パートナーが二人いる
@wlm6223
第1話
英語圏では妻を「better half」と言うらしいが、我が家に限ってはその実感が持てない。
おれと妻の葉月はどちらかと言えば同じ家庭という一杯のコップに納まった水と油で、平然と分離して生きている。家庭内離婚とまではいかないが、互いに干渉せずに同じ屋根の下で共同生活を営んでいる。そんな風だ。
おれも不惑の年を二年も過ぎて、その互いの行き違いを理由に離婚するなどとは思ってもいない。それほど青臭い恋愛感情はとっくに消え去っており、互いの生活上の不便さえなければ、惰性で夫婦であり続けるのが無難だと認識している。
そもそも葉月との出会いは、うちの会社のホームページ刷新の担当者におれがなった事から始まった。
おれは製薬会社の宣伝の職に就いている。
意外に思われるかも知れないが、宣伝職といえばお抱えのデザイナーが二三人はいるのだが、ことホームページの作成ができるデザイナーとの縁故はなかった。当時はまだウェブデザインもできるデザイナーは少なかったのだ。
上長に相談すると「フリーのグラフィックデザイナーで優秀なのがいるよ」と薦められて紹介されたのが相原葉月だった。後におれの妻になる人物だ。
葉月の第一印象は「こんな社会人見た事ない」だった。
フリーで働いている性質上、その職の技量に秀でているのは当然として、自分自身の営業マンでもあり宣伝マンでもなければいけない。その宣伝マンとしての顔が初対面での葉月の印象だった。
おれは一応他社とのコンペを開いて、結局葉月に仕事を発注した。
出来上がったホームページは上々だった。
ホームページという性質上、一回出来上がってしまえばそれでお終い、という訳にはいかず、二三ヶ月に一度は葉月へホームページの更新の仕事を発注した。
そんな仕事上の付き合いからおれたちは交際を始め、出会ってから二年目にプロポーズして結婚した。
おれが二十八歳、葉月が二十四歳の時だった。
周りを見渡せば早婚の方だが、おれはまだ遊び足りないとは思っていなかった。
白状すると、おれは学生時代も恋愛下手でそれほど女性経験はなかった。
葉月とは「この女しかいない」と、そう思える瞬間がいくつもあったのだ。
それがいつ、どんな事だったかは覚えていないが、その鮮烈な印象だけは未だに覚えている。
結婚と同時におれは西葛西のマンションを購入した。3LDK。三十五年払いのローンだ。3LDKは二人で住むにはちと広いが、いずれ子供ができるだろうからと、その時はただぼんやりと無計画に決めてかかっていた。
おれたちの結婚生活は当初から甘いラブラブな生活を送ってはおらず、葉月はいつも午後九時か十時過ぎに帰宅してきた。酒臭い時もかなりあった。まあ、接待か何かで酒席に呼ばれたのであろう。
家に着いた葉月はその日の仕事の疲れでぐったりしていた。
定時があるサラリーマンのおれとは違い、フリーランスの葉月はその営業活動で懸命だった。
夕食はいつもおれが用意した。食事の準備のみならず、家事の殆どをおれが受け持っていた。だが家事の分担がどうのこうので夫婦間で揉めた事はなかった。
まあ、フリーランスなんてこんなもんだろう、とおれは予想していたからだ。
「涼介、いっつもごめんね。私ばっかり仕事に夢中になっちゃって」
「ああ、気にすんな。葉月はサラリーマンじゃないんだから自分の仕事で手一杯なんだろ。それよりあんまり無理するなよ。仕事は体が資本て言うじゃないか。取り敢えず食って寝ろよ」
「ありがとう。でも今週も締め切りがあるから、今夜も頑張るわ」
おれたちは夕食を済ませると、おれはソファに寝転がってスマホを眺め、葉月はMacと睨めっこして仕事をこなした。
人によっては自分の時間を削って労働力を提供するサラリーマンの働き方に嫌悪感を抱く向きもあるようだが、葉月の生活を見ていると、案外サラリーマンの方が生活は楽なように見えた。
フリーランスは実のところ、仕事はなかなか選べない。来た案件は時間の許す限り請け負う。それが気に入らない仕事であっても、どこで優良案件と繋がっているかもしれないし、グラフィックデザイナーという仕事上、その作品に自分の名前を刷り込まれる事になる。かといって自分の表現を思い切り押し出して出しゃばりすぎるのもいけない。それに加えて締め切り厳守。結局、サラリーマンよりハードな実務実態になってしまう訳だ。
これでは昭和の時代の家庭とは真逆の、夫が家を守り、妻が外で闘うのが我が家の実態だった。
その葉月の頑張りに対して、葉月の収入はそれほどでもなかった。
「クリエイターの仕事って、ホント損なのよ」
葉月は深夜の自宅で、ほんの僅かの時間に弱音を吐いた。
「コンペで落とされるかも知れない作品に一週間かかって仕上げなきゃなんないし、受かったとしてもギャラはそれほど高くはないのよ」
「ほう。ある意味、賞金稼ぎみたいなもんだね」
葉月は口元だけで笑った。
「涼介は学校出てからずっとサラリーマンだから分からないでしょうけど、今月の収入が三百万あったとしても、来月、再来月は無収入かもしれないのよ。だからいつだって気を張ってなきゃなんないし、無駄遣いは絶対駄目。私もやっぱりどこかのデザイン会社に入ってればよかったかしら」
葉月は過去にデザイン事務所への入社を三回断っていた。そのことを言っているのだろう。
「会社勤めもそんなにいいもんじゃないよ。普通は月に三四十時間の残業はあるし、給料もそんなに良くないのは知ってるだろ。しかも毎日満員電車に乗らなきゃならない。いつも決まり切った仕事をこなさなきゃならないから飽きるしね。おれから見たら、葉月みたいな自分で自分の道を切り開ける職業がちょっと羨ましいよ」
「隣の芝生は青いってことね」
「そうそう。葉月のそういう自由闊達なところ、おれは好きだよ」
好きだよとおれは言った。確かにおれは葉月を愛している。
が、白状すると今まで三回浮気した。
うち最初の二回はバレなかったが、三回目がバレた。
それはおれが三十六歳の時だった。
相手は取引先の三十二歳の独身営業マン。
ショートカットに大きな瞳の麗しい女性だった。
如何にしてバレたかというと、LINEの遣り取りを葉月に見付かったのだ。
おれのスマホはパスワードロックを掛けていない。というのも、操作する度にパスワードを入力するのが面倒なのでそうしていただけだ。それにスマホは常時持ち歩いている。失くす心配を全くしていなかったのだ。
が、その日に限ってスマホを持たずに出社してしまったのだ。
会社の昼休みの時に葉月から社へ電話が入った。
「もしもし」
「ああ、葉月か。どうした?」
「今夜、大事な話があるんだけど」
「大事な話?」
「涼介、スマホうちに置き忘れたでしょ」
ここで嫌な予感がした。
「うん。確かに持ってくるのを忘れた。おれも年かな」
「見たわよ」
この一言でおれは全てを覚った。
「あ、……じゃあ、また今夜、家で」
「待ってるわ」
そこで電話が切れた。
午後の仕事の進捗は芳しくなかった。今日は金曜日。いつもなら(自分で言うのも何だが)部下たちに的確に指示を与え、今週末締め切りの出来高を管理する日だ。そうそうプライベートな事で頭を悩ます暇などない。
が、今夜には何と言って葉月に弁解しようか、そんな事ばかり考えていた。
葉月が最初に何て言ってくるか?
それにどう切り返せばいいのか?
そんな事ばかりが脳裏を掠めた。
時間はあっという間に過ぎて午後七時を廻った。今日の仕事が終わった。
おれは重い足取りで帰宅した。
「お帰り」
無表情な声で葉月が言った。
おれはリビングにいる葉月を見付けるとその場で土下座し「ごめんなさい!」と大きく言った。
「ごめんなさいじゃないわよ」
「ごめんなさい!」
しばらく沈黙が続いた。
その話の端緒を切ったのは葉月からだった。
それからは、人間は怒るとここまで凶暴になれるのかと思うほどの罵詈雑言を浴び、椅子やテーブルクロスを投げつけられた。
おれはひたすら「ごめんなさい」しか言えなかった。針の筵とは正にこの事だ。しかし耐えるしかなかった。おれはひたすら耐えた。これも身から出た錆びだ。申し開きのしようもない。葉月はあらゆる形容を駆使しておれに罵倒痛罵を浴びせ掛けた。無論、おれには反論の余地はない。普段はそれほど会話が弾まないのに、この時ばかりは女の本性と言おうか、妻の座に座る者の正体と言おうか、日頃からのおれへの不満を取り混ぜて、ありとあらゆる角度からおれを責め立てた。こういった責め苦はメンタルに堪える。しかしその原因を作ったのもおれだ。おれは守りの体勢しか取れなかった。
最後に葉月は
「明日お買い物に行くから付き合ってちょうだい」
と鼻息荒く言った。おれは「承知しました」と上役に返事をするように言った。
その晩はそれで終わった。
翌日の土曜日の朝、葉月はまだ機嫌を損ねているように見えた。朝食は二人で摂ったが会話はなかった。
「今から出掛けるから」
「はい。お供します」
このたった二言でその日のスケジュールは決まった。
おれは葉月に連れられて東西線の西葛西駅へ向かった。
駅まで向かう間の八分間、会話はなかった。ただ初春の少し冷える風が吹いていた。これを寒いと感じるのは、葉月がこれからおれをどう料理するか、予測不能の不安からに思えた。風は冷たかったが日射は暖かかった。空色は透明に澄んでいたがおれの心持ちは暗黒そのものだった。
この時点で目的地を葉月から聞かされていない。どこへ連れ出されるのか疑問に思った。おれはちょっと戸惑ったが、葉月との距離感がその質問さえも遮った。
日本橋駅で銀座線に乗り換えて銀座に出た。
女と銀座には深い交わりがある。
銀座にはハイブランドの店が建ち並んでいる。LOUIS VUITTON、Cartier、CHANEL、TIFFANY&Co.、BVLGALI等々……おれは葉月が何を要求してくるのか戦いた。食事にしたって高級店が多い。銀座は女の欲望を満たすには充分な店が多数ある。
もう銀座に来てしまったのだ。もう諦めるしかない。
葉月はおれを引き連れて銀座の街をずんずん進んでいった。
銀座二丁目の交差点にはあらゆるブランドものの店がある。その何処かにおれを引き込む積もりかと思ったが、葉月はそうはしなかった。
が、それ以上にヤバい店に入って行った。
Apple Store銀座店だ。
葉月は愛想の良い店員を一人捕まえて、ろくに商品説明も聞かずに「これ、いただくわ」と言った。
当然、その一回では終わらなかった。
店内のいたる所で「これ、いただくわ」を連呼した。お前はマイケル・ジャクソンか。
勿論全てフルスペックの最上位機種を葉月は注文していった。
ちょっと待て。その会計はおれがするんだろ?
確かにクレジットカードはいつも携帯している。が、しかしいくら何でも店中の商品を買って廻るのは勘弁してほしかった。とは思いつつも、おれの胸の裡で何かを期待する得体の知れない高揚感と切迫感が膨らんでいったのも事実だ。
店内を一巡して葉月の買い物は終わった。ものの二十分程度で済んでしまった。
「じゃ、会計よろしくね」
葉月は嫌な、悪い顔でおれを睨んだ。
おれは止むなしと腹を括った。
レジで精算した。
三ケタ万円のお買い物になっていた。
血の気が引いた。ちょっと待て。物には限度があるだろうが。
おれは蒼褪めるというより、葉月の女の本性を見て、その欲深さに恐怖を感じた。
そんなに買い物がしたかったのか?
そんなに物欲の強い女とおれは結婚してしまったのか?
おれはちょっと葉月の顔色を覗った。
葉月は何食わぬ顔をしていた。
長い付き合いだから分かるのだが、そういう時の葉月は満足してるのだ。
おれはクレジットカードを端末に突っ込み、暗証番号を入力した。
「お客様、そちらのカードですと一日の限度額を超えているのですが……」
その声は葉月に対してこの無茶な買い物を止めさせる天啓のように聞こえた。今ならまだ引き返せる。おれは一瞬そう思った。
「じゃ、分割払いで」
葉月はおれを差し置いて店員に無表情で伝えた。
Apple Storeって、そんな事できたっけ?
店員がどう動いたのか不思議だったが、十二ヶ月の分割払いの審査が通ってしまった。
店員が「こちらへお願いします」と別室へ通された。
その個室はAppleらしい小綺麗さで纏まった小さな部屋だった。
既にローンの申込用紙がテーブルの上に広げてあり、後は署名と捺印するだけになっていた。
「あの、印鑑を持ってきていないのですが」
「ええ。拇印で大丈夫です」
店員はにこやかに応えた。
おれは事務的に署名し拇印を押してしまった。が、半分はおれの意志で押してしまったのではない。何か得体の知れぬ魔に体が乗っ取られ、押印してしまったのだ。
これだけの金額の買い物をしたのはマンションと車以外では初めてだ。その大金を使う快楽が全くなかったと言えば嘘になる。よく成人男性は腕時計なり車なり、そういったものに大枚を叩くが、それは物欲を満たすのみならず、大金を使うという事自体の快楽もあっての事だと、その時理解した。
「お届けは二週間後になりますがよろしいですか」
「ええ。構いません」
葉月は店員に真っ直ぐ返事をした。おれの事は置いてけぼりだ。
おれは半ば放心状態だった。
事務処理が片付くと、おれと葉月は店を出た。
「涼介、男を見せたじゃない」
そういう問題じゃないと思うが。
「浮気するとどうなるか、少しは懲りたかしら」
もう充分懲りた。
「せっかく銀座まで出てきたんだから、何か美味しいもの食べようよ」
もうお腹一杯だよ。
葉月はスマホを弄り始めた。この近隣でのグルメマップを見てるらしい。
「やっぱり銀座と言えばお鮨よね」
さっきのApple Storeでの買い物の後だ。おれも、もう金銭感覚は狂っている。数万のコースぐらいなら、もう、どうでもいい。
「ここなんかどうかしら」
葉月がおれにスマホを見せた。
ここから数百メートル先の鮨屋だ。
「いいよ。今日は葉月に全てお任せ」
「やったー!」
まるで大学生のようなノリだ。
銀座は昼でも夜でも大人の街なのだが、今の葉月は明らかに大学生のデートの積もりでいるらしかった。
その店は「すし処 支喜」とあった。
店内はこざっぱりした造りで、丁度昼時という事もあり、混雑していた。
丁度カウンター二席の空きがあったのでそこに座った。
「お飲み物は?」
猫背の大将が微笑んだ。
「日本酒、何があります?」
「ここにあるだけです」
大将が棚を示した。
「じゃ、喜八ください」
「旦那さんは?」
「僕も同じので」
「へい」
いくら休日とは言え昼日中に飲酒するのは憚られたが、葉月はそんな事には一切頓着していないようだった。
そういえば、結婚前から葉月はよく飲んだ。
葉月は特に酒の種類には拘りがないようで、ビール・焼酎・日本酒・ウイスキー・ウォッカ・ブランデー等々何でも旨そうに飲んだ。
昼時なのだからランチ営業の筈で、夜の仕込みもあるだろうから、さっと飲食してさっと店を出るのが流儀だと思うが、葉月はそんな飲食店の暗黙のルールを無視して刺身から注文した。まあ、前菜の積もりなのだろう。
「涼介、今日はいい事したって、自慢していいわよ」
その自慢の代償はかなりおれの懐具合を痛めたのだが。
まあ、金銭的にはうちの家庭は裕福な方だから、三ケタ万円の急な出費でも生活難にはなりはしない。が、痛すぎるのには違いなかった。
何しろ子供がいなくて共働きなのだ。幸いな事に金の心配はない生活ができている。
世間体で言えば、我々の結婚歴から鑑みると、小学生ぐらいの子供が一人か二人いてもおかしくない。
子供が授からないのはおれの体質に起因している。
それが発覚したのが結婚三年目だったと覚えている。
そういえば妊娠しないね、と葉月は軽く言った。その言い回しは葉月なりのおれへの配慮からだったと思う。
しかし子供がいるのといないのとでは、結婚生活に大きな違いがある。
葉月はおれに面と向かっては言わなかったが、子供が欲しかったのだろう。それは結婚すれば当然の願望だ。
一応不妊治療も受けたが問題はおれの側にあると判明し、それ以来、葉月は妊娠や子供の事は言わなくなった。そのいじましさが却っておれを責め立てた。
子供が授からないのが理由で離婚を言い渡されても、おれとしては受け入れる覚悟はできていた。が、葉月はそうしなかった。その点に関しては葉月に引け目を感じている。
その葉月の満たされ得ない欲求を何とか満足させてやろうとおれは思った。結果、葉月は仕事に邁進する方を選んだ。だから殆どの家事はおれがやった。せめてもの罪滅ぼしではないが、少しでも子供のいない生活を紛らわせられるように、葉月が充分仕事に没頭できるよう時間を作ってやったのだ。
で、そんな良妻を娶りながら何故浮気などしたのか?
分かるだろ? 男だったら。
つい魔が差した。その程度の事だ。
何も葉月と別れて再婚しようなどという積もりではなかった。ただの火遊びだ。
自分で言うのも何だが、何だかんだで葉月は良妻だ。
葉月の収入は不安定だが月に四十万円は稼いでくる。それほどのデザイナーとしての実力と営業能力があるのだ。
翻っておれの給料は額面で五十万円。葉月とどっこいそっこいだ。しかしおれの場合は会社員。この額は増えはしても恐らく減りはしないだろう。もし定年まで勤め上げれば、最終的にば月六十万ぐらいにはなると思われる。
おれたち夫婦に将来の暗い影はない。
それも金銭面での話だけではなく、お互いがお互いを尊重して生活していく以上、何の杞憂もなかった。
だから浮気がバレた時も、葉月は無茶な買い物をおれにさせても問題ないのを知っていたのだ。
カウンター席の鮨下駄の端にまずガリが盛られた。次いで酒が来た。
葉月は軽く酒を一口含んだ。目が「美味しい」と言っていた。
まずは刺身からつまんで握りを注文した。葉月はまた別の日本酒を注文した。
酒に弱いおれは既に酩酊状態で葉月がどの銘柄の日本酒を頼んだのか聞き取れなかった。
握りは十二貫ほど来たと思う。酒の酔いで味は判然としなかったがその食感とほどよい暖かさに旨味を感じた。
こうして葉月と二人並んでいると、それだけで結婚して良かったと思う。具体的な理由はない。ただこうして葉月と一緒の時間を過ごせるのがおれの心に暖かい火を灯した。それは多分、酔っ払っているせいでもあるだろう。酒の酔いがおれの全身を包んでいる。それは葉月に熱い抱擁をされているかのようにも思われた。
食事中も葉月と二言三言、言葉を交わしたのみだった。が、それだけで充分だった。
つべこべ言わずともお互いを理解しあえる。これはおれだけの勝手な思い込みかも知れないが、おれには確かにそう思われた。
それにしても食事中の葉月は幸せそうだった。
男を掴むにはまず胃袋を押さえろ、と言われるが、それは男女逆のようにおれには見える。
女を掴むにはまず胃袋を押さえろ。
そういえば普段の食事はおれが用意している。葉月は本心でそう言っているのか、不満を言って「だったらお前が食事の用意をしろ」と言われるのを避けるためか、葉月はおれの作った料理をぺろりと平らげるのが普通だった。
「美味しかった。ごちそうさま」
その言葉を毎日聞いていた。
そんな毎日におれは何の不満も持っていなかった。
今日、銀座へ来たのもおれの浮気の罪滅ぼしでもあるが、ちょっとした非日常へ葉月が誘い込んできてくれただけなのかも知れない。
一通りの握りが終わると、葉月は熱いお茶を手にしてゆっくり飲んだ。
これが飲み終わればその非日常も終わりか。
「大将、ごちそうさま」
葉月はそう言って席を立った。おれも従った。
勿論、会計はおれがもった。
また万円単位の金が吹っ飛んだ。
今度はカードではなく現金で支払った。おれの財布の中身が残り千二百六十五円になった。もうどうにでもなれ。来週からは仕事中の昼休みはコンビニのおにぎり一個の生活をするしかない。
まあ、逆に考えれば、金で妻の機嫌を取り繕えるなら幾ら払ってでも安いとも言える。何と言っても生涯を共にする伴侶なのだ。仏頂面を通されるよりも笑顔でいてもらった方が、こっちとしても気が楽だ。
が、よくよく考えてみれば今日はまだ半日しか経っていないのに、既に三ケタ万円を使っている。果たして、これが本当に安い買い物なのかどうか考え物だ。
おれはスマホで自分の預金残高を確認した。
預金残高は「高い買い物をし過ぎだ」と言っていた。
しかし今更どうにも取り返しがつかないのもおれには分かっていた。
これで浮気の件がチャラになるなら、致し方ない。今日の散財の責はおれにあるのだ。
また来週からは節制しよう。
その時のおれはそう思って春風の吹く銀座の通りを葉月と並んで歩いて行った。
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