██████のために②
まさか、その日の放課後に実行するとは思いもよらなかったわけであって。
どころか彼女的には昼休みでも良かったらしい。もし次の授業が体育でなければ、昼食もほどほどに、一も二もなく飛び出していただろう。学生とはかくもアクティブな生物なのだろうか。インドア代表の私では計り知れないな。
焚き付けた手前、このまま黙ってただ帰りを待つのもそれはそれで寝覚めが悪く、職員室に向かうこてつに付随して、あとは奥まった階段の下で帰還を待つことになった。薄情だとは言うまいね。私には言われもないのに職員室へ入るフェチはない。出入り口で学年クラス氏名を叫ぶあの行為、文化祭並びに修学旅行と同じくらい気が滅入る。
着いてきてくれと言われたらその限りではないにしろ、こてつは一人で赴いた。そもそもパーソナルな話し合いに他所者は不必要だろうし。
私がいたところで、どうにか防げた顛末だとも思えない。
無機質な扉をガラリと開け、ついでに礼儀正しくお辞儀なんかしてこてつは戻ってきた。腰付近まで伸びた髪の先を手持ち無沙汰に弄ぶこと三回目頃のことだった。
どうしようもなく重い顔でおずおずと近づいてきた姿で結果はなんとなく予想でき、さてどうやって慰めようか、そもそも誰かを慰めるのなんてどうすればいいのか、短時間でシミュレートした。
彼女は開口一番、
「——高等部に上がっても、このままかもしれない」
「はぁ?」
淑やかの化けの皮が剥がれた。それほどまでに予想していなかった回答だった。
百歩譲って中等部で染められないのはまだ理解の範疇だ。校則による禁止事項だし、隣人のように学校が要因で脱色してもいない。茶髪から黒髪にするのと彼女とではまた別の問題というのもあるかもしれない。
だが高等部は違う。中等部の禁止校則から解放され、公的に染髪が許可される。現に六月、こてつを見に来たなかの何人かは地毛とは思えない髪色をしていた。そもそも学校側の認可など不要で、止められるいわれすらない。
素行不良?なわけがない。規律一辺倒じゃないとはいえ、朝は私より学校に早く登校し、弁当を自分で作り、おまけにお辞儀まで欠かさない人間だ。もしそうなら私なぞ退学になっていてもおかしくはない。
不可解だった。
「横田先生がね、褒めてくれたんだ」
彼女はぽつりとこぼす。涙の代わりに言葉を。
「クラスのみんな、あたしが頑張る姿で勇気づけられてるんだって。見た目の違いを受け入れて、目の不自由にも負けずに、学校生活を送ってるから。この髪は、クラスを眩しく照らしてくれる太陽みたいなんだって。そんな素敵な髪だから、少しも気に病む必要なんかないんだって」
担任は厳しくも話が通じない人ではない。そして、悪い人ではない。クラスメイトもよく知らないが、悪い人ではない。
「前の中学の人たちも優しかったんだよ。みんなあたしを受け入れてくれて。本当にあたしは恵まれてる。そのクラスのスローガンも『自分らしく輝く』って挙げてくれてさ。他人と違っても、自分らしく輝けばいいってみんなからのメッセージ……なんて、自意識過剰か。はは」
力なく自嘲する。義務づけられたように笑う。辛いときは笑わなくていいのに。誰かがそう教えていればと見ず知らずの人間を責める権利は、掛ける言葉の一つすら見つけられないでいる私には到底なかった。
「あたし、失明するんだ」
どんな顔をしていただろう、私は。
涙も流さなずに言い切ったこてつに対して、私はどんな顔で応えられただろう?
自分の中に他人の感情が侵入して、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、かき乱されて、陸に立ちながら船酔いしている心地だった。
「今すぐにじゃない。いつかはわからない。でも二十歳まで持つかも怪しい。弱視の他に緑内障の初期症状があって、治療で進行を遅らせてる。完治は絶対にしない」
絶対に、という単語が頭の中で妙に響く。
「あとどれだけ希望になれば——あたしは報われるんだ?」
眩しくて、ただ眩しくて、目を逸らしたくなる。
だけどこれは逸らしてはいけない光。
逸らした瞬間、闇に押しつぶされる光。
思えば初めから彼女には傾向があった。クラス中からの注目に気づいた時。手を引いて人混みを突っ切る時。自身が注目の対象となったとき、総じて怯えたようすをみせていた。きっと元来、目立つことは苦手なのだろう。
「怖い。……——怖いんだ。人の目に晒されるのが怖い、人の注目を浴びるのが怖い、誰が誰だか分からない視界が怖い、それでもいつか来る暗闇だけの世界が怖い、前を向く象徴にならなきゃいけない人生が怖い、怖いものしかない。でも、何よりも——」
「誰も悪くないから、怖がるしかできないことが、怖い」
誰かを呪うことも恨むことも責任を押し付けることもできない恐怖を、私はまだ知らない。恐怖されることはあっても、なにかに恐怖したことなんてない。
強く抱きしめたい。でも何の意味がある?抱擁だけで解決なんてしない。どこまでも打算的な思考が嫌になる。
「あたしは嬉しかったんだ、ひととせ」
嬉しいって、何が。
「ヘーゼルの髪色が似合うって言ってくれただろ。今まで誰に聞いても『そのままでいい』としか返ってこなくてさ。ふと『ああ、このままいつもみたいになったとしても、ひととせになら全部全部打ち明けられるかも』って、あの時思えたんだ」
はた迷惑な話かもしれないけどさ、と付け加えられて。
「……そんなの、気にしなくていい」
「優しいよね。あたしはその優しさにずっと甘えてたんだ。ひととせは髪が長いから、こんな目でも見つけられる。なによりみんなあたしより君を見てたから、一緒にいるときは少し、呼吸がしやすかった」
やめてくれ。
罪悪感なんて感じなくていい。
居心地がいいなら、ずっといればいい。
私は視線に慣れきってしまったけれど、きみまで慣れる必要がどこにある。傷つかなくていいならそれに越したことはない。まだ傷つけるなら手遅れじゃない。
永い時間が経ったような気もすれば、ほんの一瞬を駆け抜けたような気もする。
廊下を賑やかす生徒たちの声で現実に引き戻された。部活の集団だろうか。そのうち何人かが「こてっちゃんやっほー!」と呼びかけ、流れるように私に視線が移り、慌てて目をそらす。応対したこてつの変わり身は見事なもので、まばたきしたあいだにはもう、いつもの晴れ晴れとした笑顔に戻っていた。
「……吐き出せさせてくれてありがとう。結構ヘビーな話しちまったよな!」
また来週会おーぜ!と正門方向に向かって走っていく後ろ姿を、小さくなってやがて消えてもなお目で追い続ける。今日ばかりは、正反対の家の方向が忌々しくて仕方なかった。
『変われるよ。変わろうとしてんなら』
ケチャップライスを頬張りながら呟いた彼女の言葉が脳内でリフレクトする。
簡単に言ってのけた
高く、高く高く高く高く高い壁に、守られるようでいて閉じ込められていた。
私に、一体何ができる?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます