第1話 いざ、東京へ!Ⅳ
「久しぶりだな、兄さん」
「待っていたよ、零次。久しぶりだね。それに姫依も」
姫依はぺこりとお辞儀をして。
「お変わりないようで。安心致しました、零一様。それに――先輩も」
「……先輩と呼ぶのは止めなさい。私はもう引退した身ですよ、モモ」
女性にしては声が低い。
イメージとしては、怖い先生が生徒を律するような、聞いた者の背筋を自然と正すような、厳かさのある声色だ。
会社員然としたビジネススーツにタイトスカート。姫依とは対照的なロングヘアーに、凜とした顔立ちは落ち着きを備えたデキる女性を思わせる。
独特の緊張感と、冷徹さを兼ね備えた貴婦人がそこには居た。
「でも、先輩は先輩ですから。私にとってはいつまでも」
姫依はニコリと笑みを浮かべた。
「あっ、そういえば! 長野からお土産を持って参りました。よければどうぞ」
持参したキャリーケースの中から小箱を取り出すと、姫依は先輩――韮崎冬優子へと差し出した。
冬優子は小箱を手にした瞬間、察したように口を開いた。
「まさかとは思いますが、昆虫食ではないでしょうね」
「……お見事です♪」
「やはり」
小箱の蓋をズラす。これだけで充分だ。中には都会人が見るに耐えないゲテモノ、イナゴの佃煮が入っていた。当然モザイクだ。詳細を知りたい方は各自で調べてほしいが、海ナシ県と称されて久しい長野が誇る郷土料理である。
げんなりした冬優子は、そっと蓋を閉じると、デスクの隅へと追いやった。
「これは社員に不手際があった際の罰ゲームに使いましょう」
「鬼か、君は。パワハラには注意してくれよ」
ツッコミを入れたのは、社長である零一だった。
「では、貴方が食べますか?」
「おっと、遠慮するよ。最近食欲不振でね」
「朝の食事はしっかりと食べていましたが?」
まるで夫婦漫才だ。社長と秘書の関係でこんな仲睦まじいやり取りをしていれば、嫌でも勘ぐってしまうだろう。
あの二人――もしかしてデキているのではないか、と。
しかし心配は無用である。これは二人が『社長×秘書』の関係だけにあった場合の話だ。
そう、二人の薬指にはきらりと輝く指輪が嵌められている。つまり――そういうことだ。
「兄さん。夫婦漫才はいいよ。本題に入ろう」
「そうだな」
零次が交渉の席につくと、零一も後に続くように席に座った。
「――確かに。親父の遺言は受け取った。これで正式な継承権は一時的にボクのモノになったわけだ」
零一は、ざっと紙片に目を通して顔を上げた。
御剣零一――その姿は零次とよく似ている。歳は二十六。スーツを着こなすのにも慣れ、学生気分が抜けた表情には自信の色が伺える。飾らず、けれども元来備えた甘いマスクと柔和な声色は男女問わずウケがいい。ナルシスト気質は零次に劣らず彼にもあるが、新進気鋭の敏腕社長ともなれば、なかなかどうしてサマになっていた。
「しかし参ったものだ。どうもお前には甘いな、親父は。こんな申し出を僕が素直に許すと思うかい?」
零一は、同封されていた手紙を文字通り投げ捨てて、零次の目を見た。
「……っ、それは」
酷く、冷たい目だった。相手を射竦めるにはそれで充分だ。
「第一、継承権は本来、長男である僕が受け取って然るべきものだ。お前にチャンスなど、はなからなかった。挑めただけでも、充分に恵まれていたはずだ」
零次は応えない。兄の指摘は至極真っ当だったからだ。
「仮に僕が、この提案を呑んだとしよう。それで僕になんのメリットがある。そもそも零次。お前はこの三年間でなにをしていた。一度も僕の成績を超えることが出来なかったお前が……新たな猶予期間を貰ったとして何ができる。勝てる見込みがあるのかい?」
「それは……いや、ゼロではないはずだ。俺は他の連中比べればデキる方だ」
「自分で言うか……まぁ、そうだな。その点は認めよう。お前は確かに優秀だ。だがそれだけだ」
「なんだと?」
「この際だからハッキリと言ってやろう――お前は、比べる相手を間違えている。倒すべき相手は、この僕だろ?」
「ぁ……っ」
なんとも情けない声が出た。
そう、零次の相手は、実の兄なのである。学校の中では、などという狭い範囲の話はしてない。零一の記録と比べて優秀でなければ、次期後継者には選ばれない。
「だいたい、今更勉強で捲ろうったって無理な話だ。お前は俺よりも頭が悪い。単純な成績で比べたら勝てるわけがないだろう」
やはりこうなった。どれだけ交渉しようともこれ以上は無駄だろう。そう思った時――
「でもいいよ。お前も苦労しただろうしね。時代背景を考えれば、情状酌量の余地はある」
「本当か?」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「次の三年で、真新しい成果が出なければ、お前も家を出ろ。メイド共々だ」
実に、零一らしい落としどころだった。
元々、零一は零次に仕えるメイドたちを快く思っていなかった。
ただでさえ、仕事を増やすメイドたちだ。雇われの立場からすれば『低賃金で働いているのに!』と苦言を呈したいところだが、雇う側からすれば『会社の役に立たない無能は無価値』なのである。
考えてもみて欲しい。自分が金を払う立場にあるとして、利益も上げない無能たちを養いたいと思うだろうか? むしろ『会社(自分)の利益を喰らうだけの癌』は早く摘出したいと思うのが『普通』の思考だろう。
利益を齎すことのない不良債権を支えてやる余裕など、今の日本社会にはない。これに甘んじて重石となるのは、もはや害悪のソレとなんら変わりないだろう。
「お待ちください。それはあんまりです。何故、零次様まで!」
「無能はいずれ捨てられる。ただそれだけのことだよ。あぁ……けど、姫依は居てもらって構わないよ。一人くらいはあの家の管理者が必要だからね」
「私のことはどうでもよいのです!」
「いいよ、モモさん」
零次は姫依の追及を制して。
「その条件、呑むよ」
「いいのか? 僕は切ると決めたら切るよ。喩え血を分けた兄弟でも」
「ッ――零次様!!」
「どの道、この条件を呑むしかないんだろう?」
「そうだね。これが落とし所だ」
「なら決まりだ。俺はもう一度、兄さんに挑戦する。次は負けんぞ!」
「負けた場合はメイド共々おさらばだ。精々頑張れ、言質は取ったぞ!」
「はい、確かに」
冬優子は胸ポケットからボイスレコーダーを取り出すと、終了の合図を告げるように正面に備え付けられた停止ボタンを押した。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼する。手間を取らせて悪かった」
「気にするな。僕も久しぶりにお前と話せて嬉しかった」
「嬉しいようには……思えなかったがな」
零次は逃げるようにして兄に背を向けた。
「零次!」
声をかけられて、零次は足を止める。
「使えるものは全て使いなよ。金も立場も環境も有効に使ってこそ価値が出る」
どうにも癪に触る物言いだ。大人故の余裕だろうか。
「ご忠告どうも。言われなくても、そのつもりさ」
こうして面会の時間は終わりを告げた。
昔は仲の良かったはずの兄弟も、成長すれば否応もなく変化する。
後継者に選ばれるのはただ一人。兄である零一か。或いは弟の零次か。
こうして、再び零次の挑戦は始まった。
来る審判の時まで、残された時間はあと三年。
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