10. 臭い

 マンイーター達の死体を乗り越えて、ようやく血の臭いの漂う場所から離れた。


 さすがにあの量の死体がある場所だとあたしの鼻も利かない。

 マホちゃんを捜すためにも、最低限空気の流れが良い場所に移らないと。


「はぁ。ただでさえボロボロの武道着が、返り血でもっと酷いことになっちゃった」

『返り血を受けるなどまだまだ鍛錬の足らぬ証拠だ。超一流の格闘士ウォーリアならば、触れるまでもなく敵を倒せるものよ」

「それはいくらなんでも無茶なのでは……」


 通路を歩いていると、石畳の隙間からゼリー状のものが湧き出てきた。


『む? これは……スライムか』

「はい。ダンジョン清掃係のスライムです」


 どこのダンジョンにもスライムが棲みついている。

 彼らは数こそ多いけど動きも鈍くて好戦的じゃないので、こうやって死体ができるとウゾウゾと地面の下から這い出てくる。

 目的はもちろん死体の捕食なんだけど――


『なるほどな。こやつらが死体を消化することで、ダンジョン自体が最低限生物の生存に適した環境に保たれるというわけか』


 ――パン様の言う通り、ダンジョン内が腐った死体でいっぱいにならないのはスライム達のおかげ。

 冒険者が彼らをダンジョン清掃係と呼ぶ理由はそこにある。


「でも、不思議なことに人間の死体だけは食べようとしないんですよね。スライムにも好き嫌いがあるのかなぁ」

『それはすべてのダンジョンで共通なのか?』

「そうですよ」

『何者かの意思を感じるな。ダンジョンとやらには何やら種がありそうだ』

「タネ?」

『今はよい。それよりも鼻は利くようになったのか?』

「う~ん――」


 鼻を嗅いでみても、別の臭いに邪魔されてしまう。

 強烈な血の臭い……武道着についたマンイーターの返り血のせいで上手く鼻が機能しないみたい。


「――ダメですね」


 どうしよう。

 服を脱ぎ捨てるわけにもいかないし、そもそも体にも血がかかっちゃっているから全身を洗わないと臭いが取れそうにない。


『たしかに血の臭いが残っているな。ダンジョンから出て、身を清める他あるまい』

「パン様、臭い嗅げるんだ。あたしもそうしたいのは山々なんですけど……」


 ここ、50階層なんだよね。

 転移石なんて持っていないから、自力で地上に戻ろうとすればきっと一週間くらい掛かる。

 パン様がいれば餓死することはないけど、また戻ってくるまでにマホちゃんが無事だとは思えない。


『このフロアは50階層だと言っていたな。地上に戻るのにそれほど時間が掛かるのか?』

「低難易度ダンジョンと違って、迷宮図書館はすっごく広いんです。往復してたら、ルシアさん達に先を越されちゃいますよ!」

『ふむ。ならばこのまま進むしかあるまいが……貴様の格好は品位の欠片もないな』

「仕方ないでしょ! 替えの武装なんて持ってないんだからっ」


 天然のダンジョンならたまに地底湖があるんだけど、ここは人工のダンジョンだからそれも期待できない。

 このまま探索を続けるのは嫌だけど、仕方ないか。


 それからダンジョンの下層を目指して前進。

 途中、何度もモンスターに遭遇したけど、いくつか発見もあった。


 死体こそ残っていないけど、通路の各所で新しい破壊の痕跡を見つけた。

 どれも打撃によるものなので、きっとギルティナ達が通った後に違いない。

 この破壊痕を追っていけば、彼女達に追いつける。


「もしマホちゃんを見つける前にあの二人に追いついたら、今度こそ……!」

『そのギルティナという格闘士ウォーリアに勝てるか?』

「う~ん。どうでしょう……?」


 ギルティナは闘気を使えるほどの熟練の格闘士ウォーリア

 正直、最近ようやく闘気に目覚めたあたしとは格が違う相手だと思う。

 でも、あたしだって二度も同じ相手に負けるわけにはいかない意地もある。

 何より、あの人をやっつけないとマホちゃんを助けられない。


『まぁよい。その者と遭遇するまでまだ時間もあろう。次に対峙する際は紛うことなき決戦――なれば、それまでに闘気の扱いに慣れておくがよい』

「でも、闘気を使うとお腹が一層減るんですよね」

『限界が近くなれば改めて余の一部を口にさせてやる。それまでは空腹ごときで音を上げることは許さぬぞ』

「厳しいなぁ~」


 このスパルタな感じ、故郷の先生を思い出しちゃう。


 破壊痕をたどっていくと、下層への大階段を見つけた。

 警戒しながら下っていくも、特に敵の気配はなし。


『一階層下りて、一層邪気が増したな』

「その邪気ってなんなんです? あたしには上の階層と何も変わらないように感じますけど」

『だから鍛錬が足らぬのだ。もっと集中して五感を研ぎ澄ませてみよ。漂う空気の中に、えも言われぬ不快感を感じるだろう』

「……」


 ……感じないんだけど、正直に言ったら怒られそう。


「あ、うん。感じます感じます」

『見栄を張るな、馬鹿者っ』

「ぎゃっ‼」


 頭の上で跳ねたパン様が、先端をぶつけてきた。

 思いのほか痛い……。


『貴様の才は本物だ。戦闘の中で己を高めていけば、直に感じ取れるようになる』

「はい……」


 それから何度かモンスターと遭遇しながら――パン様がまったくスルーを許してくれない――、あたしは何階層も下っていった。


 普段はパーティーで探検するから、一人でダンジョンを下っていくなんて初めて。

 お腹が空いたり疲れたり傷を負ったりしても、パン様を一噛みすれば完全回復するから思いのほか楽に進むことができている。

 パン様さまさま‼


『――ここが55階層か。まったく変わらぬ景色……退屈極まるな』

「ダンジョンってどこもそういうものですよ。特にここは図書館の迷宮だし」


 55階層に下りてきて、ルシアさんとギルティナの臭いが一気に薄くなった。

 このまま先に進むべきか迷ってしまう。


『どうした? 今さら臆したわけでもあるまい、早く進まぬか』

「ルシアさん達とは違うルートを選んじゃったみたいなんです。このまま進んでもいいものかと思って……」

『各階層を繋ぐ階段は一つではないということか。最後に行き着くのが同じ最下層ならば、ルートを違えても構わぬのではないか?』

「あの人達は下層に逃げたマホちゃんを追ってるんですよ!」

『だが、その連中にしてもマホとやらがどのルートを通ったかなどわかるまい。条件は同じであろう』

「それはそうですけど……」


 理屈はそうでも、どうしても気だけが焦っちゃう。


 あたしはパン様が一緒だからなんとかなっているけど、マホちゃんはたった一人でダンジョンを逃げ回っているんだ。

 一刻も早く見つけてあげないと、また取り返しのつかないことになるかもと思うと焦ってしまう。

 彼女の敵は何もルシアさんとギルティナだけじゃない――ダンジョン内のモンスターだって恐ろしい存在なんだから。


 それからしばらく通路を歩いていると、鳥の鳴き声が聞こえてきた。


 周りの本棚を見上げてみると、ずっと上の棚板に翼の生えた女性型のモンスター達が休んでいるのが目に入った。


『あれはハルピュイアか。屋内とはいえ、この広い空間では翼がある相手は少々厄介だな』

「……なんだかあのハルピュイア、様子が変ですね」


 ハルピュイアとは地上で何度か戦ったことがある。

 その時の彼女達は髪も乱れて翼も肌も汚れていた――それなのに、棚板に座っている彼女達は髪も肌も綺麗なまま。

 まるでついさっきまで水浴びをしていたようにすら見える。

 しかも、心なしか頬が赤らんでいるようにすら見える。


『グゥよ、あれらの何に気付いた?』

「え? いやぁ、綺麗好きのハルピュイアなのかなぁって」

『貴様は観察眼はあれど、知恵と知識が足りておらぬな――』


 なんだか酷いことを言われたような気がする。


『――たしかにあのハルピュイアは清潔のように見える。ダンジョン内で身を清める場所があるということだ』

「それって……!」

『人工物とはいえ、事実上は数千年も存在するダンジョンなのだろう。地上から沁み込んだ水がどこかに溜まっているのかも知れぬ』

「そこを探しましょう! 水浴びしたい‼ 体洗いたいっ‼」

『衛生観念はまともそうで安心したぞ。余としても、従者がいつまでも血まみれでは立場がない。ひとまずこの階層に留まり、水場を探すがよい』

「はいっ‼」


 ちょっと興奮し過ぎたのか、ハルピュイア達に見つかってしまった。


 ハルピュイアは人肉を食らうモンスターなので、単独でいるあたしを見つけてすぐにでも襲ってくる――そう思って身構えたけど、彼女達は一向に動く気配を見せない。

 それどころか、あたしを蔑むような目を向けてくる。


「クフフッ」

「アハハハ……」


 あれー?

 なぜかあたし笑われているんだけど⁉


『どうやらみすぼらしい姿の貴様をあざ笑っているようだな』

「ぐふっ!」


 パン様の容赦ない言葉があたしのハートに突き刺さる。

 これでも一応女の子なんですから、もう少し気を使ってほしいな⁉


『血まみれの貴様などには食指が動かぬのだろう。結果として、無駄な争いが避けられてよかったではないか』

「まぁ、複雑な心境ですけど……」


 モンスター相手に卑屈な気がするけど、女として負けた気がするのは気のせい?

 少々へこみながらも、あたしはその場をやり過ごしてあるはずの水場を探し始めた。


 ごめん、マホちゃん。

 体を清めることで鼻も利くようになるから、少しだけ追いかけるのを休むけど、無事にあたしのことを待っていてね!

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