ニケの首
田辺すみ
1
いな、
忘れたるにあらねども、
えがたくて、
残したる紅き林檎の果のやうに。
(サッフォ著、上田敏訳)
水平が鈍く輝いている。もう直ぐ天から全ての光が失われる。
俺は
「何か待っておられるのですか」
自分が声を掛けられたのか、振り向くと初老の紳士が黄昏の光を受けて立っていた。きっちりと着こなされたスーツに穏やかな笑い皺、潮風にほつれた銀の髪。視線はまるでこのエーゲ海のように蒼く澄んで、底が知れない。
「カフェに向かった時にも、ここにいらっしゃいましたね」
観察力には自信が有るが、こんな男が通り過ぎた記憶は無い。しかし疑問を挟むには、男はあまりに魅惑的に過ぎていた。
「失礼ですか、地元の方ですか」
俺は動揺を隠して尋ねる。握ったままの携帯電話が、ストラップをかしゃりと揺らす。もう27時間は鳴っていないはずだ。男は小首を傾げて笑みを深くした。
「この辺りでビジネスをしておりますが、生まれはイタリアです」
「そうですか、私はアメリカから旅行という名目でして……」
ああ、期日前投票はもう済ませてきました、と、肩を竦めて戯けてみせる。そうでもしないと、男の危うさに呑まれてしまいそうだった。
「預かった手紙を渡す人物を探しているのですが、手がかりが無いもので」
「どういうことです?」
「ギリシャ移民の友人が、今は往信不通の古い馴染みに手紙を渡して欲しいと」
最後の閃光が海の向こうへ揺らいで消え、辺りは墨が滲むように薄暗くなった。男の青白い顔はまるで虚空に溶けて、表情も分からなくなる。
「何かのご縁です。お手伝いいたしましょう」
晩鐘のように響く声が、耳元へ囁く。お話を伺いながら、夕食をご一緒にどうです? 美味い
***
ゼノは清掃夫だった。知り合ったのは、彼がちょくちょく移民たちの喧嘩や揉め事の仲裁をしていたからだ。寡黙な男だったが、ダウンタウンの住民からは、少し馬鹿にされていて、少し同情されていて、でも結構信頼されていて、子供たちに絵を教えてもいた。彼はギリシャ移民で、俺はアルバニア人の両親から生まれた。それが何を意味するか、端的に言えば母国が隣り同士というだけなのだが、俺はゼノと親しくなったつもりでいた。
「よく“自由の女神“のスケッチを描いていましてね、よほど好きなのかと思ったら、どうしても自分の知っている“ニケ“より美人には描けない、なんて言っていまして」
賑やかな
「“ニケの首“ってご存じですか。この辺りでは有名なのかな」
ギリシャは海の幸も山の幸も豊富で、何を食べても飲んでも美味い。そしてイタリア男は聞き上手だ。デュオニソスもかくなるかな、俺は高揚を静めるために、夜風に当たってホテルまで歩いて帰る、と告げたが、男は送りましょう、と言ってついてくる。ランプの仄かな光に浮かび上がる石造りの家々の間を縫うようにして歩く。波音が遠くさざめく。雫に打たれるように瞬く星々を見上げて、俺はもういいか、と投げやりな気持ちになった。今更遅い、ゼノはもう俺の隣に戻ってはこない。あの神話ばかりの遠い向こうへいってしまったのだ、一人で。
「ニケの首、というと『サモトラケのニケ』ですか」
男は白々しく言うが、声は僅かに震えているようだった。それとも俺の鼓動が速くなっているからそう聞こえるのかもしれない。
「ええ、ルーブルに安置されている人類史上の傑作には首が無い。その首を競り出している闇オークションがあるのだそうで」
エーゲ海には多数の島が浮かんでいるが、そこで開催される最も権威のある闇オークションの一つが“ニケの首“だ。開催日も、どの島で開催されるかも、会員にしか分からない。その会員になるには、現会員からの紹介で“ニケの首“のインスペクターに審査され、招待状を受け取らなければならないのだ、ということを、俺はゼノの残したメモで知らされた。それから、どうやったらインスペクターに対面できるのか、も。
「あなた、関係者でらっしゃいますね」
丘の上のアクロポリスがライトアップされているのを遠目に眺めて、俺は小声で鋭く問うた。ロードス島の城壁で、日没の頃、月桂の葉を身に付けているのが合図。俺はポケットの中の携帯電話に触った。月桂の葉のストラップ。半信半疑のまま、飛行機を乗り継ぎ、こんなところまで来てしまった。まさに『ここがロードス、ここで跳べ』である。
ニケの首 田辺すみ @stanabe
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