第27話

――見とれてしまうくらい、綺麗な人。


 ミオの私室は、西日が入らない東側だ。降り注ぐ朝日で作られた睫毛の影が、下瞼の膨らみに落ちている。


『今日は、とってもいい天気。うるさかった雨は、どこか遠くへ消えたみたい』


 ペン先を革に滑らせる彼女の手つきには、ほんの僅かな迷いもない。手首で窄められるまで、緩やかに膨らむよう仕立てられたカートルの袖が、生み出される文字たちと共に揺れている。


『散歩にも出られなかったから、昨日は、久しぶりにロイの私物を借りたの。この左目は、旅行気分を味わうのにはうってつけ』


――やっぱり、気付いていたんだ。贈られた義眼が、単なる装飾品じゃないことに。


 日記の文面を見るために、軽く身を乗り出したアスターの視界からは、ローリエの表情の仔細が分からない。彼は、一つの言葉も発さないまま、触れることすら叶わない妹を見つめていた。


『教会の仕事って、そんなに書き物が多いのかしら。使い潰した羽根ペンで、カップが一つ埋まるほど?』


 よく目を凝らせば、火の点いていない手燭の傍に、羽毛が取り除かれた羽根ペンが転がっている。観賞用としても楽しまれる羽根ペンは、通常、持ち手の上方に鳥の羽が残されるものだ。それをわざわざ削ぎ落して、あまつさえ、長さも半分以下にしてしまうのは、よほどの変わり者か、出先で筆記用具を要する旅人くらいのものだった。


『ミオにしてみれば、そんな忙しさの証もありがたいけど。だって、外へ持ち出された道具に触れれば、ロイと一緒に旅をしているような気分になれるんだもの』


 彼女は、物に宿った過去の記憶を見ることができる「悪魔の瞳」を、見知らぬ世界の探訪に使っていた。自由に走り回れもしない身体に生まれ、他人よりも狭い世界を眺めるばかりだった少女は、兄に贈られた不可思議な義眼によって、ささやかな夢を見ることを許された。


 果てなく広い帝国を、兄妹揃って旅をする。見知らぬ市場で物を買い、北極星を頼りにして、夜通し歩く。彼女が二十歳の誕生日を迎えたら、帝都で一番の店で、一番いいワインを注いでもらって、仲良く二人で乾杯する。


 そんな、他愛のない、浅はかな夢を。


『だけど、そんな空想も、もうすぐできなくなりそう』


 流暢に文章を編んでいたペン先が、突然止まる。停滞したインクが滲み、濃い染みとなるべく育っていく。


『町を悪魔が徘徊している。そんな噂が、扉を閉じていたって聞こえてくる』


「あ……」


 アスターは、ミオの顔から笑みが消える瞬間を見た。穏やかな陽の光をその身に受ける、端麗な彼女の表情は、どこまでも静かだ。


『どうしても眠れない夜に、ローブを被って出歩いたの。人目は避けていたつもりだったけど、素人じゃ、やっぱり駄目ね。きっと、今日か明日にでも捕まって、息を引き取るその時まで、化け物として扱われるのは目に見えてる。そんなのは、ずっと前から分かっていたことで、今さら、怖がっていられない』


 再び動き出した鵞鳥の羽が、羊皮紙に樹脂の線を刻みつけていく。淡々と諦念を書き連ねていく様子は、彼女の心を丁寧に殺していくために必要な儀式にも思えた。


 インクが掠れて、息を吐く。肩にこもっていた力を抜き、傍らの瓶にペン先を沈めて、ガラスの縁で雫をこそぐ。何度か日記と瓶を空中で行き来した羽根ペンは、しばらく彼女が目を伏せた後に、ようやく紙面へ着地した。


『でもね、ロイ』


 ミオの眦が、微かに歪む。


『ロイに会えなくなることだけが、どんなことより寂しいの。全てを与えてくれたきみに、まだ、何も返せていない』


 白い羊皮紙の上に、水滴が垂れる。続けて書いてはみたものの、塩水のせいでぼやけた文字をいくつか塗り潰して、手の甲で涙を拭う。偽物の眼球が埋め込まれた彼女の左目からも、涙は出るらしかった。


『もし、もしもよ。あと一回だけわがままが叶って、眠りにつく前に、きみに会えたのなら』


 手元の震えが伝わって、彼女の筆跡が揺れている。噛まれた唇から、堪えかねたソプラノの嗚咽が漏れ聞こえてくる。


『おかえりって、きっと言うわ』


 アスターは、ローリエの手を握った。ミオの吐露により、当人も知らぬ間に頬を濡らしている少女の隣で、彼は何をも口にしない。ただ、静かに、最愛の妹の言葉を看取っている。


『こんなに欠けた妹を、愛してくれてありがとう。ロイは、国一番の物知りで、世界で一番、素敵な人よ』


 彼への手紙を書き終えたミオは、羽根ペンを机上のスタンドに差し込み、背もたれへ身体を預けた。軋んだ木椅子に、空気を含んだ金色の髪が垂れる。天井を仰いだ彼女の額から前髪が流れ、若草色の両目がきらめいた。密やかに翠眼が閉じられたかと思えば、家を外から乱暴に殴りつける音が、玄関扉が備え付けられた方角から聞こえてくる。蝶番を無理に壊し、鍵を持たないまま室内に侵入した聖職者たちは、次々に部屋を検めていく。さしたる時間をかけずに発見された彼女は、ある一人から罵倒を浴びせられ、またある一人からは、容赦なく椅子ごと蹴り飛ばされた。首根を掴まれ、革靴を履いたつま先が床から浮き、息苦しさに喘いだ彼女は、ほどなくして外へと連れ出されていく。騒ぎの最中に転がったインク瓶が、乾くまではと開かれていた、日記の本紙を浸していく。


 幻想は、そこでふつりと立ち消えた。


 ローリエは、ミオがしたためた文字が塗り潰された羊皮紙から手を下ろした。触れている場所が動いたことで、アスターは、自分が彼の手を取ったままだったことを思い出す。微かに潤んでいるようにも見えるローリエの右目が、短くなった蝋燭の炎に照らされている。彼の掌は、まだ温かい。


「――おじさま?」


 得も言われぬ不安に駆られて、彼を呼ぶ。左手で頬杖をつき、そのまま左目を掌で覆い隠した彼は、そこで、小さな笑い声をあげた。


「……なんて顔をしてるんだ。賭けに勝った癖をして」


 少女の手指による弱い拘束を解いたローリエは、アスターの目尻を撫でた。彼の口元に浮かんだ微笑みは、自嘲のそれではないものの、どこかぎこちない。ティースプーン一杯分の強張りが混ざるのは、二十年もの間、彼が自身を責め続けた後遺症なのだと、今のアスターには分かっていた。


「あたしにも、妹さんの姿が見えました」

「そうか。持ち主に触れてさえいれば、幻覚も伝播するのかもな」

「誰かと記憶を分かち合うなんてことは、きっと、その瞳にしかできません」

「他の道具でもできたなら、誰の苦労もなかっただろう」

「おじさま」


 晴れ渡った夜空から、月光が降り注ぐ。窓の木枠に沿って、床に影絵が伸びる。太陽の力を借りる天体に負けないように、星々がしきりに瞬いてみせる。


 アスターは、ローリエの頭を包みこむようにして、彼の身体を抱き寄せた。


「また責めたら、怒りますからね」


 あなたは、あなたが悔いるよりも前から、ずっと、赦されていた。


 どこかから吹き込んでくる隙間風が、二人の縁取りを掠めていく。日が落ちてから看板を上げる店ですら、戸締りを済ませて火元を消した。誰も彼もが寝静まり、どんなに小さな物音でも耳に拾える、夏の終わり。ローリエは、傍らのアスターにしか聞こえない声で、ああ、と短く呟いた。彼の返事が僅かに揺れていたことは、アスターと、空に浮かぶ明るい月、それから、北で輝く二等星だけが知っていた。

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