龍は白く巡り瞬く
伏潮朱遺
第1章 龍は画す
0
大学を卒業してすぐに結婚した。
相手には悪いけど誰でもよかった。
左手の薬指に印籠が欲しかった。
ただそれだけ。
一刻も早くそうしないとひたすらややこしいことになりそうだった。
大学のときに雪だるま式に増えた彼女候補は、
断っても追い払っても熨斗つけて返品しても減らず。
常に片手で足りないくらいは連絡がひっきりなしに来る地獄絵図。
大学のゼミで一緒だった、比較的(当社比)大人しかった女子に狙いを定めて3ヶ月見守った。
控えめに(当社比)アプローチしてくるところがマシだった。
告白を受け入れて、付き合うことにした。
それでもしつこく声を掛けたり連絡してくる女が後を絶たなかったが、付き合っている女子がまったく嫉妬しない(当社比)のでありがたかった。
夏休みのゼミ旅行で、ゼミ教官に証人なってもらって、婚約を発表した。
芸能人みたいだけど、あんまり変わらない。
そのくらいおおごとにしないと女が減らない。
結果。
さすがに結婚を決めたとなれば諦めるかと思いきや。
一部の熱烈な女が最後まで残った。
それでも無視に無視を重ねて、彼女といい感じにしているところを見せつけることさらに半年。卒業までにはあれだけいた女がごっそりいなくなっていた。
正直そこで相当に消耗していて、婚姻届も結婚式も彼女――妻に全任せ。
なんとかなった。のだろうか。
職場でも同じことにならなければいいのだが。
疲れた。本当に疲れた。
なんで俺だけこんな目に。
ただ人並みの幸せを享受したいだけなのに。
なんで。
妻は。
適当に選んだにしては当たりだった。
いい人だった。
それが救い。
龍は白く辿り瞬く
第1章 龍は画す
1
出所してすぐに会いに行きたい気持ちをぐっと堪えて。
手に職を付けて、住むところもなんとか決まってから。
探した。
先に探したら絶対に我慢できなかったから。
探せた。
いた。
市内のマンションに住んでいる。
一人じゃない。
二人で。
表札も出ている。
二人ということは、結婚したということ。
それはそうだ。
あれから10年も経てば。
子どももいるかもしれない。
いて当然だ。
ところでどのツラ下げて会おうとしているんだ。
奥さんになんて紹介する?
旦那さんが中学のときに毎晩カネで買ってたヤのつく。
絶対にダメだ。
俺がわざわざ壊しちゃいけない。
でも、顔くらいは。
「あの」仕事帰りの女性に話しかけられた。
「あ、えっとすみません」
「うちに何か御用ですか?」女性が輪湖と書かれたドアを指差す。
まさかの奥さんか。
スラっとした体型の、ショートカットがシャープな印象の女性。クリーム色のダウンコートを着ている。
いまは冬。
クリスマスが過ぎて年末に近い。
わざとその季節を狙った。
白光が思い出しやすいように。思い出してくれるように。
だって、10年ぶりに会って「誰?」じゃあまりに切ない。
「
「え、あ、はい、まあ」
「そうなんですか。今日は帰りが遅いんです。金曜の夜はちょっと寄るところがあって。良かったら中で待たれますか?」
いやいやいやいや。
素性のわからない、図体の大きいだけの怪しい男を家にあげるのはどうなんだ。
「どうぞ?」奥さんが鍵を開けた。
襲われるとかそうゆう危機感はないのか?
「あの、出直します」
「そんなこと言わずに。白君のお知り合いなら私もお知り合いです」
押しに負けて(断固拒むべきだったんだろうけど)中に入った。
築年数は古そうだが、入った瞬間暖かい空気が全身を覆った。断熱性が高いのだろう。
寒さが一気にマシになった。
3LDK。襖で区切られた畳敷きの間取り。こたつのある居間に案内された。
「すぐにお茶だしますね」奥さんがコートを脱ぎながら言う。
「いえ、お構いなく」
「白君あんまり知り合いとかいないし、ビックリしました」
18時。
明らかに邪魔な時間だろう。帰ってくる旦那のために夕食を準備しないといけない。
「お気になさらず。金曜の夕は別々なんです。言ったでしょう。白君、遅くなるって」
なんか、
不穏な雰囲気になってはいまいか。
「どうぞ?」奥さんが暖かい煎茶を淹れてくれた。
「いただきます」
「どこに行ってると思います?」
「さあ」
「精神科です」
正面の奥さんの顔を見た。
奥さんは湯呑みの縁を指でなぞっていた。「治療してるんです。しばらく仕事も行けてなくて。休職してるんです。なんでだと思います?」
わかった。
俺にはわかった。
「それを知ってる人な気がして、招待しちゃいました」奥さんが強かに笑う。「白君何も教えてくれなくて。たぶん、心配させたくないだけだと思うんですけど、ある程度は話してほしいですよね」
「もしそれを私が知ってるとして、彼の許可なしに話せません」
「それはそうですけど。ノーチェックで家にあげたご褒美?違うな。返礼?で何かヒントを下さいよ」
「あなたも感づいているはずですが」
なにせ俺なんかよりずっと長く白光を見守ってきたんだから。
奥さんが脚を崩す。楽にしてくださいね、と付け加えて。
「そりゃね。いろいろ気づきますよ」奥さんが言う。「やたらと女に好かれる外見なのに、いざコトに及ぼうとするとまったく役に立たないとか。おかげでこの10年、夫婦生活はほとんどなしです。だから子どももいない。夜はずっと悪夢でうなされてるし、きっかけがあると独り言が出るし。精神科を勧めたのは私です。あ、私、白君と大学が同じで、心理学を専攻してました。心理士とかではないんですが、知識はあるので」
そこまでわかっていて、俺の存在が現れて、ピンとこないわけがない。
言ってしまうか。
ここまで事情を喋らせといて何も返さないのも。
「言いたくないなら言わなくてもいいですけど、勝手に想像しときます。でも一つだけ。お願いというか、私からの懇願で申し訳ないですけど、白君を連れて行かないで下さい」奥さんが悲しそうな顔をした。「それだけ。お願いします。確かに夫婦らしいことは何もしてないけど、私は白君が大切です。家族なんです」
壊すなと言っている。
壊しに来たと思われている。
「お願いします」奥さんが頭を下げた。
「俺は彼の昔の男でもなんでもないんです。白光君は間違いなく女性のほうが好きです」
「じゃあ、どんな関係なんですか」
「ただちょっとすれ違った程度の他人です。会いたかったのは俺の一方的な希望です」
ちくたくと時計の針が動く。
こたつが熱いので足を外に出した。
「そんなわけないでしょう。その程度の感情で、会いに来ますか?」
詰められている。
言うべきなんだろう。
「教えてください。あなたが誰なのか。白君がよくなるためならなんでもしてあげたいんです」
「俺はたぶん、害にしかなりません。今日会ったことも忘れてもらったほうがいいです」
帰ろう。
立ち上がる。
「待ってください。お願いです。白君、うわごとで言ったことがあるんです。龍さん、て」奥さんが玄関まで追ってくる。「あなたのことじゃないんですか?」
ドアに手を掛けてから言った。「人違いです」
さすがに奥さんは、ドアを開けてまで追いかけては来なかった。
夢だろう。
嘘だろう。
そんなわけはない。
俺の名前なんか呼ぶわけがない。
何か狐か狸に化かされているに違いない。
もう来るべきではないが、白光が元気でないのが本当に心配だった。
2
白光の職場は市内の病院。事務職をしているようだ。
白光が通っている病院は職場ではなく、郊外にある謎の施設。国立更生研究所と銘打たれている。
そんなに重症なのか。
どうしよう。
会うべきではないのに。
大晦日。
電話を掛けた。
奥さんと一緒に年を越そうとしているのを邪魔してまですることだろうか。
あのときと逆転している。
番号はちゃんと憶えている。
「あ、あの」白光の声が泣きそうに聞こえて。
今すぐ会いたくなった。
既婚者を大晦日の20時に呼び出す理由。
あとでいくらでも考えればいい。
俺の住むボロアパートの住所を送った。
白光は30分ほどで来た。モスグリーンのダウンを羽織って。
白光が泣きそうな顔をして玄関に突っ立っていたので、抱き締めてドアを閉めた。
「会いたかった」
「龍さん、どうして?」白光がやっとそれだけ言った。か細いいまにも消えそうな声で。
「知ってると思うが、こないだ出所したばかりだ」
「え」
その反応だと知らないのか。
「妻だった女を殺したんだ。それと俺は警察的には眼の痛い組織のそこそこ偉い立場にいた」
白光が黙って聞いてくれている。
俺の背に手を回したまま。
「全部喋ってすっきりしたが、この始末がこれだ」俺は両手を広げて見せた。
白光の顔が歪む。
白光の家に行ったときは手袋をしていたので奥さんには知られていないはず。
「なんで?」
「何に対する疑問だ? それとも不満か」
「そんなことまでして」
「会いたかったんだ、シロに。いや、白光。悪いが名前を調べさせてもらった」
「そんなことどうでもいいよ。なんで、なんで俺なんかに会うために」
「愛してるからだよ」
お前のことを忘れた日はただ一日もなかった。
この十年。
お前に会いたい一心でなんとか生き永らえていた。
「愛してる、白光」
奥さんには釘を刺されたが、駄目だ。
本人を眼の前にしたら止まるわけがない。
思ったことがすっと口を伝う。
「愛してるんだ、白光」
薄い布団の上で交わった。
壁が薄いので音と声を極力我慢した。
ここは1階の角部屋。
隣と上から壁を蹴られていないのでまあ、大丈夫だったと思おう。
白光はずっと泣いていた。
溜まっていた涙が決壊したかのような泣き方だった。
この十年。
どんなに苦しかっただろう。
どんなに悲しかっただろう。
そうか。
俺は、
白光を一人残してしまったのか。
「龍さん、俺。幸せになったんです。魔法みたいな里親さんに拾われて」白光が俺の腕の中で言う。たどたどしく。でも、思いの丈を浚うように。「大学にも行けて、彼女もできて。その彼女と結婚して、仕事も順調で。でも、ふとおかしくなるときがあって。こんなに幸せなのに、心が空っぽなんです。俺には何もない。真っ白で。俺の名前みたいに。おかしくなっちゃって。あまりにおかしいから妻に精神科に行けって言われて。里親さんの伝手でいい先生のところに通ってるんだけど、いまいち効果が出なくて。毎日薄っぺらで、まっ平らで。もちろん妻とはエッチできないし、やろうとしてもいつも俺が全然盛り上がらなくて。ああ、俺こっちもダメになったんだって。そんなときに思い出したんです。龍さん、また助けてくれないかな、て。都合がいいでしょう? 俺がもう会わないって言ったのに。都合がいいときだけ利用しようとして。最低な奴すよね」
白光を強く抱き締めた。
熱のない白光を。少しでも温めたくて。
「利用してくれていい。悪かった。十年も放っておいて」
まさか俺のことを憶えていてくれているなんて。
そんなに当てにしてくれていたなんて。
嬉しすぎて気が狂いそうだ。
「ホントすよ。俺、何度も何度も電話かけたのに。メールも全部つながんなくて。もしかして死んじゃった?て思って。そこからまた熱がなくなっちゃって。冷たいがらんどうみたいな空っぽの俺が、なんで生きてるんだろうって。気づくの遅すぎだったんですよ。死のうとは思いませんでしたが、生きてても意味ないなって」
「よく生きててくれた。ありがとう。また会ってくれて」
「あのときもそう言ってくれましたよね、龍さん。俺も、て言ったら喜んでくれますか?」
「リップサービスだろ? 嬉しいよ」
「もう俺、お金もらわないんで。サービスとかオプションとかしないです」白光が照れくさそうに言った。
そんな。
都合のいい。
俺だけに都合のいい白光がいるわけがない。
でも夢でもいい。
嘘でもいい。
白光の輪郭を全身が記憶している。
「あー、やばー」白光が上体を起こしながら言う。「
カウントダウン。
年が、
明けた。
「あけましておめでとう、白光」
「おめでとうございます、龍さん」
「今年もよろしく」
「ほんとすよ? 今年も、よろしくしてくれますか?」
「もちろん」
朝まで静かに盛り上がった。
気のせいじゃない。
白光が苦痛に堪える顔をしていない。艶っぽい演技をしていない。
素のままの白光が俺の腕の中にいる。
そのことが本当にうれしい。
白光は疲れて眠ってしまった。
額にかかる長い前髪を撫でる。
白光のケータイはずっと沈黙していた。電源を切っただけかもしれない。
それから毎週金曜の夜。
白光が家に来てくれることになった。
奥さんに言ってきているわけがないから、内緒なのだろう。
このことがどういう結果を招くとも知らずに。
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