第22話 孤児院の少女、アムリータ
礼拝堂を囲むように配置された曇りガラスから、午後の陽光が差し込んで主なき司祭席を照らした。
そこから少し手前の信者席にぽつんと一人、少年がひざまずき、熱心に祈りを捧げている。
人けのない礼拝堂の空気はひやりとして清しい。
少年、ローリー・モンテスはこの教会の存する領地の総督である。ゆえに彼は規範を逸脱したものを裁かねばならない。
神は人を造ったがゆえに、裁くことができる。では、被造物である人が、神に代わって、同じ人を裁くことは許されるか。彼はその答えなき問を、心に抱き続けてきた。
そんな少年を、甘く、感傷的に過ぎると評価するものもあるだろう。しかし、ローリーは総督として、犯罪者の恐ろしい末路を目にしてきた。自ら手を下すことさえも、あった。
もし、判断に誤りがあったなら。罪のない人が裁かれる事があったなら。それこそが取り返しのつかない、罪ではないか。
ローリーは祈った。女神に祈りをささげることで、自らの迷いを断ち切ろうとしていた。
だから少年が、背後からそっと近づいてくる人物に気づくことはなかった。
「偉いのね」
「わっ」
突然、背後から声をかけられてローリーは驚いた。声をかけた人物も慌てたようだ。
「ごめん、そんなに驚かなくても。でも、お祈りを邪魔してごめんなさい」
それはローリーと同じオレンジ色の髪を、ポニーテールにまとめた少女であった。紺のエプロンを身につけている。青いつり目に形の良い鼻が印象的な、美少女である。見たところ、年はローリーよりも五、六歳は上に思われた。
「はじめまして。何のごようじ?」
「いや、僕は、お祈りしに来ただけです」
少女はローリーを眺めまわした。質素な身なりであるが、商家の息子にしては仕立ての良い服を身に付けている。しかし、貴族の子どもがこんな場所に一人でやってくるはずがない。
少女はローリーを、ここ、慈愛の水がめ教会に連れてこられた、孤児の一人であると判断した。
「あなたもみなしごなの?」
ローリーは少女の言葉が聞き取れなかった。しかし、笑顔を作ってあいまいに応答する。
「ええ…そのようなものです」
「そう、なら私たちは今日から友達ね。でも…」
少女は困ったように言った。
「残念だけど、ここではもう、子どもの面倒は見ないの。残念だけどね」
グザール第一管区の慈愛の水がめ教会。ここは孤児院を経営し、身寄りのない子どもたちに食事や、寝床を提供するなどしていた。その責任者、マザー・グレースは高齢のため引退を余儀なくされたが、後継が不在のため、孤児のための奉仕活動は終了しようとしていたのである。
今日、ローリーは、マザー・グレースのために開かれた、ささやかな慰労の集いに、大口の献金者として呼ばれていたのであった。だが、ローリーはそのことを少女に伝えることはしなかった。聖典の教えに従い、善行を自ら語ることはしないと、考えていたからである。
「あなたの様な女性が、子どもたちの世話を?」
「へえ、大人みたいな口をきくのね。あなたって」
年下の少年の整った身なりと口ぶりに、少女は馬鹿にされたと思ったらしい。彼女は突然、自分の身に付けている所々すり切れたスカートや、エプロンを恥ずかしく思った。慇懃なローリーの態度に、うっすらと不満がにじむ。ローリーはそれを敏感に察した。
「いや、ちがうよ。ごめんなさい。お姉ちゃんみたいな人が、子どもを助けてくれるんだって、嬉しくなったんだ」
ローリーは精一杯の笑顔を作った。すると、少女も、優しい笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。だって、親のいない子はみんな兄弟姉妹でしょう?誰だってみんなマヌーサ様の子どもなんだから」
ローリーの顔がぱっと明るくなった。
「僕も、そう思います!お姉ちゃんは、とっても素敵だ」
ローリーは握手を求めて右手を差し出した。少女は赤く染まった頬を隠すように、勢いよく手を握り返して言った。
「あなたいくつ?ずいぶんとおませさんだこと」
「僕はローリーといいます。お姉ちゃんは?」
「私はアムリータ。よろしくね、ローリー」
アムリータは精一杯、自身を大人っぽく見せようと、気どって腕組みをした。すると、そのしぐさは少女の可愛らしさを一層引き立てたのだった。
ローリーとアムリータが教会を出ると、庭にたくさんの子どもたちが集められていた。ローリーは質素倹約を美徳とする教会に合わせて、正装ではなく、平服で訪れていた。当然、孤児らの身なりはローリーよりもずっと貧相である。皆、ローリーと同じくらいの背丈で、ほとんどの子どもが粗末な麻の貫頭衣をまとっている。しかし、それぞれ顔がきれいに清められており、ちゃんと靴を履いている。子どもたちは、好奇の目でローリーを見つめた。
「みんな、ここで暮らしているんですか」
「そうよ。今まではね。さあ、みんな、働かざるもの、食うべからず、よ!」
アムリータが指示を与えると、三々五々、各々の役割を果たすために子どもたちは散っていった。2、3名の子は、話を聞いておらず地面の石で遊び始める。
「ほらほら、なにやってんの。早く水汲み手伝いなさいよ!お昼食べられないわよ!もう」
教会と、宿泊棟で挟むようにして大きな庭があり、そこにテーブルがいくつも並べられている。宿泊棟からマザー・グレースが姿を現した。
グレースは七十歳を超える長命の女性であり、五十年近く、この教会で貧しい人たちや、孤児たちに奉仕活動を行ってきた。慈愛の水がめ教会の運営は、全て貴族からの寄付で賄われており、ヒース夫人らの結成したグザール奉仕の水がめ基金も、その多くを負担している。
しかし、長引く戦争によって若い働き手が管区全体で減少し、人手不足はどうにもならなかった。
「マザー・グレース。および頂いて、光栄です」
マザー・グレースは司祭補という、聖職者階級でも下位職を任じられていたが、その功績はだれもが認めるところであり、実質的に第一管区の儀式責任者として組織内でも、外部においても、敬われていた。司祭補の特徴的な頭巾でおおわれているが、その頭髪は真っ白で、それは彼女の長く、愛に満ちた人生があらゆる穢けがれを洗い流してしまったからであると、言われていた。しわが刻まれているものの、年齢に比して肌には張りがあり、認識もはっきりとしていて、仕事も早く正確であったという。マザーというのは女性の聖職者に付される敬称であり、彼女の本名を知るものは少なかった。
ややくぼんだ眼窩には、優し気な小さな瞳が輝いていた。
「ローリー・モンテス。短いお付き合いでしたが、神のお引き合わせに、感謝します」
手のひらを内に向け両腕を胸で交差させる、教会式の挨拶を2人は交わした。
「マザー、そろそろお席のほうに」
職員に促されて、グレースは席につく。9月。ここのところ肌寒い日が続いていたが、今日は天気も良くぽかぽかとした陽気で、時折、秋の訪れを告げる優しい風が吹いた。
ローリーのもとに若い男が駆け寄る。先日、飛蝶騎士団に入団した、騎士見習の少年、レイザーである。
彼はローリーよりも年かさで身長も高い。だから二人並んだ姿は、まるで兄弟のようである。
「ローリー様。通りで男があなたに、これを」
レイザーはローリーにリボンで飾られた生花を手渡した。
「ありがとう。誰かな?」
「それが、名乗らずに行ってしまって。怪しいものではないと思いますが、体格の良い、兵士のような男です。金髪の」
ローリーはグレースが座る、主賓席に赴いて花を手渡した。
「マザー、お届け物です」
グレースは花を受け取り、そっと顔を近づけた。
「いい香り。ありがとう、わかるわ。どの子がこれを、私に渡したのか」
グレースはため息をついた。ローリーは何故だか、彼女が悲しそうな様子であると思った。
「マザーは、今まで面倒を見てきた子どもたち、皆を覚えているのですか?」
「ふふ、まさかね」
マザーは笑った。その笑みは少女のように愛らしい。
「でもねローリー。手のかかる子ほど、記憶に残るものなの」
グレースは過去に思いをはせていた。
「私は罪深い女です。でもね、生きていなければ、罪を犯すことだってできません。そうでしょう?」
ローリーは黙ってグレースの表情を見つめていた。
「ここではかつて、子どもたちは犯罪者になるか、死か、どちらかを選ばねばならなかった。そして私は、子どもを助けたかったの」
どこかで、誰かが、似たような科白を使っていたな、と、ローリーは感じたが、思い出せなかった。
「さあ、席にお着きになって、ごめんなさいね。おばあちゃんはね、今この時よりも、過ぎていった時のほうが、ずっと鮮やかなの。困ったわね」
ローリーは黙って微笑み返し、席についてパーティーの始まりを待った。
食事はパンにチーズ、魚、ワインの質素なものであった。子どもたちから、マザーへと花束の贈呈があり、多くの来賓が、マザーと直接、話をしたがった。
街の顔役から、労働者まで、大勢の人が彼女に感謝の言葉を述べ、別れのあいさつを交わした。きっと孤児院の出身者も多くいたことであろう。マザーは疲れが出ていた様子だったが、その顔は喜びに輝いていた。
「この孤児院の運営から、手を引かなければならない事、心から、苦しく思います」
マザーは最後の挨拶を述べていた。
「ですが、私自身が皆の手を煩わせる存在になってしまうことは、本望ではありません。子どもたちを置いていく事が、一番の心残りです。ですが、私がここで奉仕を始めて学んだこと、それは」
マザーはここで言葉を区切った。
「誰もがその内に、生きる輝きを秘めているという事です。そしてその輝きが表れるのは、日々の祈りによってです。どうぞ祈ってください。そして、自分の中の輝きを、恐れないで。どうぞ、空高く、掲げてください」
マザーが座ると、拍手が起こった。拍手が鳴りやまない。いつまでも、拍手が青い空に響いていた。
マザーはその日からグザールの聖職者協会が運営する養老院に入所した。そして同時に孤児院は、その役割を終えたのだった。
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