額の十字架

亜咲加奈

こうしてりゃ、見えるだろ

 久しぶりに本屋に寄った。

 余田さんと暮らすようになってから、行かないようにしていた。そこには聡が描いた挿し絵が載った本が並んでいるから。俺が聡を思い出すと、余田さんが悲しむから。

 そんなふうに思い悩んで、本屋を見ないように正面に建つスーパーをにらみつけて通り過ぎようとする俺に、隣を歩きながら余田さんがそっと声をかけてくれた。

「寄ってけば」

「なんで? べつに、欲しい本なんかないし」

「三品が描いた絵、見れるじゃん」

 俺は立ちすくむ。今日の晩ごはんの献立が、脳内から消え失せる。

「わりい。その、日野さんとか、三品を、悪く言おうとしてるんじゃねえんだ」

 余田さんが俺の視界に体を入れてきた。鋭い目鼻立ちの整った顔は、心底俺を心配してくれている。それに気づいて俺は下を向く。

「ごめん」

「あやまるなよ。日野さんは、三品込みで日野さんなんだって、俺はもうわかってっから。それでも日野さんを好きでいるんだって、覚悟、決めてっから」

 俺の体温は氷点下まで急降下する。余田さんの口から発せられたその一言は、現在の俺の内面と、彼の覚悟を、的確に言い表したものだから。

 沈黙した俺の手を余田さんがそっと握り、本屋へ向かって歩き出す。俺の足は余田さんについていく。

 店の出入り口の手前で俺たちは手を離す。

「子供向けの本売り場だっけ」

 俺は、うん、と小さな声で答える。余田さんがひとりごとを言った。

「そういえば、もうすぐクリスマスなんだよな」

 去年は余田さんが、俺へのクリスマスプレゼントだと言って、聡が挿し絵を描いた『三国志』上中下巻を買って、俺にプレゼントしてくれた。それがどんなに彼に無理と負担を強いていたか、俺は当時、そこまで考えが至らなかった。

 聡の本は相変わらず、平積みになっていた。増刷された絵本に、俺は吸い寄せられる。『おでこのじゅうじか』。江戸幕府による隠れキリシタン弾圧を、信者の幼い娘、きよの目を通して書いた物語だ。小学生の俺が気に入り、母親に無理を言って買ってもらった絵本だ。ページがはずれるまで読み込んだので、高校生の頃、処分した。

「聡の話、しても、いい?」

「いいよ。いくらでもしていいって、言っただろ」

 言い方はぶっきらぼうだけど、余田さんの言葉は温かい。

「ほんとうは、きよは、両親と一緒に額に十字架を刀の先で刻まれ、役人たちから罵声を浴びせられ、棒で叩かれ、磔になって処刑されるはずだったんだ。でも、聡は、先生に抗議した。確かに史実はそうだったかもしれない。つらいことは、当たり前だ、ひどい言葉を投げつけられても、否定されても、それはどこへ行っても出会うことなんだ――そんなことばかり言われたら、この物語を読んだ子供たちが、おとなになりたいなんて思いますかって。これを書いた先生はベテランで、児童文学の界隈では名の通った人だったけど。先生は聡の言葉で、話を変えてくれた。額に十字架を刻まれるところは筆で十字架を描かれるだけになって、暴力や暴言の場面は地の文でにおわせるだけになった。そして最後に、両親が神に訴えるんだ。自分たちが先にみもとにゆきますから、きよはあとから天国に来ることにしてくださいって。神の光が役人たちを遠ざけ、きよは助かる。額の十字架を洗い流し、両親と神の前に胸を張って立てるように、強く生きようと誓うんだ」

 表紙のきよは、ほほえんでいる。額の十字架が痛々しいが、きよの笑顔は力強い。

「聡は言ってた。この仕事が、俺の仕事を変えたんだって。俺はしがない挿し絵描きにすぎないけれど、俺の絵を見る子供たちが少しでも幸せになれるように、言うことは言っていこうと、決めたのさって――」

 『おでこのじゅうじか』を手に取る。聡の思いがこうして、子供たちに受け継がれていく。その子供の一人が、俺だ。

 余田さんが俺の手に、自分の手を添えた。

「俺もこれ、読んだことあるぜ」

「ほんとに?」

「まだ、家族全員生きてた頃、一番下の光が借りてきてさ。俺に読めって言うから、読んでやったんだ」

 余田さんは小学五年生の時に、悩んだお父さんが自宅に火をつけ、ご両親だけでなく弟くん二人を亡くしている。光くんは、その弟くんの一人だ。

「やっぱ神様最強だよな、なんて、俺らは言いあってたけど、違ったんだな」

「違うって、どういうこと」

 余田さんが俺の尻をわしづかみにした。

「ちょっと! 人前で尻つかむなって、言ってるだろ!」

「最強なのは、実は、三品だったってことだろ。そんなベテランに、話、変えさせちまうんだから」

 あっけにとられる俺に、余田さんが笑う。笑って、俺の額に、人さし指で十字架を描く。

「こうしてりゃ、三品にも見えるだろ。よかったな」

 俺の胸がぬくもる。涙がにじむ。余田さんはほんとうに、聡込みで俺を受け入れてくれているとわかったからだ。

 俺も指を余田さんの額につけ、十字架を描いた。

「余田さんのことも、これで見えるよ」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

額の十字架 亜咲加奈 @zhulushu0318

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画