第1話 宿屋「アルブール」

 視界に見えるのはかつて人間だったであろう、むくろ


 覚えているのは、割れそうに痛む頭と、制御できないほどの怒り。そして爽快感と、充足感。加えるならば、強大な力を使ってしまったことへの後悔と畏怖。

 これが、自分のしでかしたことなんだという事実は、火を見るより明らかであり、これが、己の持つ力なのだということは、恐怖であり、また、誰にも負けることはないという高慢ちきな自信。


「……終わった」

 一言口にすると、意識が遠のいていく。

 目覚めた時、自分が何を目にするのかは言わずと知れている。

 本当なら、一刻も早くここから離れるべきだ。そうでなければ、地獄の光景を再度目にすることになるのだから。


 足を動かしてみる。

 ふらつきながらも、数歩、前へと進むことが出来た。だが、そこで膝をついてしまう。

 このままでは、意識が飛ぶ。

 なんとかして、遠くへ……少しでも、遠くへ行かなければならない。

 腕を使い、地面を這う。錆びた鉄の匂いから離れたいのだ。


 重たい体を引きずるように進むと、木々が生い茂っている方に馬がいるのを見つける。誰かが乗ってきて、木に繋いでいたのだろう。

「……助かった」

 必死にそこまで這い続け、最後の力を振り絞って馬に跨ると、手綱を取り走らせた。


 行き先はどこでもいい。

 とにかく、離れなければならない……。

 

*****


「なぁ、いいかげん考え直せって。悪い話じゃないだろ?」

「……」


口説いている方の男は武人だろうか。いい具合に筋肉が付いているのが分かる。腰には剣を下げ、頭にはバンダナを巻いていた。色男、と呼ぶには少しばかり武骨な感じではあるが、決して悪い容姿ではない。


 そして口説かれている方は……やはり武人だろうか? 纏っている雰囲気は間違いなく武人なのだが、今一つはっきりしない風貌である。細身の体。黒髪を後ろで結び、半ばうんざりといった風に酒を煽っている。


 さっきからのやり取りを、耳だけで聞いている人間がいたならば、しつこい男が女性をナンパしている最中か、別れ話のもつれのようにしか聞こえなかっただろう。とにかく男は熱心に、目の前の男を口説いているのだ。

「なぁ、頼むから俺に心を開いてくれよぉ、俺はお前がいないと駄目なんだよぉ」


そんなやり取りを耳にし、ひょい、と厨房から顔を出したのは、この宿屋「アルブール」の主人、ルカである。藪睨みの眼は獣のような鋭さだ。短髪で、顔には傷もある。見た目の年齢は二十代後半がいいところだが、宿屋というより殺し屋のような人相だった。

 あまりにしつこい男の言葉に業を煮やし、絡まれている女性を助けようと、厨房から参上したわけだが、絡まれている相手が女性ではなかったことに躊躇し、包丁を片手に立ち往生してしまったのだ。


「あら、ルカ、もう下準備できちゃったの?」  

 ちょうど通りかかったナハスに声を掛けられ、思わず目をパチクリさせる。ナハスはルカの妻であり、アルブールの看板娘でもある。二十代半ばの女ざかりで、茶色の髪を後ろに纏め、くるくるとよく動く紫水晶のような瞳をルカに向けた。

 今日は港に船が入る日。もうすぐ店も混み始める時間だ。夕飯時には人でごった返すだろう。


「なんだ、ありゃ?」

ルカがテーブルの一つを顎でしゃくる。しゃくった先にいるのは男二人。ナハスと同じか、多少若いくらいに見える。

「ああ、あの二人? 今日のお客よ。まだ開店時間じゃないけど、入ってもらったの。待たせるの、悪いでしょ?」

ニッコリ笑うナハスに、二人を怪しむ様子はなかった。

「どういう関係だ? 俺には男が女を口説いているように聞こえたんだが」

「あれが?」

 見つめ合う成人男性二人の姿を指し、ナハスが訊ねる。


「いや、まさか口説いてる相手が男だとは思わなかった。どっちも武人のように見えるが、なのか?」

「さぁ?」

思わず顔を見合わせた二人は、同時に視線を男二人に巡らせた。


「愛してるんだ、わかるだろ?」

 極め付けのその台詞を耳にし、ルカとナハスがゴクリと喉を鳴らす。もう十年近くここで宿屋をしているが、この手の言い合いは初めてお目にかかる。

「……いいかげんにしてくれないか。主人と女将が変な目で見てる」

 口説かれていた男がやおら、立ち上がるとルカとナハスの方を指差した。

「あっ、」

 ナハスが口に手をやる。

「いや、その……」

 バツが悪そうに頭を掻くルカ。


「話を反らすなっ、ロェイ!」

 男がガバッとロェイの顔を両手で包む。そのまま顔を近付け口付けを……の、筈はない。ロェイと呼ばれた男は、相手の横っ面を張り倒した。当然の反応である。

「やめろと言っているだろうっ! 大体な、俺は自分が『ロェイ』と呼ばれることにだって抵抗を感じているんだっ。いいか、ラッシェル、もう一度言うが、俺はあんたの手伝いをする気は毛頭ないっ!」

 ゼイゼイと肩で息を付く。

 我慢の限界だったようだ。


「……じゃあ、これはどうする?」

 ラッシェルと呼ばれた男が、最後の切り札をロェイの目の前に差し出した。

「うっ」

 ロェイが固まる。

 何の事はない、ただの紙切れなのだが、ロェイはその紙切れを凝視したまま、口を閉ざしてしまった。

 額には汗。


「え? ロェイ、これでも俺の言うことが聞けないか?」

「……それとこれはっ」

「違うってか? 話しが違うとお前は言いたいのか? 残念だったな、ロェイ。この証文がある限り、俺とお前は離れられない運命なんだ」

 にんまり、満面の笑み。

「くそっ」

 ロェイがどかっと椅子に腰を降ろす。

「ま、いいさ。今日一日ゆっくり考えて、そしていいかげん諦めるんだな。逃げられやせん」

 そう言うと、ラッシェルは席を立つ。

「姐さん、俺ちょっと出てくるわ。こいつに酒でも出してやって」

「え? ああ、はい」

 ナハスが慌てて返事をする。ラッシェルはそのままとっとと店を出てしまった。後に残されたロェイは大きな溜息を一つ漏らし、頭を抱えこんでいる。


「……わけありみたいね」

 ナハスがルカに耳打ちする。

「首突っ込んだりするなよ、ナハス。悪い癖だぞ」

「でも」

「いいか、人間誰しも事情持ちだ。その全部に干渉する気か? いいからおとなしくしてろ。ほれ、仕事、仕事」

「ん、もう」


 ルカは正しい。それはわかっているのだが、耳にしてしまった今となっては無視するなんて事が出来るはずもなく、ナハスは酒瓶とグラスを運んでいくとそのままちゃっかりロェイの隣の椅子に座りこんだ。

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シンフェリア ~願いの花の物語~ にわ冬莉 @niwa-touri

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