第3話 少年と少女 その2

イドリア共和国における巫女とは、教皇に次いで神聖な存在とされる。それは、女神イドリスから直々に莫大な加護を受けた教皇より、その力を分け与えられる存在だからである。


かつて全てを癒そうとした愛と豊穣の女神の力によって生み出される能力は、癒しの力。怪我や病気、人間の自然治癒では直しきれぬ病も、時と場合によるがイドリスの摂理によって治すことが出来る。そして巫女や教皇の扱う摂理は、一般人のそれとは異なる。より多くの、より重篤な者をも救うことができるのだ。

それにより、国力の上昇やイドリス正教会への求心力のため、その摂理の力は積極的に利用されてきた。


しかし、そのために他国や国内の他勢力から狙われることも少なくない。

そこで、巫女には一人「巫女の光」と呼ばれるお付きの騎士が付くことになっている。正教会に所属する神殿騎士の中でも、実力と人格に優れたごく少数のエリートのみが付ける役職、それが巫女の光である。


そしてそれは———イスタロス大陸歴1119年、10歳になったアルトが目指す高みでもあった。大それた力は要らないと思っていたが、それはルーチェが巫女として見出される前の話。ルーチェの傍にいるためには、巫女の光へと至らなければならない。今のアルトは、かつてと異なり誰よりも強くなりたいとさえ思っていた。


「まだ感覚が鈍い!それじゃあルーチェちゃんを守れないぞ!」

そんなアルトは実力をつけるため毎日稽古をつけてもらっていた。講師はサレム近郊を守護する討伐隊、その第一部隊の副隊長こと自身の父だ。目隠しをしながら剣の打ち合いをさせられたり、足に重りをつけたまま泳がされたり…およそ我が子につけるとは思えぬ地獄の訓練の日々であったが、治癒を得意とするイドリスの教徒としては耐えられる地獄だった。その日々に耐えるアルトの肉体は、10歳としてはあまりにも洗練された、戦士とも呼べる程に仕上がっている。


「お、おいアルバート…アルト君がかわいそうだろ…」

目隠しをするアルトに容赦なく木剣を打ち据えるアルバート———アルトの父に苦言を呈するのは、幼馴染であるルーチェの父、ルイン。商人である彼は偶にこうして二人の稽古を見に来ては、アルトの様子に気を揉むのだった。


「心配ないですよ、おじさん。ルーチェは僕が守ってみせます!」

そんな父に、アルトも負けじと対応する。攻めには転じられていないが、アルバートの攻撃を上手くいなしている。視覚のみに頼るのでなく、風の流れや音、殺気から敵の居場所を探る訓練だという。

「だから、そういうことじゃないんだけどなぁ…」

戦士顔負けの訓練を眺めながら、ルインは幾度目かも分からない呆れのため息をついた。

こうして朝の稽古を終えた後、母の道具屋を手伝い、父が帰ってきたらまた稽古。これがこの3年間のアルトの日常だった。


洗礼式の後、そのまま巫女見習いとして神殿に入ったルーチェは、週に四日神殿に通い神殿の手伝いをしていた。

未だ巫女となる決心がついていない彼女であったが、ルーチェがいつ巫女となっても自分がその光となれるように、アルトは鍛錬を欠かさないのであった。

「おはよう、今日も早いなアルト!」

そんな鍛錬の場に現れるルーチェ。男たちは挨拶を返すと、訓練を終了するのだった。


「ルーチェちゃん、今日は何をするんだい?」

訓練用の木剣を片付けながらアルバートが問う。イドリス正教会はルーチェに巫女となってもらうため、連日様々な体験をさせているのだった。実際、巫女たちが多くの人を助けている様を見続けたルーチェは、既に巫女になっても良いと考えている。あともう一押し、何かきっかけがあれば。

「今日はサレムの近くの村で、重病人を治療するらしいよ。」

その言葉を聞き、アルトは急いで目隠しを外しながら尋ねる。

「大丈夫なの!?危なくない?」

加護を与えられる巫女は、一般のイドリス教徒とは異なり加護を分け与えられるまで祝福を受けない。つまり現状のルーチェは理外の民と何も変わらない、自らの身を守る術を持たない状態なのだ。アルトの心配もある種当然と言える。


しかし、ルーチェはまたかというような呆れ顔で抗議する。

「神殿騎士が守ってくれるから大丈夫だ!まったく…いつも神殿騎士がついてくれるって話はしてるだろ?そう毎回心配されてもな…」

幼馴染が心配してくれる嬉しさもあるが、こう毎度のこととなるとさすがのルーチェも少しうんざりしてくるのだった。

「そんなに心配なら早くアルトが騎士になってくれよ!」

少し腹いせのつもりで、そんなことをアルトに言うルーチェ。神殿騎士になるための入団試験は、15歳になるまでその資格は得られない。また、年間の合格者数は3名と、非常に狭き門なのだ。

「そうだね。頑張るからもう少し待っててよ」

これには何も言い返せまいと放った一言であったが、アルトはなんとはなしにそう言ってのける。真っ直ぐなその目に、逆にルーチェの方がどぎまぎしてしまうのだった。


「ほら2人とも。そろそろ神殿に向かわないと、娘を取られそうなルインがおかしくなっちまう」

アルバートの言葉で、2人は自分たちの世界から帰ってくる。確かに、もうすぐ神殿にルーチェを送っていく時間だ。

少しでもアルトと一緒にいたいルーチェと、ルーチェが1人で神殿と家の往復をすることが心配なアルト。2人の利害が一致した結果、アルトが毎朝と毎夕神殿まで送り迎えしているのだ。

それに、最近は巷で行方不明者が出ていると聞く。街中であろうとルーチェを一人で行動させるのは危険だ。アルトとしては、ルーチェをそんな目には絶対に合わせてはいけないと考えているのだった。


「いや、今さらアルト君にそんな感情も湧かないよ...。それよりアルバートこそ、アルト君が神殿騎士になれたらもう構ってもらえなくなっちゃうぞ。」

まったくこの二人は仲がいいなとアルトとルーチェは顔を見合わせ呆れ顔だ。そんな二人を見て父親たちもどの口がと笑い出す。朝のサレムに賑やかな笑い声がこだまする。


「それじゃ、行ってきます」

そんな話をしている間に準備を整えたアルトは、ルーチェの手を引き神殿に向かって歩き出す。そんな二人を送り出し、アルバートとルインは顔を見合わせ笑顔を交わす。

護身用にとアルバートが誕生日に与えた真剣を携え、巫女見習いの服を着たルーチェをエスコートするアルト。その様子に、二人の父親は未来の巫女とその光を見たのだった。



サレム某所、薄暗いどこかの地下室。手入れは施されていないようで、埃だらけで所々蜘蛛の巣すら張っている。

そんな地下室に、黒装束に身を包んだ中背の男と、綺麗な礼服の上からボロをまとった老人が向き合っていた。

中背の男の肌は不健康に色白く、体のあちこちに不可解な文様が刻まれている。ギロりと不気味に光る双眸が老人を瞬きもせずに捕らえ、その口が言葉をつむぎ出す。

「依頼主というのは貴方ですか?このような場にはそぐわぬ高貴な方のようですが。」

男は老人を頭から足先までじっとりと見つめながら尋ねる。それに対し、老人は感情をひとつも動かさず応じる。

「いえ、私ではございません。...お嬢様、こちらへ。」

老人が背後にあった扉を開くと、いかにも高そうなバッスルドレスを着てその上からボロを纏った少女が現れる。

「貴方が"離反りはん"様ですか?原初の死の女神の祝福を与えられながら、"永遠の安楽とこしえのあんらく"教団に属さず。お金次第でどんな殺しもしてくださるという?」

少女———イレーナは、黒装束に問う。自らが説明した極悪非道の男を前にしてもなお、その傲慢さは隠しきれていない。

原初の死の女神とは、イスタロス大陸に最初に産まれた一対の男女の神のうち、女性の神を指す言葉である。その摂理は死に関するものであり、自らが触れたものを死に至らしめるという魔法を扱う。


その強い力からか滅多に適合者は現れず、またその力を無闇に使用せぬよう永遠の安楽教団という組織が適合者たちを管理している。教団の首長は死の女神の加護を受けており、ごく稀に「人類に仇なす者」を示す天啓が下される。その時のみ教団員は力を振るい、その者を排除することを許される。

しかし、もちろん強大な力に溺れる者も一定数存在する。離反のように金と引き換えに殺しを請け負う者や、殺人を快楽とする者など様々だ。


「いかにも。私こそが離反です。貴女のようなレディが、私のような者にどんな御用ですかな?」

引き続き瞬きをすることなく、続けてイレーナを観察する離反。彼はその小さな可愛らしい唇から、どんな言葉が紡がれるのかと期待に胸を膨らませていた。

「殺してほしい人がいるんですの。お金は言い値で払いますわ。いかがかしら?」

しかしその口から発せられたのは、実に端的な仕事の依頼であった。もっと子供らしい本能に任せた無理難題を期待していたのだが、少し期待外れだと離反はがっかりしながら目を伏せた。だが、続く言葉に離反は目を輝かせることになる。


「標的は加護を受けていない巫女見習い。仕事自体は簡単でしてよ?」

加護を受けていない巫女見習い。つまり、なんの摂理も扱えぬということだ。離反にとって趣味と実益を兼ねたこの活動であったが、イドリスの信徒たちは治癒能力によって毒や細かな傷などが効きにくい。確実にかつ迅速に仕事を成功させるためには、こちらも死の摂理を用いるしかない。そのため、趣味の部分である「苦しめて殺す」ということがなかなか出来ずにいたのだ。

そんな中でのこの依頼、逃す訳にはいくまい。思わず早口になりながら、離反はイレーナに問う。


「その...摂理でなく毒を用いてもよろしいですかな?じっくりじわじわと効いてくるものです...」

そんな離反の懇願するような問いに、むしろ都合が良いとイレーナは高笑いする。

「あの女は生きているだけで私への侮辱...出来るだけ苦しめて殺して欲しいわ」

イレーナの言葉を聞き、離反は感動していた。イドリア共和国に来てからというもの、利権だの法律だのくだらない理由での依頼が多かった。動物とはもっと、憎いだとか邪魔だとかで殺生を行うものなのに。

対しこの少女はどうか。殺したいから殺す、憎いから苦しめる。まさに生とはかくあるべし!


何より、離反はしっかりとした軸のある人間が好きだった。これほど醜悪で、だからこそ美しい軸!この少女は報われるべきであろうと、離反は思った。

「嗚呼レディ...この離反、必ずや貴女に素晴らしき結果を送って差し上げましょう!」

ニヤリと笑うイレーナ、そして恍惚の表情を浮かべる離反。そんな2人を老人——執事長は無表情で眺めるのだった。



「次の方をお連れになってください。」

サレム近郊、マアレの村。先輩巫女マリスに引き連れられ、巫女見習いのルーチェは村民の治療の手伝いをしていた。多くは骨折や身体欠損など、魔獣闊歩する世ではさほど珍しくない大怪我の人物が訪れる。一人一人時間はかかるが、皆怪我を治し笑顔で教会を去っていく。これこそが、巫女が人々に慕われる理由であり、イドリア正教会が権威を保っている理由である。


さて巫女に促され次に教会に入って来たのは、担架に乗せられ運ばれてきた若者であった。皮膚の所々が樹木のように硬く変質しており、酷く衰弱している。

「いけない、ルーチェさんを教会の外へ!」

患者を見たマリスは慌てて自らの光に命じる。止血のための布を畳んでいたルーチェは、訳も分からず迅速に動いたマリスの光に引きつられ、教会の外に出た。


「あの…さっきのは一体なんですか…?」

ルーチェは共に外に出たマリスの光、ドレンに尋ねた。身の丈は10歳になるルーチェの三倍程度はあり、全身を神殿騎士の鎧に包んだ偉丈夫。ごつごつとした顔に細目をたたえた優しそうな男性である。

ルーチェが尋ねると、ドレンはルーチェに視線を合わせるように屈みながら、先ほどの出来事を説明し始める。

「さっきの患者さんは樹皮病の患者さんだよ。原因不明の病で、段々と体が樹のようになっていってしまうんだ。長く触れているとうつるとされていて、現状巫女の力でしか治療が出来ないんだ…

特に君はまだイドリス様の摂理を受けていないから、影響が強く出る可能性がある。それでマリス嬢は君を外に出したんだろうね。大丈夫、今までも何人か治療しているから。」

ルーチェを安心させるように、努めて穏やかに言うドレン。しかし、ルーチェは別のところが気になっていた。

「ドレンさん、巫女の力でしかって?治せない、じゃないんですか?」

今まで付き添ってきた治療でマリスが完治させられなかった怪我や病気はない。ルーチェの中で、巫女の力は万能のもののようになっていたのだった。ドレンは少し言葉を選び、ルーチェの質問に答える。

「少し勘違いをしているかもしれないんだけど…巫女の力は万能じゃないんだ。マリス嬢が治せる範囲の案件しか付き添っていないから、そのように見えているだけなんだよ。

それに、樹皮病は不治の病と言われている。巫女ができるのはあくまでも延命だけ。一度樹皮病が発症すると、現在では治す方法がないんだよ…」

不安そうな顔になってしまったルーチェを元気づけるように、ドレンはさらに続ける。

「…だ、だからこそ、みんな君に期待してるんだよ!君の魔力量は私も知る限り最も高い。もしかしたら、君になら樹皮病も治せるかもしれないってね!」

明確な差はわからないが、少なくとも今まで最高司祭を超えるほどの魔力量を持つ巫女は存在しなかった。そんな中、最高司祭を遥かに上回ると予想されるルーチェの魔力量は、今までの不可能を可能に塗り替える無限の可能性を秘めているのであった。

「私なら、樹皮病を治せるかもしれない…?」

ドレンの言葉を聞いたルーチェは、何かを考えこんでいるのか黙ってしまった。少し押しが強引すぎたかと反省したドレンは立ち上がり、教会の様子を確認する。


「どうやら治療が終わったらしい。中へ戻ろうか。」

少し後、中の様子を確認したドレンがルーチェに声をかけてくる。二人が教会内に戻ると、マリスは一息ついているところだった。中に戻ってきた二人を見て、マリスが慌てて尋ねてくる。

「ルーチェちゃん、体はなんともないかしら?」

立ち上がりルーチェに近づこうとするも、体力の消耗が激しいのかふらついてしまう。そこへ慌ててドレンが駆け寄り受け止める。

「大丈夫かマリス嬢。患者はとりあえず一区切りついたみたいだし、後の処理は私がやっておこう。だから君はここで休んでいなさい。」

そう言い、ドレンはマリスを長椅子に座らせると教会の外の方へと向かう。

「ルーチェ嬢、マリス嬢が無理をしないよう見張っておいてくれ」

笑顔でそう言ったドレンは、そのまま教会の外へ出た。

マリスと教会内に二人残されたルーチェは、マリスの座る長椅子の隣に座りそのまま話しかける。

「マリスさん、大丈夫ですか?」

マリスは一つ大きな息を吐くと、笑顔になって力こぶを作って見せる。

「もちろん、大丈夫よ。私も元気だし、患者さんもみんな元気になったわ!」

急に大きな声を出したからか、少しふらっとする。ルーチェはまた心配になるが、直後マリスがかっこつかないわね、と笑い始めたのですぐに安心する。

「…マリスさんが巫女になろうと決心したのはなぜですか?」

少しの沈黙の後、自分でも驚くほど唐突にそんな疑問がルーチェの口をついて出た。沈黙を嫌ったからか、はたまたただ単に気になっただけか。何にせよ今のルーチェの心からの問いであることに変わらない。

自分で思ったよりも深刻な顔をしていたのか、マリスは真面目な顔になって考え始める。

「そうね…私が巫女になった時と今では、様々なことが変わりすぎてて…正直完全には覚えてないのだけど。自分の力に気付いたから、かしら。

私には、多くの人を助けられる力がある。だったら、そうしないのは怠惰ってものじゃない?」

そう言われ、自らを省みるルーチェ。過去最高ともてはやされながら、柄じゃないなどと言って最後の決断をせずにい続けている。しかし、そんな思考に深く入っていく前に、あるいは、とマリスが続ける。

「ただ単純に、病気だった好きな男の子を助けたかっただけかも?」

少し恥ずかしそうに、冗談めかして言うマリスの顔が、言葉よりも饒舌にそれが真実であると語っていた。そして、ルーチェは気付く。大それた理由などは必要ないのだと。過去最高の能力に見合う理由なんて、必要ないのだと。

ただ、アルトが困っているときに助けられる力が欲しい…それだけでも良いのだと。

「なんだか吹っ切れた顔になったわね。…よし!休憩も済んだし、教会に浄化の魔法をかけたらサレムに戻りましょうか!」


同日夕方。神殿まで戻ってきたルーチェを、神殿前広場でアルトが待っていた。後のことはやっておくからもう帰っていいというドレンの言葉に甘え、ルーチェはアルトと帰ることにした。

「今日はどうだった?」

大通りを歩きながら、アルトとルーチェは今日一日あったことを報告しあう。多くの怪我人を治したことや、樹皮病の話、道具屋の常連の話に今朝の稽古の話…そんな話をするうちに、どんどんと神殿は遠ざかっていた。

夕方ということもあり、少なくなってきた人通り。そこで偶然すれ違った男性に向かい、アルトは無意識のうちに剣を振るっていた。

「アル…ト…?」

飛んでいく右手を、何も考えられず見つめるしかないルーチェ。その、が地面に落ちた音で、ルーチェは我に返る。

「あ、な、お、お前…アルト!な、何やってるんだ!」

ぼろを纏った男の右側から激しく流れ落ちる血。それに慌てふためくルーチェであったが、アルトは全くそちらを見ずに言葉で制止する。彼には見えていた。相対する男の、失ったのとは逆の手にきらりと光る何かが。

「ルーチェ。家まで帰って、父さんを呼んできて。出来るだけ早く。」

あまりのアルトの真剣さ、そしてその凄みに、ルーチェはなんとか落ち着き言われたとおりに家に向けて走り出す。その間、アルトと謎の男は互いに微動だにせず睨みあっていた。

アルトが突然このような凶行に及んだのは、もちろん気が触れたからでも犯罪行為のためでもない。普段の稽古における、殺気や気配を察知する訓練のせいで、敏感に感じ取ってしまったのだ。目の前の男が放つ、純粋かつ大量の殺意を。

あまりにも強すぎるその殺意を前に、アルトは無意識のうちに男からルーチェへ延ばされていた右手を切り落とした。始めはやってしまった、どうしようとも考えていたが、すぐに自身の判断の正しさに気付くこととなる。右手を切り落とされてからこっち、この男は表情を一つも動かしていない。体の一部を失ったというのにだ。自分で傷を治せるイドリスの民でも、横に巫女がいたって右手を失ったとしたら平静ではいられまい。その上痛覚はあるのだから、痛みを感じ表情を動かさずにはいられないだろう。

だが、この男はどこまで行っても無表情。アルトを先に倒すべきと判断したか、ルーチェが走り去る間も意に介さずアルトを無表情で見つめ続けていた。

「まさか殺気を出しただけで右手を飛ばされるとは。そんなに筋の良い者が標的の近くにいるなんて、予想外ですよ。」

男——離反はまだついている方の手でフードを取る。その際に左手で持つ短刀の姿が露わになった。どうやら、アルトの判断は本当に正しかったようである。

「ルーチェになんの用だ。」

目の前の離反を完全に敵だと認定したアルトは、必死に思考を巡らせながら問うた。そんなアルトの姿に微笑ましさすら感じつつも、離反は応える。

「用というほどのこともないのですがね。依頼を受けましたので、彼女には少々死んでいただこうかと。ですがまぁ、詳細は特に命じられておりませんので…お先に貴方がお相手でもよろしいですよ?」

離反の話を聞きながら相手を観察していたアルトは、彼我の戦力差を推し量りかねていた。自分よりはるかに強いようにも見えるし、またその逆のようにも見える。このような得体の知れない相手、自分一人であれば逃げていただろうが。自らの口でルーチェを殺すことが目的だと言ったのだ、そんなわけにはいかない。

先ほどはある種不意打ちだったため右手を落とすことが出来たが…それに全く動じていないところを見ると、只者でないことだけは確かだろう。アルトは気を引き締め、一気に踏み込んだ。


迷い無く、離反の体を袈裟に切り捨てんとする太刀筋。離反は驚愕と少しの喜びを感じていた。普通、人は誰かを傷つけることにためらいがあるものだ。先ほどはほとんど脊髄反射のように右手を切り落とされたが、それは無意識下の話。もちろん、それにも驚いたものだが、それよりも意識的に相手を害さんとするその意思。

「なるほど、愛ですね…?」

唐突にそんなことを呟いた離反が、左手の短刀のみでアルトの剣を弾く。続く多方向からの攻めも、短刀を逆手に持ち替え、手首の関節を回し、凌いだ。

およそ一般的でないその手の動きに、アルトは一瞬狼狽える。ここぞとばかりに離反は口を開いた。

「どうやら、貴方にとってあの少女は余程大切な存在のようですね。人間とは愛の名の下にとことん残酷になれる生き物です…だがいい!それがいい!」

なんだかよくわからないことを話し出したが、好都合である。既に先ほどの動きから、自分一人では目の前の男を倒すことはできないと感じていた。父が到着するまでの少しの間を稼げるなら、訳の分からない演説にも耳を傾ける所存だった。

「私にもその気持ちはよぉく理解できます。そう、私も愛ゆえに!人が苦しむ姿を見たいのです!それこそ、その人が最も自分を出す姿だから!私は須らく人を愛しておりますゆえ!」

鼻息荒くそう嘯く離反。聞くに堪えぬ自分語りに、アルトも思わず返答してしまった。

「相手のことが理解できない、理解しようともしない…可哀想なやつだな。そんなことをしなくても、人を愛することはできるよ、多分。」

時間稼ぎのため、反論を期待して放った言葉。またこれは、アルトの本心でもあった。だが、齢10歳のアルトはまだ知らなかった。明確に頭のおかしい相手とは、対話すらしてはいけないのだということを。

「嗚呼、いいですねぇ…貴方はしっかりとした軸を持っている。そのような人は好きですよ。今日中に依頼を終わらせるつもりでしたが…予定変更です!貴方のことも愛しましょう!」

アルトには全く理解の出来ない思考の転換から、今この瞬間の標的はアルトに移ったようだ。相容れぬものと相対したことによる寒気がアルトを襲うが、ルーチェが標的から外れたため良しとする。しかし、よいことばかりではない。先ほどまでは戯れるような戦い方だった離反だが、猛烈な攻めに転じてきた。

父につけられた稽古のおかげでなんとか凌ぎ切れてはいるが、離反の動きにはまだ余裕がある。


一度タイミングを外し身を後ろに引いたかと思えば、切断された右手の方を振るってきた。攻撃性は全くない一撃だったが、目に血液がかかってしまう。

その一瞬の隙をつき、離反はアルトの膝を後ろから蹴った。意識外からの攻撃に、アルトは一瞬反応が遅れてしまう。その結果、背後から離反に制圧されてしまうのだった。

「嗚呼、惜しかったですねぇ…。安心してください。こちらはイドリスの摂理を使えぬ相手用の毒ですので、恐らくすぐ死ぬことはありませんよ。長くながぁく苦しんでください!」

そう言うと、離反はアルトの左上腕部を短刀で薄く切り裂いた。傷によってではなく、あくまでも毒によって苦しめるつもりのようだ。

傷をつけた離反は素早くアルトの上から離れる。アルトはこれ幸いと反撃に転じようとするも、傷口を中心に体全体に広がる鋭い痛みに身悶えし、再び地面に倒れ伏してしまう。

「……!…!」

あまりの激痛に、声が出ない。恨み言を言うつもりが、意味を持たぬうめき声となってしまった。

「嗚呼、素晴らしいですよ…!良い苦しみ様です!これは秘伝の混合毒ですからねぇ、巫女の力でもなかなか解毒は難しいはずですよぉ…!」

血液を拭って平常に戻った視界が、再び赤くなっていく。おそらく毒の効果によるものだろう。体の自由が利かず、痛みも強くなってくる。

「嗚呼、たまりません!」

アルトが地面から離反を睨みつけていると、彼はローブの上から自らの股間をまさぐり始めた。何をしているかはよくわからなかったが、生理的嫌悪を覚えたのは確かであった。

「…息子から離れろ!」

そんな離反を後ろから切りつけたのは、アルバート。気配を殺し、離反の真後ろに回っていたようだ。体に刃が当たる寸前に身をよじり上手く被害を抑えていたようだが、離反の背中に浅い傷がつく。

「ふむ…ここまでですか。いささか物足りませんが、仕方ありませんね…」

そう言うと、離反は近くの建物の屋根まで跳躍する。およそ人間らしからぬ動きを見て、アルバートは瞬間的に交戦ではなく息子の救助を優先しようと思考を切り替えた。

「アルト君、でしたね?次またお会いできるのを楽しみにしていますよ…」

すっかり暗くなり始めていたサレムの街の闇に消えていく離反。対し、アルバートは息子を抱え神殿へと急ぐのであった。

「しっかりしろよ、アルト!自分の魔法で自分を治癒し続けるんだ!」

激痛と、遠くに聞こえる父の言葉を感じながら、アルトの意識は闇に飲まれたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る