第7話 青年と聖女3
「これはまた、大胆な仮説を出したものだな。」
スルトはベンチの上で、隣に座るアトラを驚愕の表情で見る。まさか、帝国軍人の実力者がこのような発言をするとは。
もしやクーデターやら何やらに加担しろと言うことか。下手をすればクーデターの首謀者の罪を着せられ、それを言い分にガギア帝国総出で五大元素の民を潰しにかかるかもしれない。
発言は慎重にせねばなるまいと、スルトは気合いを入れ直す。そして、アトラの次の言葉を注意深く待った。
「誰でも思いつく話だろう。我々と貴方がたは歴史的に対立してきたが、それでも問答無用で殺し合うほどでは無かったはずだ。それに今の五大元素の民を率いている方々は、穏健派の方が多いと聞いている。何も策謀がなく戦いになるとは思えない。
その上こちらの上官がきな臭い男でね…」
この男は、責任を取る立場でないからペラペラと…と、スルトは内心穏やかでない。
実際、本当のところどうだったかはスルトにも分からないのだ。
件の会談を取り仕切っていたのは、五大元素の民の中でも火の民と折り合いの悪い水の民。直情的な火の民とは打って変わって、水の民は策謀を巡らせるのが好きなのだ。
会談では帝国側から攻撃があり、送り込んだ特使は尽く殺されたという報告を水の民から受けているのみ。帝国側の認識とは真っ向から対立する形だ。
そんなことを思案するスルトに対し、アトラはさらに続ける。
「なんというか、オールドツリー方面軍の指揮を執っているベルガス一等機将は野心が強すぎる人でね。何か良からぬことを企んでるんじゃないかと…まぁ、もちろん勘だが。」
…わからない。この男が何を言いたいのか。下手な発言をすると足元を掬われる可能性もある。
スルトは黙ってアトラの話を聞くしかなかった。
「そこで、だ。俺ともう一人、計二名を貴方たちの本拠地へと連れて行ってほしい。」
と。黙って聞いていれば、何を言ったのだこの男は。スルトはアトラを見つめたまま、眉間に皺を寄せる。
アトラは今まで帝国側のきな臭い動きを懇切丁寧に説明していたはずだ。それなのに、帝国軍人を本拠地に連れて行けと?
そこで、では話が通らないだろう。
「…もう少し、詳しく説明してはもらえないか。いささか話が飛びすぎた。」
しかし。どう考えても信用できないはずの目の前の男だが。なぜか話の続きが聞きたくなるような、不思議な魅力がある。スルトはアトラに対し、得も言われぬカリスマ性を感じていた。
だからこそ、明らかな無理難題に対しても、思わず深掘りして聞いてしまったのだ。
そんなスルトに対し、アトラは人好きのする笑顔を向ける。アトラとしては単純に、相手が自身の話に興味を持ったことに対する喜びの笑顔だ。しかし、見ているスルトは、なぜか期待してしまっていた。今何か、時代が動いているのではないかと。自分はともすればとんでもない瞬間に立ち会っているのではないかと。
「深読みしないでほしいんだが、俺は本当にこの戦争を終わらせたいんだ。個人的な事情で俺は平和を目指してる。だから協力してほしいというだけだ。」
…何を言っているのか。スルトはさらに混乱する。
このまま会話の主導権をアトラに任せたままだと、埒が明かなそうだ。スルトは知りたいことを自分から問うこととする。
「…動機は一先ず分かった。私たちの本拠地に来て何をするつもりだ?」
どう考えてもリスクが大きすぎる。同胞の屍の上に今の階級まで上り詰めた男を、本拠地に招くなどあり得ない。少なくとも、スルト視点では間違いなくそうだった。
「そちら側の言い分を全て聞く。その足で、こちらの上にも掛け合いに行く。最後に悪いヤツを殴って、話は終わりだ。」
訂正する。カリスマ性などない。この男はただの気狂いに違いない。
「皇帝からの命令はどうなのだ?それは命令違反では無いのか?」
もう1つ、気になっていたことを聞く。ガギア帝国は規則や法律が厳しいと聞く。皇帝の命令に逆らったとなれば、命もないのではないか。
「皇帝陛下からの命には反さない。陛下は『戦争を早く終わらせろ』と仰った。勝てとは言われてないのでな。」
…詭弁だ。そんなもの、五大元素の民の内でも通じまい。
スルトは呆れ、ベンチから立ち上がる。
だが、立ち上がるスルトの背に、アトラは続く言葉を投げかける。
「俺は、リーヴくんに伸び伸びと育って欲しい。彼は…いや、彼だけじゃない。帝国も自治区も、双方の子供たちが戦争に脅かされてはいけない。」
ベンチから遠のきかけたスルトの足が、ピタリと止まる。
「…それは脅しか?三等機兵。」
スルトの体に再び火が灯る。返す言葉次第では、アトラは灰になるだろう。
だが、アトラは恐れも躊躇もせずに、純真な言葉で応じる。
「脅しじゃない。彼は純粋に武の道を極めようとする、一人の少年だ。
彼のような、夢や何かを追いかけている子供の未来を、戦争なんていうくだらないもので閉ざしてはいけない。」
戦争など。アトラの妹然り、不幸な子供を生むだけだ。
アトラは立ち上がり、スルトの肩に手を置く。その肩は、アトラの手を器用に避けて未だ燃えていた。
「リーヴくん…いや、貴方の息子さんのためにも、俺が代わりに戦争を終わらせる。信じてくれ。」
振り返るスルトからは、火が消えていた。
「…気付いていたのか。」
スルトはどこか覇気のない顔で、声でアトラに尋ねる。張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れてしまった。
なんとかこの場をやり過ごして息子を助けようと考えていたが、この男にはお見通しだったのだ。
「それは…な。ここは敵地のど真ん中だ。貴方とて無傷では帰れないだろう。
火の剣と言えば貴方たちの中でも重要人物。そんな貴方が自分を顧みず、ここまで来たということは…自ずとな。」
息子の魔力を感じなくなってすぐ、誰の制止も振り切ってここまで来た。途中まで追ってきていた部下たちも、国境を越えるあたりで追跡をやめた。
それはそうだ。それ以上は命の危険がある。
スルトは大きなため息を吐く。そして目の前の男を見やった。
「冷静に見えて、貴方もしっかり火の民ということだな。俺も守りたいものがある口だ、その行動を非難は出来んがね。」
アトラはスルトの肩から手をどかし、にやけた顔で握手を求めた。
「俺の言葉には一つも嘘は無い。なんならば、道中は魔機を貴方に預けよう。
…この戦争を終わらせるため、俺に力を貸してくれないか?」
ここまで自分に有利な状況を(狙ったで無いにしろ)作っておきながら、あくまでもこの男は下手に出る。
スルトはこの時、どこかおかしくなっていたのかも知れない。或いは、息子を人質に取られたも同然の状況で気が動転したか。
気付けば、スルトはアトラの手を取っていたのだった。
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一呼吸ついて落ち着いたエイレーンは、なんとか平静を取り戻していた。それと同時、こうも思っていた。
平和だのなんだの言っていた割には、結局アトラも軍人なのだと。無骨な魔機を身につけた彼は、戦争を止めてくると言った。
結局は武力に訴える、帝国軍人そのものなのだと。
どこかがっかりする自分に驚きながらも、彼女はまだ彼の言うような運命を感じていなかった。
…それにしても静かだ。戦いの余波を恐れ、住民たちが地下壕に避難したにしても、静かだ。そもそも、アトラと襲撃者の戦闘音が聞こえない。
あれだけの啖呵を切っておきながら、まさかもうやられてしまったのか。それならば早く言っておいてほしい。治療が無駄になる。
いつになく饒舌な心の中を自覚し、エイレーンは不思議な気持ちになる。単なる患者、それも帝国軍人の生死など、ここまで気にするほどのものではなかろうに。
いや、患者だからこそ気になるのか…?
そんな思考を遮るように、ギィと扉の開く音がする。
襲撃者かもしれない。できるだけ刺激しないようにと、ゆっくりそちらを見る。
すると、そこに立っていたのは、厳しい男の肩に手を回したアトラだった。
「どうだスルト殿。あそこにいるのが俺の妻、イドリス信徒のエイレーンだ。正式な挙式はまだだがな。」
あまりの驚きに、エイレーンは訂正のタイミングを逃す。
「ほう。彼女がリーヴを治療してくれたという...確かに、アトラ殿に独占させるには惜しい美人であるな。」
そうだろうそうだろうと笑うアトラを見ながら、エイレーンの思考は徐々に正常に戻っていた。
何からどう聞くべきか。とにかく、恐らく襲撃者なのであろう隣の男について尋ねるべきか。
「...アトラさん。そちらの方は?」
今は結婚だとかなんだとかはどうでもいい。とにかく自分の、この集落の人々の安全を確保するために、この男の素性を明かしておかなければ。諦観と使命感がないまぜになった複雑な気持ちで、エイレーンは尋ねる。
「ああ、すまない。こちらは五大元素の民、火の剣のスルト殿だ。さっき俺が連れてきて君が治療した少年、リーヴ君の父君だ。警戒する必要はない。
リーヴ君の身柄と引き換えに、俺たちを五大元素の民の本拠地まで連れて行ってくれる約束になっている。」
アトラは悪びれもせず、さも当然かのように答える。
確かに身元は分かったし、警戒する必要はないことも一応はわかった。しかし、アトラの発言はエイレーンにまたも新たな疑問を生じさせる。
五大元素の民の本拠地?いつそんなところに行くという話になっていたのだ。
だがそんなエイレーンの様子は置いておいて、アトラは続ける。
「とりあえず、リーヴ君のところに連れて行ってあげてくれないか。一目見て彼も安心したいだろうから。」
…言いたいことをぐっと堪え、エイレーンは一つため息をつく。
「わかりました。ではスルト…さん。こちらにいらしてください。それとアトラさん。少しここで待っていなさい。」
誰が見ても不機嫌とわかるような態度のエイレーンは、アトラに指さしながらそう告げるとスルトと診療所の奥に消えていった。
「…エイレーン殿と言ったか。貴殿も大変だな。アトラ殿はかなり強引な男だろう?」
診療所奥の薄暗い廊下を進みながら、火の剣からの質問を受けるエイレーン。
ええ、それはもうと答えるのを堪える。エイレーンとしてもこの場がより混沌とするのは避けたいところだった。
「...まさに今、実感しているところです。」
ため息混じりのその発言に、スルトは豪快な笑いで答える。
「ハッハ......だが、あの男は見所がある。これは勘でしかないがな。
彼との出会いは、何か時代を大きく変えるような気がしてならんのだ。貴殿も彼を離さぬようにな。」
それはどうも、そういたしますとエイレーンは100%の嘘でもって返すが、スルトは満足したようでそれきり話さなかった。
なんなのだ。誰も彼も勘だの運命だのと。まさに運命に見放された父と祖父を持つエイレーンが嫌いな言葉だった。
少しの憤りを感じたまま、突き当たりの扉をノックする。
「婦長さん、その子のお父様をお連れしました。」
ガチャリと内側から扉が開く。厳しそうなスルトを見てひっと小さな悲鳴をあげた婦長は、ちょっと、と言ってエイレーンだけをまず中に入れる。
「聖女様、この子の親ってことは火の民なんだろう?...大丈夫かい?」
エイレーンは婦長を落ち着かせるように極力笑顔で返す。
「大丈夫です。間違えても敵対しようとなんかしてはいけませんよ。下手をするとこのピニオンが丸ごと灰になりかねません。
それに、彼はアトラ三等機兵のお客人です。敵国の人間ですが、悪い人間では無いのでしょう。息子を心配する一人の父親として接してあげてください。」
静かに聞いていた婦長だが、突然両の頬を手のひらで叩くと、リーヴの治療を再開した。
「聖女様がそこまで仰るなら大丈夫でしょう!入ってもらって結構です!」
そんな婦長の様子を見て安心したエイレーンは部屋を出ようとする。すると婦長がなんとはなしに問う。
「外にご用事ですか?」
エイレーンは顔だけ振り返り、どこか怒りを感じる笑顔で答える。
「ええ、頭の治療が必要な患者さんがおりまして。」
婦長は何かを察し、それ以上引き止めることはしなかった。
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「アトラさん。お聞きしたいことがいくつかあるのですが。」
こめかみに青筋を浮かべたエイレーンがアトラに問う。場所は、先程までスルトと会話をしていたベンチだ。
心地よい風が吹いており、陽気も穏やかだというのに、二人が並んで座るそのベンチの周りには一触即発の緊張感があった。
「…すまない、先程まで少し舞い上がっていたことは認めよう。ちゃんと順を追って話すから。そう不機嫌な顔をしないでくれ。」
落ち着きを取り戻したのであろうアトラは、先ほどとはうって変わって大人しくしている。エイレーンより一回り大きいその体が、今は遥かに小さく見えるほど縮こまっている。
「そうしてください。でないともっと不機嫌になります。
第一に、私とその…結婚するとはどういうことですか?」
改めてよく考えなくても普通におかしい。何がどうしたらそういう流れになるのか。
対するアトラは、回答の内容自体には自信があるらしく、胸を張って応える。
「それはもちろん、君に皇帝との謁見機会を与えるためだ。俺は近いうちに五大元素の民との戦争を終わらせる。その功績があれば勲章を授かることが出来る。その時に皇帝との謁見も叶うだろう。
逆に言えば、そうでもしないと会えないお方なのだ。そしてその受勲式には、対象者の家族の同席が認められている。だから君が一番早く皇帝と謁見するには、帝国軍の実力者と結婚するのがいい。」
何かとんでもないようなことを言っていた気はするが、一応筋は通っている。皇帝やその周りのセキュリティは非常に厳しく、受勲式などの場でないと皇帝は人前に姿を現すことさえないという。
だが、ただ納得してしまうのでは気が済まないので、エイレーンはアトラに仕返しをしてやるつもりで意地悪を言う。
「でしたら、アトラさんじゃなくてもいいですね?他の有望な方をご紹介いただけますか。」
そんなエイレーンに対し、アトラは真っすぐに目を見つめたまま間髪入れず反論する。
「それは嫌だ。君が俺以外の男と結婚すると思うととても嫌な気持ちになる。」
高嶺の花は、それゆえに丁重に扱われすぎる。どこかの家で綺麗に咲きたいと願っても、皆勝手に先客がいると思い込んで眺めるだけに留めるのだ。
要するに、今まで異性に言い寄られたり、アプローチされた経験が少ない。エイレーンは男性への耐性があまりないのだ。自身に向けられたあまりにも真っすぐな好意に、うぐっと小さなうめき声をあげることしか出来なかった。
気持ちを入れ直す意味でも大きなため息を一つ吐き、今の発言はいったん忘れてエイレーンは続ける。
「…第二に、五大元素の民の本拠地へ行くというのはどういうことですか?そんなことを頼んだ覚えはありませんが。」
そもそも、よく合意が取れたな、とは話が長くなるので問わない。まずはどうしてそんなことをするのか、そこが気になった。
「それが戦争を止めることにつながるんだ。この戦争はそもそもおかしい。」
アトラは肘を膝につき、手の上に頭を乗せる。考えながら話をするときの格好だ。エイレーンはその横顔を見つめながら、無言によって続きを促す。
「帝国が欲っしてやまぬが、五大元素の民は全く必要としない鉱物資源。帝国側はしっかりと対価を用意した上での会談だったし、実際前段階としては五大元素の民側にも好意的な意見が多かったんだ。
それなのに、開戦した。誰が得するんだ?この戦争は。」
問われ、エイレーンも考えてみる。両者とも無駄な損耗が続き、被害は広がるばかり。だが、損益のどちらかが生じなければ”戦争”ではなくいざこざで終わるはずだ。少なくとも、帝国側の人間にその気があれば、それで治めることもできたはずだ。
「…軍人は、戦いがないと上に行けないんだ。大きな戦争に勝利したともなれば、かなり評価されるだろう。相手が少数であり、かつその領土の下に鉱石資源があるとなれば、ただ交渉してその資源を受け取るより戦争で勝って奪う方が功績になる。
要するに、俺はベルガス一等機将…オールドツリー戦線方面軍の軍団長が怪しいと思っている。
その上どうやら、五大元素の民の内にも怪しい動きがあるらしい。全てを明かしてわだかまりを少なく終戦させるには、どうしても自治区内での調査が必要だ。」
そして、穏便に終戦させた立役者ともなれば、受勲が期待できる、と。なるほどまた筋は通っている。だが、とエイレーンは再び問う。
「なぜ私を連れていくんですか?妻を危険な場所に連れていくのは感心しませんが。」
当然の疑問と、懲りぬ仕返し。エイレーンには存外負けず嫌いなところがあった。
「君は無茶な方法で皇帝に謁見しようとするまでに平和を望んでいるのだろう?
だったら、君もやらなくちゃいけない。確かに妻の身を危険にさらすのは褒められたことではないが、妻の信念を守るのも夫の役目だと俺は考えているからな。
なに、危ないことが起きても、俺が君を守ればいいだけの話だ。」
少し顔を傾けて、エイレーンの目を真っすぐに見つめ言い放つ。その目と少し上がった口の端からは、エイレーンの仕掛けた子供じみた仕返しへの反撃、というような思惑は感じられず。純粋な気持ちからの発言であることが分かった。エイレーンの二敗。またもうぐっと変なうめき声をあげてしまう。
「…最後に。どうして貴方はここまでして私を手伝ってくれるのですか?」
最後にして最大の疑問。彼がここまでする必要はどこにもないのだ。エイレーンにも、ピニオンの聖女などと言われて外見を含めもてはやされている自覚はある。だが、いくら外見が好みだろうと、気を引くために命はかけまい。
「平和ってやつがなんなのか、俺も見てみたいんだ。多くの人が命をかけて叶えようとする平和というものが、そもそも実在するのか。命を懸ける価値があるのか。
それを知るために、まずは命を懸けてみるのさ。」
どこか遠くの一点を見つめながら言うアトラは、視線を動かさず続ける。どこか過去を思い出しているような表情だ。
「帝国内で平和を追い求めるなら軍に入るべきかと思って軍属になった。だが、味方をいくら助けても、敵をいくら生かしても、平和なんか訪れやしない。
…だが今日、君と出会ってしまった。これは神が俺に与えたチャンスに違いないんだ。今度こそ、平和とは何かを見極めることが出来ると確信している。」
そう言うと、話は終わりだと言わんばかりにアトラは勢いよく立ち上がる。
エイレーンはと言えば、一人で落ち込んでいた。様々な言葉でアトラが自分を持ち上げたが、自分は彼が言う「平和」を本当に実現できるのか。聖女だなどともてはやされているが、所詮少しイドリスの摂理が使えるだけの小娘なのだ。帝国内で希少な存在というだけで、強い力も高尚な精神も持ち合わせていない。
なんだか、アトラを騙しているような気分だった。
「それに、な。」
そんな思いを知ってか知らずか、アトラは振り向き片膝を立てしゃがむ。ベンチに座って俯くエイレーンの左手を取り、言葉を続けた。
「君といるのはなんだか落ち着くんだ。もう少し、一緒にいたいと思ってしまった。」
この男は、恥ずかしくなるほどはっきりとものを言う。はにかみながらのその言葉に、もちろんエイレーンは三敗目だ。気の利いた返しをしようとしたが、口を開いたらうぐっという最早おなじみのうめき声が出るのみ。
だが、この真っすぐさは、ともすれば本当に戦争を終わらせてしまうんじゃないかと期待させる。…エイレーンは心を決めた。なるようになれ、だ。
咳払いと大きな深呼吸で息を整え、少し熱っぽい頬を気にせずアトラに返答する。
「…では、もう少し一緒にいてあげます。旦那様。」
最後の反撃は、アトラにも少し効いたようだった。
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