第41話 誰かの隣で

 長い、長い時間の中にいた。

 それは何百年も昔の記憶。


 かつてこの地に存在した美しき神の姿を映し出す。


 ああ、なんと美しいのか。この方のお傍に……ただそれだけで、幸せだ。そう願い近付いて行ったのはまだ若い、一羽の鳥。白い羽に黄色い嘴。


 神。

 そうだ、この美しい方は神だ。崇められるべき存在。

 私の身は朽ちても、この想いは色褪せることなくあなたの傍に。そう心に強く念じ続け、ただ、もう一度会いたくて。あの美しい姿を見たくて、短い命を終えてもなお、想いだけが留まり、気付いた時には神の守り手としてこの地で暮らしていた。


 想いの強さに反応するかのように、いつしか力を有するようになり、その力で全身全霊を掛け、神を守った。木偶デクを身にまとう術も学んだが、その器を使えるのはせいぜい一年だけ。だから一年毎に取り換えなければならなかった。

 近くの島にいる聖人木偶を贄に、自らの体と、湖の中のシンフェリアを維持し続けた。

 だが、木偶にも感情がある。それは少しばかり厄介だった。スヴェラ神に仕えている身でありながら、その命を差し出すことを拒む者も、中にはいた。だがお構いなしに、すべて贄とした。


 しかし長い年月の中で、どうしても時々、自分がしていることを見失いそうになる。自らの使命を果たすためとはいえ、人格のある木偶を犠牲にしなければならないことは、多少、良心の呵責を感じないこともない。そのため数週間だけ、贄となるために島を渡りくる木偶と共に暮らし、を知ることにしていた。その時のことはすべて、日記に記しておく。木偶の人生や想いを知り書き留めることで生きた証を残し、後悔や罪悪感を消そうとしていたのかもしれない。


 長い年月を経て、やっと、スヴェラ神の復活をこの目で見ることが出来た。その姿は、変わらず美しく、今まで思い続け、守り続けたことが間違いではなかったと確信できた。

 これまでに贄となった者たちの記憶も有していたが、もう、解放してもいいだろうと思った。だが、既に朽ちてしまった肉体に宿っていた贄の記憶は、戻るべき場所がない。

 空に昇りながら、初めて後悔の念を抱く。すると、すべてを察したかのように、スヴェラ神が言った。


「その魂は来世へ送り出せばよい」


 記憶は魂となり、次の世へと生まれ変わる。

 これで、皆救われるはずだ、と……。


*****


 星空と静寂だけが辺りを包み、目を開けたまま忘れていたまばたきを始めたころ、もぞ、と腕の中で動く気配を感じ、オルガが視線を落とす。

「……う、ん」

「……サントワ?」

「オ……ルガ? 無事……なのか?」

「サントワ!」

 驚いたオルガがサントワを見つめる。生きている。背中の傷は、完全に塞がっていた。


「生きてる!」

 そう叫ぶと、サントワの首に抱きついた。

「生きてる! 生きてる!」

 笑いながら、抱き締める。

「おい、オルガ」

 困った顔でサントワがオルガを引き剥がした。

「なにが、どうなったんだ?」

 オルガは、サントワの質問には答えず、代わりに両手を伸ばす。が、触れる前にサントワに捕まれた。

「……何をする気だ」

「抱き締めて、キスを」

「……あのなぁ」

 呆れ顔のサントワに、オルガは言い切った。


「私はサントワが好き。生きてて嬉しい! もう、我慢はしないわっ」

 そんなオルガを見、サントワは驚く。つい一月前まで、暗い目をして、黙って後ろを歩いていた寡黙な少女と同一人物なのか? まるで別人だった。嬉々としたアクアブルーの瞳はサントワをまっすぐに捉え、強い光を宿している。


 そんな二人のやり取りを見て、ロェイはほっと息をつく。

 フラッフィーは放心状態で地面にへたり込んでいるし、少し離れた場所ではゼンがひっくり返っている。


 すると、ラッシェルがエリスを支え、湖の方へと歩いてきた。

 畔に横たわるのは、聖人の、男の抜け殻。


「ムシュカ……ああ、ムシュカ!」

 震えながら、ゆっくりと近付く。ラッシェルの支えがなければ今にも倒れてしまいそうだった。どうにか男のところまで歩み寄ると、その場に膝を突く。

「お願い……お願いよ。ムシュカ、目を開けて……」

 倒れたまま動かない男の頭を、頬を撫で、声を掛ける。エリスの瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちてゆく。

 その一滴が、ムシュカの頬に当たった。


*****


「……綺麗よね」

 フラッフィーが立てた膝の上で頬杖を突き、言った。

「ああ、そうだな」

 膝を抱え、ロェイが言った。

「……うっ、ぐすっ」

 小さくなってメソメソしているのはラッシェル。

 船の上、三人は甲板に出て、船室の入口付近に座り込み、目の前の光景にただ、溜息を吐いていた。


 船の先端、柵に体を預け佇んでいる二つの影。月明りの下、映し出されるのは神の化身でもある聖人の二人。エリスと、ムシュカだ。


「すんっごい有難いもの見てる感じがあるわよねぇ」

 まるで絵画のような……彫刻のような二人の美しさに、思わず力が入ってしまうフラッフィー。

「ああ、確かに有難い感じ、するなぁ」

 ぼけー、っと見惚れるロェイも、異議はない。

「くそぅっ」

 ラッシェルだけが、いじけているのだ。


「あんな姿見せられたら、そりゃ凹むわよね、ラッシェル」

 クク、とほくそ笑みながら、フラッフィーが言う。

「おまっ、それどういう意味だよっ!」

「だぁって、ムシュカってすっごく美しいじゃない? もちろんエリスも! それに比べてラッシェルは……ねぇ?」

 くふ、とわざとらしく口元を押さえる。

「聖人と比べるな! この、どチビ!」

「はぁ? どチビってなによっ。あんたはそんなだから女性にモテないんじゃないのっ?」

 いつもの小競り合いが始まる。

「こらこら、煩くしない。せっかくあの二人がいい雰囲気なんだから」

 ロェイだけが、ほわ~と二人を見つめていた。

(美しいものを眺めるって、最高じゃないか)

 なんだか気が抜けていた。そりゃそうだろう、ついさっきまで、夢みたいな時間を過ごしていたのだから。


 花は咲いた。


 サントワは不死ではなくなった。あのあと、自らを傷付けて確認したから間違いない。ナイフで切った傷は塞がらず、サントワは涙した。寿命が来れば死ぬ体になったのだ。死ぬことが嬉しいなど、凡人には理解出来ない話だったが、同時に「理解したくもない話」でもある。

「人は死ぬものだ。だからこそ、今を精一杯生きることができる」

 サントワはそう言った。


 そして、ムシュカを取り戻すことが出来たエリス。

 聖人だった彼女の名は、ディアナというらしい。


 これは本人談だが、ムシュカは一度、あの島に渡り、死んだらしい。だが、ムシュカの体の中にいた「神の守り手」なる存在が、ムシュカの意識を元の体に戻したそうだ。ムシュカには守り手の記憶もあり、彼がいかに生き、どれだけスヴェラ神を大切にしていたかも理解している。そう、語った。


 ロェイもあの時……守り手がオルガにナイフを向けているのを止めに入った時、凪の力で彼の意識を垣間見た。いや、彼だけではない。彼の贄として依り代を提供してきた聖人たちの記憶も見えた。

 あの守り手は、人間ではなかった。だから意識を操ることが出来なかったのだ。


 シンフェリアは、不思議な花だ。

 スヴェラ神が自ら作り出した花。鍵となるチジリ族は、その血をもってスヴェラ神の一部であることを証明する必要があった。だが、サントワが庇ったことで、オルガの血が流れることはなかった。それでも花が咲いたのは……

「涙、か……」

 ロェイが呟く。

「え? なに?」

「なんか言ったか?」

 フラッフィーとラッシェルに聞かれ、ロェイが首を振る。

「いや、なんでもない」


 涙の成分は、血とほぼ同じものだと聞いたことがある。

 あの時オルガは、サントワの身を案じ泣いていた。血など流さずとも、それでよかったのだ。そしてサントワは、スヴェラ神から不死を奪った誰かと繋がっていた。本人は勿論だが、スヴェラ神も驚いていたようだ。偶然なのか、必然なのか、すべてがあるべきところに収まったということになる。


「なぁ、サントワの年、聞いたか?」

 いじけるのをやめたのか、ラッシェルがそんなことを聞いてくる。

「いや、聞いてないけど」

「あのおっさん、二百五十八歳らしいぜ?」

「えええ? そんなにおじいちゃんだったのっ?」

 フラッフィーが口に手を当て、驚く。

「ロドーク部隊にいたとか、王宮で料理人やってたとか、全部マジだったとはなぁ」

 感心したように、ラッシェル。


 サントワが生き返ってからというもの、オルガはサントワにべったりだった。ビクビクしながら周りを気にしていた少女は、もうどこにもいない。


「オルガ、もうすぐ十五歳って言ってたよな。年の差二百四十三歳か……。もはや何だかわからんな」

 ラッシェルがケラケラ笑った。

「きっとオルガにとっては、年齢なんかどうでもいいのよ。自分の好きな人が生きて、そこにいてくれればそれで……。素敵じゃない!」

 うっとりとした口調でフラッフィーが言った。チクリ、とロェイの胸が痛む。ロェイの凪だけは、変わらずそこにある。願いは、叶えられなかったのだ。


 船は、闇夜をゆっくりと進んでいた。


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