第4話 霧の中の運命

さて、ローリーが騎士となったあの日から、モンテス城の貴族階級では議論が巻き起こっていた。その内容は、ローリーが覚醒の儀式に失敗していたのではないか、という疑義である。


先に述べた通り、かつて覚醒の儀式は騎士の初陣ういじんを再現するものであった。闘技場に捕虜を放ち、八歳の貴族の嫡子とその部下とが戦い、勝利を収める、そのような見世物であった。しかし、捕虜が武器を奪って貴族の嫡子が怪我をするなどの事故がたびたび起きたため、現在の様な形式となった。


覚醒の儀式は、成人を迎える者が自身の手で捕虜を殺害するか、または自身の配下に命じて捕虜を殺害することで完了する。


戸惑うローリーの姿を、多くの観衆が目撃していた。とどめを刺したのは配下の老騎士であったが、ローリーがその際に、殺害を命じたのか、命じていなかったのか、明らかではないというのが、疑いの発端である。ローリーがもしも殺害を命じていなかったとすれば、捕虜の死はローリーの手柄ではないという事になり、ローリーは覚醒の儀式に失敗したという結果が導かれてしまう。


モンテス家内の勢力争いが、諸侯候補の覚醒の儀式という節目で、早速始まってしまっていたのだ。モンテス八世がモンテス家の実権を掌握していることは確かであるが、王国の宗教界は諸侯らとはまた別次元の権力を有している。宗教界の一部派閥は、ローリーの政治的地位を低下させ、相対的に自身の地位を向上させようという野心を抱いていた。


辣腕で知られるモンテス八世とて、そのような状況を看過していたわけではない。しかし、巨大な権力集団であるモンテス家を、諸侯一人でまとめ上げることは困難になっていた。そこで、モンテス八世は自ら次の一手を打とうとしていた。


彼は、その執務室において、親戚でもあるファルドン司祭とふたり内密の会話を交わしていた。


ファルドンは僧帽に黒い司祭服を身に付けた四十五歳の男性で、丸いメガネの底に柔和な小さい目が光を放っている。モンテスの高名な神学者であり、領内の男子の多くは神学分野において彼を師としていた。ファルドンを味方に付ければ、聖職者集団の意見をまとめることが容易になるとの、モンテス八世の見立てであった。




「では、ローリーの身に危険が及ぶと?」


ファルドンの報告を受け、モンテス八世が不愉快さを隠すことなく言葉を発した。ファルドンは驚いたように否定した。


「いえいえ、そのようなことは…ただし、この一件が大きくなれば、ローリー様の諸侯への道程に、後々、何かと…」


口を濁すファルドン。ため息をついたモンテス八世は、滑らかな布地で覆われた椅子に身を沈めて、白くなったあごひげを撫で始める。


「あれは優しすぎる。聖典の記述を真に受けている。よもや異教徒の捕虜にまで、慈いつくしみの目を向けるとは」


ファルドンは頷く。


「ところでファルドンよ。ローリーが次期諸侯と決まったわけではないぞ。なによりも、あれは若すぎるではないか」


しきりに眼鏡をいじっていたファルドンは、恐縮し、慌てて頭を下げる。平身低頭の体ていである。


「しかし、その…やはり城内の口さがない者は、そのような噂を。ローリー様は並外れた能力を示しておられる、それゆえに」


「うむ…諸侯とは出自だけではない。騎士でなくとも、そう、貴殿のような聖職者であってもな。政治の力を扱うことが出来なければ、務まらぬのだ」


遠くを見つめるモンテス八世。ファルドンはそんなモンテス八世を見つめた。老いたな、モンテス八世よ。ファルドンは共に歩んだ過去を振り返っていた。


「ローリーをグザール領に送る」


「それはヤグリス様のご提案でしょうか?」


ローリーの母、ヤグリスはグザール公の孫娘であり、結果、グザール領はモンテス家と強い同盟関係で結ばれている。モンテス八世はファルドンの質問それ自体には答えなかった。


「ローリーは若い。しかし、驚くべき速さで修練を重ねている。ローリーにいかほどの政治の力があるのか、見極めさせてもらう」


ファルドンは首肯した。やはり、父はわが子にゆくゆくは諸侯の座を譲るつもりのようだ。言葉の端々はしばしから、この醜聞から一時でもローリーを引き離したいという思惑が、透けて見えていた。


「バスチオン」


モンテス八世がその名を呼ぶと、まるで影から現れたかのように黒衣の執事が控えて立った。バスチオンは極めて優秀な男である。しかし、ファルドンはバスチオンに言いようのない不信感を持っていた。バスチオンもかつてはモンテスの神学者であったというが、その来歴は不明である。ファルドンは自身が若いころよりバスチオンと付き合っているが、この老執事は全く歳を取っていないようにも見える。


「ローリーをグザールに遣やるから、準備を進めてくれ。ごくごく内密にな」


モンテス八世は視線を向けずに、傍らの執事に命じた。


「万事心得て御座います」




一方、ローリーは、自室の窓からぼんやりと階下の訓練場を眺めていた。開け放った窓から、爽やかな午前の風が吹き込んで白いカーテンを揺らした。訓練中の騎士たちの威勢の良い号令が部屋の中に響いてくる。


騎士団長である母、ヤグリス自らが近衛騎士らに訓練を施していた。ローリーは、騎士となるための訓練全て修了したために、あの日から自室で読書するなどして休暇のように過ごしていた。身体は休まっていたが、ローリーには、成人の儀式で失敗してしまったという悔悟が、のしかかっていた。


ずっと、父や母に弁明の機会を与えられぬまま、ローリーは鬱々と過ごしている。ふいに控えめなノックの音が響いた。


「どうぞ」


ローリーが応じると、トレッサが入ってきた。


「おにいさまは、もう騎士なのね」


「そうだよ。一番に、トレッサを守ってあげるから」


ローリーは窓から離れて、ソファに腰かけた。するとトレッサもちょこんと隣にかける。


「歌のレッスンはいいの?」


「先生がお腹を壊したんですって。おにいさまこそ、朝はお馬のお時間なんじゃない?」


「僕はもういいんだよ。それよりお腹を壊したって?あんなに大きなお腹が壊れたら大変じゃないか」


ローリーのおどけた表情に、トレッサは笑った。


「お酒の飲みすぎよ。たまにとってもお酒臭いのよ。レッスンなのに。先生ったら」


昼食まであと一時間ほどある。ローリーがトレッサと二人きりで話す時間は、久しぶりであった。二人は水差しからそれぞれ水を注いで飲んだ。


「ひさびさにお話をしてあげようか?」


ローリーは読書家で、様々な神話、伝説、教訓話を知っており、また旅人の語る異国の様子など、トレッサに語ってやったものである。今は兄妹別々の寝室が与えられ、楽しい夜のお話の時間は久しく無かった。トレッサは兄との、この就寝前のひと時を、一日の内でも特に楽しみにしていた。


「ううん。それより、おにいさまのお話をして。ねえ、おにいさまは本当に儀式で人を殺したの?」


これは気まずい質問であった。ローリーは微笑んでいたが、トレッサはたった今、優しい兄がとても苦しんでいるのに気づいた。そんなトレッサの心情変化を敏感に察したローリーが、素早く返答する。


「そう、殺してしまった。仕方がなかったんだ。悪い人間だったからね。捕虜になっているのは、ブレイクに戦争を仕掛けてきた、悪い人間なんだ」


悪い人間であれば、殺してもいい。いや、殺すべきなのだ。騎士として。このロジックは、いくばくか彼の心の慰めにはなった。しかし、拘束され恐怖に震える捕虜は、本当に悪い人間と言えたのか。


闘技場で立ち尽くしてしまったとき、ローリーの小さな頭に渦巻いていた疑問が、再びうねり始めた。ローリーはトレッサに助けを求めるように、その愛らしい顔を見つめた。


「でも僕は、どんな人間であっても、殺すのは嫌だな。マヌーサの下では、誰もが兄弟であるはずだ」


懇願するような兄の表情を、トレッサは今までに何度か見たことがあった。例えば生き物を殺すとき、ローリーはいつもこんな哀しい目をしていた。トレッサは思わずローリーを抱きしめた。


「おにいさまは、素晴らしい心の持ち主だわ!おにいさまは、やっぱり本物の騎士様だわ!」


トレッサは、兄をいたわって精一杯、励まそうとしていた。そのことが、ローリーの心の支えになった。


「そうだよ、僕は騎士だ。一番にトレッサを守ってあげるからね」


「じゃあ私はおにいさまのために一生懸命、聖歌を練習するわ!」


そんな仲睦まじい兄と妹のやり取りを、影で聞いていたものがある。その男は、静かに扉の外を離れ、ヤグリス夫人の部屋に向かって歩いて行った。

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