第29話
※28と29の2話投稿です。
男が一人、暗闇から現れ、僕の方へ走ってきた。
「スタン……」
「アルマに頼んで入れてもらいました」
そう言ってスタンが僕の前に立つ。
自分の魔法をかき消されたことに、腹が立ったのだろう。医師であるペドロが叫び声を上げた。
怒髪天を衝くとはこのことかと思わせる、獣のような咆哮。
もうかなり魔力を使っただろうに、ペドロはそんな事実などお構いなしに新たな魔法の詠唱を始めるのが見えた。これ以上は危険だと思う。
しかし、どこにそんな魔力が残されていたのか、まるで命を絞り出すように、彼は魔法を練り上げていく。魔力の高まりから、かなり強大な魔法を詠唱しているのがわかる。
彼の周囲に風が集まる。
僕の前に立つスタンの背に力がこもった。
「まずいです。かなり強力な魔法の詠唱です。威力は絶大ですが、制御がかなり難しいらしく、学院の教師が詠唱するところをただ一度見たきりの魔法です」
「そんなに?」
「周囲のものすべてを巻き込む竜巻を呼び出す魔法のはずです。この空間は大丈夫でしょうか。私が魔法を使っても?」
「アルマが作った空間だから、現実には影響しないはずだよ。それに人ひとりの魔法で破られるようなものでもない。例えさらに別の魔法が発動したとしても、恐らくは……」
「分かりました。とりあえずあの魔法を放っておくのは危険ですので、対抗します。耳を塞いでください」
そう言ってスタンがペドロに視線を向けると、魔法の詠唱のために精神を集中させ始める。目を閉じて一つ呼吸をする。再びその瞳が開かれたとき、彼が呪文の詠唱を開始する。厳かに。朗々と。
――鳴る神のおわす雲居の参道の百雷踏み越え我来たり
スタンの周囲に小さな雷の爆ぜる音がぱちぱちとする。
――遥けき頭上に戴くは雷束ねし破城槌
スタンの魔力の奔流が、ペドロの上へと集まり始める。それは雷の予兆。上昇する魔力が雷へとその性質を変えていく。
――我が前に立ち塞がりし一切よ今悉く灰燼に帰せ
不穏な呪文の詠唱が完了すると同時に、ペドロの頭上に強大な雷が収束していくのが見える。
今はっきりと、僕にも雷の渦が見える。いくえにも空間を走り回り、今にも開放されようとしている。稲光が時々僕らの視界を白く染める。
それと同時に、ペドロの竜巻が完成し、その厚い風の壁が僕らを切り刻みなぎ倒さんと迫り来るのが分かる。避ける避けないと言う話ではなかった。広い範囲に拡大した嵐の渦は、僕らの眼前一面に広がり、その迫りくる速度も十分で、常人の足では逃げることなど不可能だったろう。
信じられない光景だった。雷と竜巻とが互いに勢いを増し拮抗し衝突を待っている。
僕らの髪が、服が風にはためき、ふわりと体が宙に浮く浮遊感。
まずいと思った瞬間、膨れ上がった雷の奔流が轟音とともに空から落ちてきた。それは一瞬の出来事。
同時にペドロの竜巻が一気に拡大する。上に伸びる。全てを上にまき上げようとする風の奔流に僕は体が持ち上げられ、かろうじてスタンが僕の手を掴んだ。
そして、アルマの影の空間の天井が割れたかと思えるほどの閃光と続いて僕らを襲った破壊音、さらに続けざまに起きた衝撃に僕は吹き飛ばされそうになった。
それをスタンが太い腕で支えてくれる。
僕が咄嗟に閉じた目を、再び開いたときには、全てが終わっていた。
ペドロの渾身の魔法は掻き消え、後には無防備な彼が地に膝をついてそこにいたのを僕は見た。
「すごい……」
言葉が僕の口を衝いて出てきた。
「いえ、私自身もこれほどの威力になるなどとは……。信じられません」
スタンに支えられながら、僕がペドロのいたほうをみると、彼はそこにいた。
魔力を使い果たし、身に付けているものはかろうじて形を留めているといったものだが、ちゃんと生きている。彼の魔法の実力は本物だったようだ。あの落雷を見事にしのぎ切った。
しかし、もはや動くことは叶わないようだった。
僕らはしばらく様子を見て、彼が動かないのを見て取ると、警戒しながら近づいた。
彼は、僕らの方を見ようともしなかった。ただ、何事かをぶつぶつと呟いているのだけは分かった。
「くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!何故……」
そう呟いているが聞こえた。
それは誰に対しての悪態だろうか。
「どうして……私には使命があったのに……」
そう言って、ペドロはやっと視線を僕らに向けた。
彼は泣いていた。とめどなく涙が後から後から流れ落ちていた。
そこにはもはや何もなかった。あの熱に浮かされたような使命感も自信も恐怖も。
ただ、あきらめに似た何かだけがあった。
「ペドロ、僕の声が聞こえるかい?」
僕は膝をついて彼に話しかける。
しかし、彼は何の反応も示さない。
しかし、彼の目にはもはや光はない。僕を見ているその目はただ虚ろで、全てを放棄してしまった人のそれだった。初めてであったころのスタンのような……。
「神よ……なぜ……」
彼がそう、呟いた。
僕はずきりと胸が痛む。
「本来の自分を思い出すんだよ。優しさや思いやりや愛を。君がかつてもっていたものを」
「できない……。私には、もう、何も。何も、残されていないんだ……」
「あきらめては駄目だ」
しかし、ペドロは糸が切れた操り人形のように、そこに頽れたままだ。
「私をどうするつもりなのか?」
ペドロの問いに僕は首を振る。
「僕には、君をどうこうするつもりはないんだ。そんな資格もない。ただ、君に、人の道を踏み外さないように、お願いしたいだけなんだ」
ペドロは黙って僕を見ている。僕の目を。
「きいて。教えて。君はどうして、こんなことをしてしまったの。どうして、こんなことをしないといけないと思い込んでしまったの?」
「私は……」
ペドロが口を開いた。
「私は、救いたかった。病に苦しむ人々を。困難に喘ぐ人々を。私は無力だ。人を癒す力があっても、それはちっぽけで、ちょっとした隙に人は容易く死んでしまう。貧しい者たちは、翌日には寒さに死んでしまう。私は見た。何度も、何度も。人々の嘆きを見てきた。私は救いたかった。この力は何のためにあるのか、神に問いたかった。理由を知りたかった。神に祈った。教えて欲しいと。癒しの力の意味を。そして、この弱い心が容易く折れてしまわぬよう、強い強い崇高な使命が欲しかった。悲しみに、苦しみに、絶望に耐えられる強固な使命が欲しかった……。そして、ある日の祈りの最中に、声を聞いた。甘美なる囁きを。あぁ、やっと神は私に使命をお与えくださったと、そう、思った……」
ペドロが泣きながらうなだれる。
あぁ……。
「教えて欲しい。真実を。何故私は間違ったのか。あなた様は言う。私が間違いを犯したと。どうか、どうか、教えて欲しいのです。私は……」
僕は逡巡する。辛い言葉を彼に伝えることが良いことなのかを。
すると、ペドロが地に伏した。呼吸が荒い。目の焦点も怪しくなってきている。これは……。
スタンが、僕の隣に跪く。
僕の顔を見つめ、頷く。
「彼に伝えてやってください。願いを叶えてやってください。魔力を、命を使い果たしてしまったのでしょう。最後のときです。死ぬ前に、彼の願いを叶えてあげてください。どうか」
スタンの黒い双眸が揺らぐのを見た。
「君の過ちは、考えることをやめてしまったことだよ」
意を決して僕は言う。できるだけ淡々と。でないと、泣いてしまいそうだったから。
どうか、彼が救われますように……。
「君が殺そうとしたゲイルの姉のアルマを知っているでしょう?彼女が僕を呼び寄せた。彼女の守りたいという強い意思が、彼女の運命を変えた。子供でありながら、脅威の前に必死に考え何をすべきか考え足掻いた。足掻いて足掻いて足掻いて、人の道を外れそうになっても、踏みとどまった。使命などなくとも……」
ペドロは無感動に僕の言葉に耳を傾けている。
「僕が何を言いたいのか分からないだろうけれど、聞いて。君が間違えて、一人の少女が成し遂げたことだよ。ゲイルの姉であるアルマは考えた。それが君とアルマとの決定的な違いだったんだ。君は、何かを成したいと願った。そして、心の中のよこしまな囁きに耳を貸してしまったんだ。君は正義をなそうとしたけれど、その実、何か大きなものに自らの全ての責任を押し付けて、自分のやりたいことをやっただけなんだ。そして君は、そこで、考えることを止めてしまった……。どうしたらよりよい未来へ辿り着けるかを、考えるのを止めてしまったんだ。その結果起きたことは、全て神のお告げだから、神から与えられた使命だからと、それで、なにもかもを神に押し付けてしまったんだ。わかるかい?その君の心の弱さこそが、全ての元凶だったんだ……」
胸が痛い。
「君は悪魔を滅ぼそうと戦ったけれど、実は君こそが悪魔だったんだよ。悪魔になってしまっていた」
呼吸が苦しい。
「アルマは思った。友達を操ってよいのか。
彼女は悩んだ。友達の見聞きしたものを知っても良いのか。
彼女は苦しんだ。友達を使って危険なことをして良いのか。
だから彼女は気高い。そこに気付く優しさを持っていたから。
だから、彼女は友達にお願いをし、命令など与えなかった。
だから、彼女は自分の能力に制限を掛けた。なんとなく友達の見聞きしたものが分かる、という程度に。本来なら、全てを知ることも可能だったのに。
だから、彼女は影しか操らなかった。本来なら体ごと、意志ごと乗っ取ることもできたのに。
そして、彼女は戦った。影だけを頼りに。友達が傷つかないように。
それもこれも、全て彼らの人間であることを尊重したからだよ」
これは人の可能性の話だ。
「悪魔を退治したい。人を救いたい。素晴らしいことだ。けれど、その理由を神に求めてはいけなかった。行動の理由は、常に自分の中に探さねばならない。為した行動の責任を自分でとるために。君には癒しの力があったのに。それで、人々を救うほうがもっと神の意志に適う行いのはずだった。何故君は道を踏み外したのか。たくさんの凶行を成してしまったのか。それは、君の心が弱き故。悪魔の囁きに騙されてしまったんだ。それでも、君には引き返す機会は何度もあったんだ……」
でも僕はそれを責められない。弱さは誰もが抱えているものだから。不完全な僕ら。
「君は、そんな自分の弱さを受け止めて、それでも前に進んでいかなければいけなかった。僕らにはできることは多くない。でも、スタンのように、自分に持てることで何がなせるかを考えなければいけなかった。アルマのように、他者を尊重し思いとどまらなければならなかった。為せないことがあるのは仕方ないよ。僕らは万能ではないから。でも、できないのなら、誰かと協力すれば良かった。できないことをいくら数え上げても、できないことをいくら悔やんでも、先へは進めない。未来へは到達できない。君の運命は、未来を諦めた瞬間に、決まってしまった……」
僕は口を閉ざし、動かなくなった男を見る。もう動かなくなってしまった男を見る。
ペドロはもう……。
「……ありがとう」
ペドロが言った。擦れてはいたけれど、はっきりとそう聞こえた!
泣きたい気持ちを僕は堪える。
最後の瞬間に、彼は踏みとどまった。人ならざる者になる前に。
そして、だから、僕は言わなければ。最後に。彼が思い残すことなく旅立てるように。
僕は立ち上がる。あぁ、眩暈がする。血を流しすぎた……。
僕の役割だから。きちんと全うしなければいけないから。
僕は声を張り上げる。この声が世界の果てにまで届くよう。彼が、胸を張って旅立てるように!
「さぁ、旅人よ。長く険しい人生という名の道を行く旅人よ!暗闇を進む勇気ある者よ!汝が旅の終わりの時はきた!」
スタンが僕を見ている。
ペドロが僕を見ている。
「汝ペドロは、自らの罪を、その目でしかと見つめた。自らの罪に、今、気づいた。ならば、その罪はもはや罪ではない。汝の罪は既に我がものとなりし。しかれども、忘れてはならない。罰は誰も与えてはくれない。罰は自らで見出すものだから。さぁ、行きなさい。我は、汝が旅立ちを祝福する者なり。死は一つの旅の終わり。されどまた、新たな門出である。顔を上げよ!前を見よ!その道の先に光が見えるだろう。そこへ向かえ。例え、どれほど辛く困難な道であったとしても、光を目指して進め!さすれば辿り着く!」
ペドロの瞳に、光が灯るのを僕は見た。
「……どうか、汝のこの新たな旅路に、幸いと安息のあらんことを……」
僕の声は、アルマの闇に溶けて消えていった。
「感謝します」
ペドロが言った。
そして。
彼の最後の瞬間、ペドロがスタンを見上げた。真っ直ぐに。最後の力を振り絞って。
そして言った。
「あぁ、君は、既に、その頭上に使命を戴いているのだな……互いに分かち難く……なんとうらやましいことだ……」
それが、彼の最後の言葉だった。
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