝った。そのとき――。
ぱしっと、横から伸びてきた手が春香の腕を掴んだ。弾かれたように振り返ると、後ろから一叶に覆いかぶさるような形で春香を引き上げようとする和佐がいる。
「一気に引き上げんぞ!」
「あ、はい!」
強く頷いて春香の腕を掴み直すと、一気に引き上げようとした。だが、三人がかりで男手がふたりもいるというのに、びくともしない。怪訝に思いながら春香を見下ろすと、下半身に黒いなにかが見えた。
(なに……?)
不安が下腹部のあたりに広がっていくのを感じながら、一叶はさらに下を覗き込む。
ひいっと喉の奥で悲鳴をあげた。春香の下半身に黒い男――小池がしがみついているのだ。その黒い腕にもあの目玉がいくつもあり、ぎょろっと一斉に一叶を見る。
「いやっ」
「今度はなんだ!」
急に悲鳴をあげた一叶に、和佐が焦りと苛立ちが混じったような顔を向ける。
「こ、小池さんが井上さんの下半身にぶら下がってて……っ」
「道連れにする気だ! ふざけんなし! 連れて逝かせるか!」
翔太が腕に力をこめるのがわかった。だが、気合いでどうにかなるものではなく、むしろ小池はずるずると一叶たちすら引きずり込むかのように下へ下へと春香を誘う。
(このままじゃ、埒が明かない……っ)
自分はどうするべきか、なにをしなければならないのか。落ち着け、急患を前にしたときと同じだ。不測の事態が起こったときこそ冷静に、一叶だってだてに二年間研修を受けてきたわけではない。
(私は医者だ)
根性論や理想を描くだけでは命は救えない。奇跡が起こるのを待つのではなく、自ら奇跡を起こさなくてはいけない世界なのだ。
(そう、だから私は……奇跡を起こすために、今持てる力を出し尽くす!)
「小池……っ、さん……勝手に……すみません。あなたが書いた日記……っ、読ませて……いただきました……よく……っ、ひとりで頑張りました……ね……っ」
小池が驚いたように、びくりと震えたように見えた。
「あなたは日記で自分の衝動を押さえようと努力していました……っ」
そんなときに誰か褒めてくれる人がいれば、善悪と生死の境界線に立っていた彼は踏み留まれたかもしれない。『善』や『生』の境界線の内側に。
「そんな小池さんなら、わかってる……はずです。井上さんには、大切な人が……います。心を繋ぎ留めようと必死になっても、その労力と時間に見合った結果は……返って……きません」
『ソンナ……ワケガナイ! 春香ハ俺ト同ジ、ヒトリボッチダ! 僕ガ必要ナンダ!』
その割れた声はもはや人間のものではない、獣の咆哮のようだった。
「いいえ……っ、井上さんにはご両親も旦那さんもついています。ひとりでは、ありません」
それを証明するかのように、一叶のそばにすうっと誠也が姿を現す。咎めるような目つきで自分を見据える誠也を目にした小池は、『嘘ダ……嘘ダ……!』と興奮したように叫んでいる。すると春香を引っ張る力も強まり、翔太はなんとか踏ん張ったが、一叶の身体は大きく塀の向こう側へと乗り出してしまう。
「わっ」
和佐は舌打ちをしながら一叶の腰に片腕を回すと、落ちないように支えた。
「なにがどうなってやがる!」
「魚住は今、小池さんと話をしてる! 俺たちは……っ、信じて待つしかない!」
和佐にお礼を言う暇もない。翔太は一叶が小池を説得をしているのがわかっていたのか、続けてと言わんばかりにこちらを見た。
一叶は頷き返し、再び小池に語りかける。
「ひとりぼっちで寂しかったのは……っ、きっと小池さんのほうです。だから、井上さんにも……仲間で、いてほしかった……自分を……否定しないで、欲しかった……っ」
『違っ……』
「そうして寂しさに囚われるたびに、あなたは振り出しに戻ってしまう……っ、ですから、井上さんを傷つけないように、あなた自身が大切にしたい家族のために、頑張ってきたように……っ、今度は自分のために……、頑張ってください!」
自分のために? と問うように小池のいくつもある目玉がこちらに向く。
「井上さんを好きになって、落ち込んだり悲しんだり……っ、怒ったり恨んだり……っ、苦しかったでしょう……っ、く……」
手の感覚がなくなってきた。腕も千切れてしまいそうなほど痛い。全身雨と汗でびっしょりと濡れている。けれど――。
隣を見れば、不安そうに成り行きを見守っている誠也の姿がある。彼の代わりに、彼女をこちら側へ引き戻さなくては。
「でも、小池さんの想いがどんなに強くても……うっ、他人の思考や行動は……っ、変えることが……っ、できないんです。その代わり、自分を変えることは……できます!」
人間を白か黒かで判断することはできない。ある人にとっては悪い人でも、ある人にとってはいい人かもしれないからだ。ならば自分は、どうその人を見ればいいのか。
(私は医者として、彼を診る)
そこに必要なのはただの善意でも、見境なく誰かを責める悪意でもなく、平等で客観的な視点。
「あなたの抱えるその苦しみも、家族が離れてしまったのも、病気の……っ、せいです。だから……っ」
雨音に負けないよう、一叶は声を張り上げる。
「自分の人生を犠牲にしてまで貫こうとした
小池はぴたりと動きを止めた。そしてなにを思ったのか、するりと手から力を抜いて、落下していく。そしてそのまま、すうっと空気に溶けて消えていった。
「……! 抵抗がなくなった? 今のうちに引き上げんぞ!」
一叶と翔太は「うん!」と返事をして、春香を引っ張り上げ、ようやくこちら側に戻すことができた。
いつの間にか雨が止み、翔太が春香のそばに膝をつく。
「井上さん、大丈夫ですか?」
春香は戸惑いながら「は、はい」と翔太に頷き、今度は一叶を見上げた。
「あのっ、夫は……まだいますか?」
彼女の問いに、一叶が隣に視線をやる。そこには誠也がおり、切なげに彼女をじっと見つめていた。
「はい。あなたを助けるために力を貸してくれていました。それから、井上さんのせいじゃない、気にするな……言ってあげたいこと、たくさんあったそうなのですが、今はただひと言だけ、伝えたいそうです」
一叶は誠也と視線を交わし、首を縦に振ると、春香に向き直った。
「生きてくれ、と」
「……っ、ふっ、ううっ、ああっ、ああああっ……」
春香は両手で顔を覆って、わっと泣き出した。
「わ、私……っ、ごめんなさい! 私、あなたがいないことにっ、耐えられなくて……っ、あんなことを……っ、けど、もうやめる……っ」
両手で顔を拭い、春香は見えないはずなのに誠也のいるほうを見上げた。
「っ、あなたがいなくなっても、私はひとりじゃない。今そばにいる大切な人を大事にしながら、あなたをときどき思い出して……そうやって、生きていく。だから……っ」
言いたくないけれど、言わなくちゃ。そんな表情で彼女は
「だから、もう大丈夫。最期まで心配かけてごめん。そばにいてくれて、ありがとう」
雲間から日差しが差し込む中、春香は笑っていた。その顔を見て憂いが張れたのか、誠也は彼女のそばに行き、膝をつくと、その額に触れるだけの口づけをした。
「え……」
春香は額を押さえて、目を見張る。
「あ……」
その光景を見ていた一叶の頬に涙が伝った。
誠也は立ち上がると、一叶に向かって深々とお辞儀をして、晴れ晴れとした表情で消えていく。
「今、額に……」
春香が確かめるようにこちらを見たので、一叶は頷く。
「はい。優しく触れて、晴れやかな顔で今、旅立ち……っ、ました……」
「そう……そう、よかっ、よかった……っ」
お互いを想うあまり苦しんでいたふたりが、自分を置いていかないでと泣くのではなく、互いの幸せを願ってよかったと見送れる。これは紛れもなく、愛の成せる業。どんな治療薬よりも万能な、彼らが引き寄せた奇跡の力。
皆が春香を温かい眼差しで見守る中、一叶は屋上の縁に向き直り、手を合わせる。
(もし来世があるのなら、新しい人生で彼がひとりぼっちではありませんように)
人は勝手に心を患うことはない。人の悪意や孤独が原因なのだ。
「皆、無事!?」
遅れて屋上に現われたエリクが、涙目で叫ぶ。
「お前、遅ぇよ」
和佐が腕を組み、呆れ気味に言う。
「救助用マット、手配してたんだよ!」
マット? と、翔太と一叶は立体駐車場の下を覗き込む。すると空気を入れて膨らませる黄色い救助用マットが敷かれていた。
「使わずに済んでよかったよ」
そう言いながら近づいてきたエリクは、部長のそばで足を止める。
「旅立ちびよりですね」
京紫朗が天を仰ぐ。皆もつられて顔を上げると、雲はどこかへと去っていき、空は青く澄み切っていた。
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