道化師の浄火

Rootport

Ⅰ.懺悔箱


 魔導教会の礼拝堂には、灰色の光がぼんやりと差し込んでいた。

 教会の建物は石造りで、床には磨き込まれた大理石が敷かれている。

 天井近くにはステンドグラスが埋め込まれ、聖典の物語を貧者たちにも伝えている。


 恐ろしい形相で牙を剥く、禍々しい煙をまとった悪霊。

 その怪物と対峙する、偉大なる予言者。

 予言者の両手からは赤々とした炎が噴き出し、今にも相手を焼滅しょうめつせしめんとしている。


 たとえ文字が読めなくとも、このステンドグラスを見るだけで予言者の力が分かる。


 その日、彼女のほかに参拝客はいなかった。

 懺悔箱を見下ろしているのは、千年前に死んだ予言者の石像だけだ。


 彼女の声は震えていた。

「私は、夫を殺しました」


 もうすぐ日が暮れる。

 忍び込んできた冷気に、祭司はぶるりと身震いした。

「ええと……。今、何と?」


 懺悔箱で耳にしたことは、外には漏らしてはならない。

 教義ではそういうことになっている。

 この箱の中での告白は「火の神」に向けたものであり、祭司はその代理にすぎないからだ。

 秘密を漏洩させることは、神への裏切りに等しい。


 とはいえ、犯罪行為なら話は別だ。

 もしも本当に殺人を犯したというのなら、衛兵に通報せざるをえない。

 祭司はこの職に就いて四半世紀になるが、そういう経験が無いわけではなかった。


「ですから」

 ごくり、と唾を飲み下す音。

「夫は、私のせいで命を落としました。私は償い切れぬほどの罪を犯したのです」


 祭司は逡巡しゅんじゅんした。

 彼女の言葉を疑ったからではない。

 その声に聞き覚えがあったからだ。


 懺悔箱の中には仕切りがあり、お互いの姿は見えないようになっている。

 告解者と祭司との間を隔てるものは、目の細かい格子だ。

 子供の小指よりも細い棒が何本も渡されて、声だけを交換できる。

 マホガニー材で組み立てられた懺悔箱は、少なく見積もっても作られてから百年は経っている。

 どれほどこまめに掃除をしても、埃っぽい黴の臭いは取れなかった。


 祭司はわずかに身をかがめて、格子に顔を近づけた。

 そんなことをしても、暗すぎて相手の姿は見えない。

 それでも、そうせずにはいられなかった。


 相手の反応をうかがいながら、祭司は訊いた。

「ピトス様……。あなたは、ピトス・スタンチク様ではありませんか? 錬金術師スタンチク博士の奥様では……」


 殺人の告白など、尋常ならざることだ。

 だから、祭司も異例の対応をした。


 告解者の名前を尋ねるなど、本来ならありえないことだった。

 教会の上層部に知られたら大変なことになるだろう。


 それでも祭司は、好奇心を押さえられなかった。


 相手は、消え入るような声で「はい」と答えた。

 おそらく身元が割れることは予期していたのだろう。

 彼女の返事には、迷いがなかった。


「いかにも、私はピトス・スタンチクです。スタンチク博士は、私の元夫です」

 祭司はふうと息を吐いた。

「博士はひと月前に、異端審問により処刑されたはず。それを『殺した』とは、どういうことですかな?」


 殺すも何も、彼はもう亡くなっているではないか。


「――祭司様、私のことをと思っておいでですか?」


 ピトスの声から震えが消えて、低く、冷徹な響きを帯びた。

 祭司として、数え切れないほどの懺悔を聞いてきた。

 その経験が教えてくれる。

 心の平衡を失った者は、こんな喋り方はしない。


 彼女が常軌を逸しているとは思えなかった。


 手練れの医者のような口調で、ピトスは続けた。

「先ほどは取り乱しましたが、私は正体をなくしてなどおりません。虚言や妄言ではなく、事実を申し上げているのです」

「しかし――」

 祭司はたしかに見たのだ、スタンチク博士が火刑に処されるところを。


   ◇


 人体のあぶらで、黒い煙がもうもうと上がっていた。

 獣のような断末魔が、石畳の広場を満たしていた。 

 煙を見上げながら、聖職者たちは口々に言った。


(見ろ、あの煙こそが異端の証し)

(悪しき魂が肉体から離れ、風に消えていく……)


 祭司の知る限り、火あぶりは最も残酷な刑罰の一つだ。

 受刑者の悲痛な叫び声と、肉の焼ける匂いの組み合わせは、見る者に強烈な印象を残す。

 食欲を失わせるような悲鳴が耳では聞こえているのに、鼻から忍び込んでくる匂いは牛肉や豚肉と同様、美味うまそうなのである。

 文字通り記憶に焼き付けられて、決して忘れられない。


   ◇


「私の夫は、間違った考えを心に抱き、裁きを受けました。しかし、その原因を作ったのは私です」

 ピトスは言った。

「あの人が道を踏み外したのは、私のせいなのです――」

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