第六章 わたしとあなた
わたしと
息を吸うのも億劫になっていた。
私は部屋を移動することになった。運ばれている間、熱でぼんやりとしていたので、どこに移されたのかは覚えていない。砦内だということと、慎重に抱いて運んでくれた人がアルマくんということだけは覚えている。
なんとなく分かったのは、私の部屋の周囲には人がいないことくらいだ。
「隔離されたのかな」とアルマくんに聞くと、彼は、「静かでいいだろ、医務室も近いし」と平然としていた。
下の階に、医務室があるらしかった。頻繁に足を運んでくれるムキムキなお医者さんや優しい看護師さんと、アルマくん、たまにエディがふらりと訪れる以外、ここまで来る人はいない。
それが寂しいとか悲しいとか、そういった感情が沸かないほど身体が辛かった。苦しかった。吐く体力もなくなるとは思わなかった。
たまにアルマくんからもらった髪飾りをつるつる撫でて、気持ちを落ち着けている。こういうことがなかったら、たぶんとっくに冷静さを失っている。
アルマくんがある日、小さな雪だるま(たぶん)を盆に乗せて運んできた。雪玉が二つの、日本式の雪だるま。
「雪が降ってるの?」
「ああ。見るか?」
アルマくんの手を借りて上体を起こすと、窓の外ではちらほらと雪が舞い降りていた。
それほど積もっていなかったので、頑張って雪をかき集めたのだろう。不恰好な雪だるまに、私は笑みを零す。
「懐かしいなぁ。大きいの作ったよね」
目に痛いくらい真っ白なその塊に、私の指先が触れる。思わず顔が歪んだ。
「ねぇアルマくん」
「どうした?」
「私、もう冷たいのもよく分からないの」
アルマくんはしょっちゅう私のところに足を運んだ。
私は絶対に安静にしていなければならないため、時々アルマくんが持ってくる物で、外の様子を知る。
ふわふわした動物の毛だま、雪にも負けない青々とした新芽、きらきらと玉虫色に輝く鳥の羽、息を呑むような赤金色の鱗――。
彼はそれを私の頬に宛がったり、手の平にそっと乗せたりした。
仕事はいいの、と聞くと、余計なお世話だと返された。
それから、「ちゃんと全部終わらせてるよ」と付け足されるのが、最近の私への優しさだった。
たまに来てくれない日もある。どこかに出かけているらしい。寂しいけど、文句は言えない。
私はベッドを少し高くしてもらった。常に窓の外が見れるように。
そういえば私の部屋には窓が無かったな、とぼんやり思い出す。あの部屋にいたのがずいぶん昔のように感じた。ほんの数日前まで、そこで寝起きしていたのに。
窓は綺麗なものばかりを映した。私が見るのは、だいたいが青空だった。空の様子は常に変化するから、まだ気が紛れた。こんなにも美しいものがあったのかと息を飲むこともあれば、同じようなものをもう百回以上見た気分になったりもした。
特に綺麗な時は、アルマくんにも見せたいな、と思った。どんな絶景も、私が言葉にすると途端に陳腐になってしまうから。
「アルマくんの青色は、空とは全然違うね。もっと深いけど、海ともまた違う……。アルマくんの青色は、アルマくんの青色だね」
昔だったらハア? とばかりに顔を顰められていただろうが、今では返ってくるのは沈黙ばかりだった。
「私にとっては、あなただけの色」
「――止めてくれ、そういうこと言うの」
「なんで?」
「死んでくみたいじゃないか」
言って、私の手を縋るように掴む。たぶん、初めて触れたときと同じで、彼の手はあったかいのだろう。
「これからもずっと、アルマと呼んでくれるんだろう」
私は目を瞬かせた。とても懐かしい響きだった。最初の頃、彼の名前が長過ぎることに文句を言ったときの、私の――。
「あんな前のこと覚えてるの」
「たかが数十日前だ」
「たかがなら忘れてよ」
「たかがなら、もう、わたしのことなんて忘れてよ――」
自分の涙をぬぐう指先さえ震えていた。寒いわけでもないのに、私の指じゃないみたいにうまく動かせない。強張った間接から、熱のような痛みを感じる。咳のしすぎて骨と筋肉が痛い。朝も夜も、押しつぶされそうな心地で生きている。
こんな状態で、これから先も普通に元気に生きていける、なんて夢を見られるほど、私は馬鹿じゃなかった。
――お医者さんと看護師さんの、重苦しいひそひそとした囁き。彼らから何かを伝えられたのだろう、アルマくんの呆然とした表情。見舞いに来たエディの、変に気遣うような視線……。
多分私は死ぬ。この世界で、家族もいない中、たった一人で――。いや、一人ではない。アルマくんがいる。私には最期まで、アルマくんがいる。
だけど、アルマくんは? 私が死んだら、アルマくんはこの世界に一人になってしまう。いくら周りに人がいても、彼は
「イブ」
アルマくんが優しく私の涙を拭う。
私は申し訳なくて堪らなくなる。ごめんなさい、アルマくん。ごめんなさい。ごめんなさい。
アルマくんはそんな私の震える手を包むこむように握りしめた。
「忘れられない」
「忘れられないんだよ、イブ」
「俺は――」
俺の生きた十七年。
彼らの在った二十年。
期待に縋る、命をも超える、彼らの祈りと魂の重さを知ってなお耐えられたというのに。
「お前のいた、たった数十日の日々だけを、俺は耐えられそうにない」
「彼女は恐らく治せない」
信頼する医者にそう告げられて、アルマ・アルマットは一瞬言葉を詰まらせた。
「……毒か? 病気か? 呪いか?」
「強いていうなら病気だが、原因はまた別だ。なんて説明するべきか――まず、そもそも、この世界が彼女に合っていない。見てくれや生態は似ているのかもしれないが、環境の全く異なる空間で育ってきた人間だ。こんな所に来て、よく二ヶ月保ったもんだ」
「異世界の人間が、この世界の病にかかるのか?」
「そうなる程度には、俺たちはよく似ているようだ。不運なことにな……」
「じゃあ治せないのか? 万病を治す薬だって俺は取ってきてみせる、だから、」
「それで治せたらとうに頼んで、治している」
別の大陸や島に移動した際に、最も恐ろしいのは病だと聞いたことはある。理屈は分かる。
しかしアルマ・アルマットは呆然とする。
さすがのアルマ・アルマットも人間だ、以前、大怪我を負ったことがあった。魔物の死に際の一撃で、恐らく下腹の内蔵が潰れるか千切れたかしたと思った。死ぬのだと、やっとこの世界から離れるのだと、息を吐いて目を閉じた。
それを、傷一つ残らぬよう治したくせに。
「俺一人作り上げたくせに、彼女一人治せないというのか!!!」
「しかたないだろ。お前はこの世界の人間で、彼女は違う世界の人間だ」
医師の男は憐れむような顔をする。
「彼女は、お前とは――俺達とは違うんだよ」
絶句した。
お前が、お前らがそれを言うのか、と思った。
しかしそんなことを言ったところで、何にもならないのだ。
アルマ・アルマットは伊吹を治せるだろうものを全て用意した。ドラゴンの血や鱗、万病に効くだろう薬草、不死と噂される虹色の鳥の羽根等。手元にあるものは全て使って、ないものは何処へでも取りに向かった。
過去の『遺産』で対応できないのなら、今この世界にある物で治せないかと考えた。
医者には不可能だと言われていたが、それでも何かせずにはいられなかった。
伊吹のためなら、勇者アルマの代替として振る舞うのも苦ではなかった。青い髪も目も、それで情報が容易く手に入るのであれば、悪いものではない、とさえ思えた。
皮肉なものである。こんな状況になってやっと、自分自身と折り合いをつけることができるようになった。
しかし今の状況では、それを喜ぶのも難しい。一緒に喜んでくれるような人間もいないのだから。
ベアトリーチェにも手紙を書いて、伊吹の状況を伝えた。忙しい彼女からの返事は期待していなかったが、意外にもすぐに返ってきた。文章は短い。『時間を見つけて向かいます』とのことだった。
どうやら彼女は『東の蛮族』に宥和する側に立っているらしいので、(検閲されても問題のない程度で)ティーという名を伝えておいた。聡明な彼女のことだ、きっとこれだけでうまく手を打つだろう。
(他になにができる。俺になにができる――)
しかしアルマ・アルマットが手を尽くして用意したものは、どれも結局、なんの役にも立たなかった。伊吹は最早雪の冷たさすら分からぬと言う。
おまけに精神の調子も悪そうなので、医者にも相談した。
「病気もあるが、死に際の悪魔のせいだ。あまりにも強い……どんな聖人でも、死の恐怖に憑かれたらその良心を取り乱せてしまう。……あの子はあの小さな体で、よく保ってる方だ」
「本当に、悪魔だったら殺せたのに」
「お前も少しは休めよ。まあ、休んだら後悔するタイプだろうから、止めはしないが」
「……ありがとう」
(俺に、何がある?)
答えは出ぬまま、ただ時だけが、無情にも彼らを通り過ぎてゆく。
(どうしよう)
死んだように眠る伊吹の病室で、アルマ・アルマットは途方に暮れた子どものように、うろうろとする。できることはないが、側にいないと不安で怖くてしかたがないのだ。
(どうしよう、どうしたらいい――)
伊吹が助からない。伊吹が死んでしまう。どうしよう、どうしたらいい。
なんだってするから誰か助けてくれないだろうかと思ったが、祈る対象も見つからない。アルマ・アルマットは人殺しだから、神の救済の対象ではない。彼はよく祈るが、その祈りには行く先がないのだ。
彼は泣きたくなった。人なんて殺さなければよかったのだろうか。だけど自分がまともに習わせてもらえたのなんて、それくらいしかなかったのだ。本当にそれしかなかった。
だけどそうやって、刃物の扱いが得意になったお陰で、伊吹が病んだときには看病として、リンゴの皮を剥いてあげることができた。
リンゴを持っていくと、伊吹は微笑ましそうに、優しく笑う。それが嬉しかった。でも、そんな彼女が死んでしまう。
(どうしよう――)
本当にどうしようもないことなんて、彼に降り掛かってきたことがなかった。
――だって、どうでもよかったのだ。
傷つくこともない、必死になることもない。それでよかった。人々が自分を見ないから、自分だって人々を見なかった。
そんなこと自覚すらしていなかった。伊吹に出会うまでは。
(なんだって受け容れる気でいた、彼女の選択ならしかたないだろうと思っていた。『東の蛮族』の所へ行ってしまっても、元の世界に帰ってしまっても、俺はそれを受け容れるつもりでいた)
しかし彼女が、自分が死ぬことを泣いて受け容れていることが、本当に耐えられないほど辛い。
堪らなくなって、アルマ・アルマットは眠る伊吹の顔を見つめた。その青褪めた頬を見つめながら、アルマ・アルマットは目を伏せた。
「イブ」
囁くように呼びかけるが、彼女は身じろぎもせず、死んだように眠っている。寝息はか細く、時おり苦しげに鳴る。目の下に貼りついた青紫の隈が、こけた頬をよりいっそう病的に見せていた。
「……強がりでもなんでもなく、俺は一人でも生きていけたんだよ」
それから、アルマ・アルマットはいくらかためらったように口の中で言葉を弄んだ。やがて何事か口を開きかけ、結局長い溜息を一つだけ落とした。
しばらく眠る伊吹の寝息に生を確かめたあと、彼は小さく口を開いた。
「俺は、……?」
眠る伊吹が身動ぎすると、布団から何か布切れがこぼれ落ちた。
拾い、手のひらの上で広げて、アルマ・アルマットの指先が震えた。
白い花、赤い林檎、黄色の太陽、二つの白い円は雪だるまだろうか。銀の剣、金の羽根ペン、飴色は恐らく彼女に贈った髪飾りだ。そして、青い月と星――。
かつて彼が刺繍を頼んだ帯だった。鮮やかな糸で一面飾られたそれに、アルマ・アルマットの涙が一つ、二つとはらはら散った。
「俺は――」
一人でも生きていけた。強がりでもなく、アルマ・アルマットには一人で生きていくための精神と能力があった。
家族も愛も友も無く、例えこの身一つで荒野に放り出されたとしても、アルマ・アルマットは生きていけた。伊吹とは違う。生来孤独に過ごすことができるような精神性があり、それだけの力があり、培ってきた能力があった。
例え確固とした自分自身というものが無くても、例え他人から代替品と見なされようとも、周囲に自分の力を認めさせるだけの腕があった。
彼は一人でも生きていける人間だった。
「お前が、現れたから。お前が俺を、『アルマ』と呼んだから……」
勇者アルマの代替でなく、アルマ・アルマットを見て。彼の手を握り、楽しそうに笑い、心の底から感謝し、怒り、何度も涙を流し、共に過ごした。アルマ・アルマットのための刺繍を悩み、考えてくれた。
ベアトリーチェとまたああして笑い合えたのも、勇者アルマの五人の仲間について語ることができたのも。
……女性のために髪飾りなんて買ったのも、彼女の涙を拭うことに備えるようになったのも。全部、全部――。
「ぜんぶ、お前の、お陰なんだ……。イブ、伊吹……」
アルマ・アルマットには自分自身というものが無かった。そのため当然、物理的にも精神的にも、『自分の』ものが何一つなかった。何かが手元から消えてしまい寂しいとか悲しいとか、そういった感情もなかった。
それが彼の強さだった。アルマ・アルマットという生命が、代替品としてこの世に生を受け自我を持ってからの十七年間。それだけで彼はこの世界で生きていた。生きていくことができた。
伊吹が生きてきた世界とはまた別の、彼自身の世界で。
暫くの間のあと、アルマ・アルマットは彼女の刺繍を手に、音も無く立ち上がった。最後に眠る伊吹の寝顔を一瞥し、何も言わず静かにその部屋を後にした。思いつめた横顔だった。
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