守るべきもの、守りたいもの②
カウンターの奥で、ニアが何か準備を始める音が聞こえてきた。
鍋を火にかけるかすかな音。
何やら草みたいなのをすり潰す、リズミカルな動き。
そんな音のする方をぼんやりと眺めていると、鍋を手に持ったニアがこちらにやってきた。
「そういえば、先輩。奥さんはお元気ですか?」
鍋をかき混ぜる手を止めずにそう言って、俺の顔を覗き込むように首を傾げる。
「……ああ、そうだな」
俺はカウンターに肘をついて、エニの顔を思い浮かべながら少しだけ目を細めた。
そういえば、エニと初めて出会ったのも、たしかちょうど今くらいの時期だったか。
――昔の記憶が、ゆっくりと蘇ってくる。
♔♔♔
今から5年ほど前。シノビになったばかりの俺は、初めての単身任務を命じられた。
その内容は、我が国に潜り込んでいる日本の工作員を始末するというもの。
俺は早速、対象が逃げ込んだとされる、ある村に潜入した。
だが、対象を追い詰めて、後一歩のところで――俺の存在が気付かれてしまった。
俺は対象と相討ちになり、思いきり腹を刺された。
しかし、自分の血が止まらないことより何より、対象の息の根を止められたかどうかが気になって仕方なかった。
ずるずると這いつくばり、うつ伏せになって倒れている対象の首を触る。
……ああ、よかった。脈はもうない。
そこで一気に緊張が解けたのか、ガクンと力尽き――俺は生臭い血の匂いと共に、冷たい地面に沈んでいった。
♔♔♔
「――――きて! おきて!」
遠くから、誰かの声が聞こえる。
……女の声?
…………まさか、あの暗殺対象に仲間がいたのか?
やばい、やられる。
起きなければ、起きなければ、起きなければ――――!
そうして、俺は静かに目を開けた。
「ああ、よかった! ちゃんと起きたわね!」
――目を開けると、知らない女が俺の顔を覗き込むように見ていた。
俺はガバッと起き上がり、慌てて彼女に向き直って戦闘の姿勢を取る。
「――お前は誰だ?アイツの仲間か?」
彼女は一瞬キョトンとしたのち、慌てた様子で必死に叫んだ。
「ちょ、ちょっと! まだ全然傷が塞がってないんだから、安静にしてて!」
そう言われ、自分の身体をまじまじと見てみると――深く刺されたはずの腹の傷が、丁寧に止血されていることに気づく。
「お前は一体何者だ? なぜ、見ず知らずの俺を助けた?」
低い声で、ギロリと睨みながらそう問いかける。
「だって貴方、困っていそうだったんだもの」
「……は?」
思いもよらない彼女の返事に、今度は俺がキョトンとする番だった。
「夕食の食材を採るために山に入ったら、貴方が血を流して倒れてるのを見つけたのよ。苦しそうにもがいている人を目の前にして、助けるのに理由なんている?」
当たり前のように話す彼女の回答は、あまりにも予想外で衝撃的で――俺にはとても理解できそうになかった。
「私の名前はエニ! エニ・リンっていうの! 貴方の名前は?」
そう名乗りながら、真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
何というか、まるで、油断しているとそのまま吸い込まれてしまうんじゃないか――思わずそんな錯覚をしてしまうくらい、彼女の目は澄んでいた。
この国の人間とは思えないくらい、柔らかい雰囲気を纏った不思議な女。
それが、俺が抱いたエニ・リンへの第一印象だった。
♔♔♔
エニの家に来てから、5日が経った。
「お兄さんは、なんでこの村に来たの?」
「別に何だっていいだろう」
「良くないわよ! あんな血まみれで倒れてたくせに!」
「お前には関係ない」
「もー! お兄さんの恩知らず!」
俺は全然返事しないのに、エニはめげずにずっとペラペラ喋りかけてくる。
正直とても鬱陶しい。頼むからそろそろめげてくれ。
まあでも、俺の正体や情報を探っている様子もなければ、会話を誘導されている感覚もない。
少なくとも同業者ではなさそうだし、そこまで警戒する必要はないだろう。
「あ、そうだお兄さん、今日の食事も野草の雑炊なの。せめて、山菜やキノコが採れたらよかったんだけど……いつも質素なものしか作れなくてごめんね」
――どうやらエニは、3年前に家族を亡くして以来、1人でこの小さなボロ屋に住んでいるらしい。
そもそも、この村自体が貧困者たちの集落。
それなのにも関わらず彼女は、明らかに怪しい見ず知らずの俺を助けた挙句、俺の傷が治るまで世話をしたいのだという。
親切を通り越して、もはや怖いくらいだ。
「助けられたことには感謝するが……あまり俺に構わなくていい。食事もいらないし、そろそろ出て行くから放っておいてくれ」
「何言ってるの、ダメに決まってるでしょ! ちゃーんとキレイに傷が塞がるまで、逃しませんからね!」
……はあ。
俺はこれから一体どうなってしまうんだ……。
♔♔♔
そしてエニの家に来てから、あっという間に1ヶ月が経った。
傷もだいぶ塞がってきている。
本来であればさっさと首都の本部に帰るところだが――世話になったエニに何も返せないまま帰るのは、何となく気が引けた。
「おい、エニ」
「はーい! …………って、えっ!!?」
俺に背を向けて洗濯物を畳んでいたエニが、この世の終わりのような顔でこちらを振り向いた。
「い、い、いい、いま、私の名前呼んだ…………??」
「…………? ああ」
「私の名前、ちゃんと覚えていてくれたんだ……?」
「俺はそこまで馬鹿じゃない」
すかさずそう突っ込むと――エニは突然、お腹を抱えて爆笑し始めた。
「あははっ! お兄さんったら、いつも突っ込むときだけはキレッキレなんだから、もう!」
……俺は何もおかしくないんだが。
何が彼女のツボに入ったのかはよく分からんが、取り敢えず楽しそうなのは伝わってきた。何よりだ。
「エニ。改めて、お前に何かお礼をさせてほしい」
「……へ? お礼、って?」
「お前が助けてくれなければ、俺は今頃この世にいなかった。お前は命の恩人だ」
「ええ〜、恩人だなんてそんな、大袈裟なんだからあ…………」
照れながらも嬉しそうにニヤニヤと笑う彼女を見て――なぜか俺まで、ほんの少し口角が緩みそうになってしまう。
「俺はもうすぐここを出るから、最後に何かお礼をさせてほしい。……といっても、大したものは用意できないが……」
すると、エニは少し考え込んでから、なぜか緊張したように顔が強張る。
そして、静かに口を開いた。
「ほんとに、何でもいいの?」
「ああ、まあ俺に用意できるものであれば……」
「じゃあ、貴方」
「ああ分かった、俺でいいなら……………………え?」
「貴方がほしいわ、お兄さん。私と一緒になってくれない?」
思いもよらない要求に、俺の頭はフリーズする。
「私ね、ずっと家族が欲しかったの。辛いときも楽しいときも寄り添い合って笑い合える、温かい家族が!」
「……いや、だからって、よりによってなぜ俺なんだ? 俺は温かい家族なんて知らないし、任務として上から命令でもされない限り、笑うことなんてない」
「べつに無理して笑う必要はないわ。でも、貴方がふとした瞬間に思わず笑ってしまうくらい、私がたくさんの幸せをあげる!」
エニは屈託のない笑顔で、放心状態の俺に、あっけらかんとそう言ったのだった。
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