第28話 迷える拳

~定食屋プトルカン~


 王都ファクトリオスの街並みが茜色から深い群青へと塗り替えられる頃、定食屋プトルカンには「準備中」の札が掲げられた。


 いつもなら、一日の営業を終えた疲労感とともに、重い腰を上げて翌日の仕込みに取り掛かる時間だ。大量の野菜の皮むき、肉の下処理、出汁の準備。それらは単調で、おっくうで、パインにとっては「義務」以外の何物でもなかった。


 だが、ここ最近は違った。


「よしっ、看板しまった! 暖簾(のれん)もおろした! さぁ、やるよ!」


 パインは鼻歌交じりに路上の立て看板を店内へしまい込むと、厨房へ取って返した。

 野菜を刻む包丁の音が、まるでマーチのように軽快に響く。処理するスピードも以前とは段違いだ。

 なぜなら、この面倒な作業の向こう側に、極上の「楽しみ」が待っているからだ。


 仕込みを終えたパインは、エプロンで手を拭いながら客席フロアへと躍り出た。

 そこには、テーブルを寄せて作られた即席のステージと、異世界では珍しい革張りの楽器――ドラムセットが鎮座している。


 パインはドラマーの顔つきで椅子に座ると、バチ代わりの菜箸を構えた。


 ズンチャッ ズンチャッ ズンズチャッ ズンチャッ。


 腹の底に響く低音と、小気味よい高音が店内に弾ける。

 下宿人のアルミルから教わった、ドラム演奏だ。


「うんうん、いい音だねぇ!」


 最初は「アタイにできるわけない」と尻込みしていたが、いざ叩いてみると、その爽快感の虜になった。

 バチが皮を叩く瞬間の反動、全身でリズムを刻む高揚感。それらは、戦争へ行った夫への心配や、経営の不安といった日頃のモヤモヤを、物理的に吹き飛ばしてくれるようだった。

 元来、厨房で培ったリズム感があったのだろう。パインの上達は目覚ましく、今では叩ける太鼓の数も増え、複雑なフィルインもこなせるようになりつつあった。


 その傍らで、一人の少女がステップを踏んでいた。

 下宿人のアルミルだ。


「ラララ~♪ ルリラララ~♪ ラララ~♪」


 パインの叩くビートに合わせ、即興の歌詞を乗せて歌い、舞う。

 その姿は、狭い定食屋を華やかなステージへと変えていた。


 アルミルは歌いながら、ふと前の世界のことを思い出していた。

 元の世界での彼女は、多忙だった。

 学業に追われる学生としての顔。生活費を稼ぐためのアルバイトとしての顔。そして、夢を追うアイドルとしての顔。

 三足の草鞋(わらじ)を履き、休む暇もない日々だったが、そこには確かな充実感があった。学校には友がいて、バイト先には仲間がいて、ステージの前にはファンがいた。誰とでも分け隔てなく接し、絆を育んできた自負があった。


 けれど、あの事故で全てが途切れた。

 築き上げた人間関係も、積み重ねた努力も、すべて元の世界に置いてきてしまった。

 見知らぬ異世界に、たった一人。

 本来なら絶望して塞ぎ込んでいてもおかしくない状況だ。


(でも……私は歌う。ここで生きていくって決めたから)


 彼女はめげなかった。自分の信じた「アイドル」という道を突き進むことで、この世界にも新しい居場所を作り始めたのだ。

 定食屋のパインさん、シュラさん、アスナ師匠、そしてヒノキンさんや村の人々。

 新しい絆は、確実に結ばれつつある。


 だが――。

 アルミルはターンを決めながら、窓の外へと視線を投げた。

 そこには、庭で一人、黙々と武道の稽古に励む少女の姿があった。


(ポームちゃん……)


 シュラさんの妹だという、銀髪の美少女。

 いつも側にいてくれて、強くて、頼りになる同い年くらいの女の子。

 けれど、彼女だけにはまだ、心の奥底で踏み込めない「壁」のようなものを感じていた。

 仲良くなりたいのに、ふとした瞬間に遠くを見つめる彼女の瞳には、アルミルには計り知れない影が落ちている気がした。


 ――


 プトルカンの裏庭。

 月明かりの下、ポームは己の迷いを振り払うように拳を振るっていた。


「はっ! えいっ! やあぁぁー!」


 裂帛(れっぱく)の気合と共に正拳突きを繰り出す。

 風を切る音は鋭いが、ポーム自身には分かっていた。

 拳が軽い。

 重心が浮ついている。

 集中できていない証拠だ。


(……私は、何をしているのだ)


 ポームは汗をぬぐい、夜空を見上げた。

 その胸中は、ここ数日の間に起きた出来事への困惑と、自身のアイデンティティを揺るがす不安で満ちていた。


 魔人と人間との間に産まれ、祖父ビニルの手によって魔族として育てられてきたポーム。

 物心ついた時から、彼女が教え込まれてきたことは一つだ。

 『人種族はすべからく劣等であり、狡猾(こうかつ)であり、我ら魔族によって支配され、淘汰されるべき生き物である』

 その教えを疑ったことはなかった。だからこそ、武を極め、いつか大魔王様の役に立つことだけを夢見てきた。


 だが、現実はどうだ。

 この街へ潜入して以来、接する人々はいずれも優しく、清らかだった。

 定食屋の女将は、見ず知らずの自分たちに食事と宿を提供してくれた。

 そして何より、アルミルだ。彼女の歌と笑顔は、理屈抜きでポームの心を揺さぶった。


(人間は、野蛮で愚かなのではなかったのか?)


 もちろん、チンピラのような人間もいた。だが、話し合いで溝を埋めようとする者もいれば、他者を思いやる心を持つ者もいる。

 むしろ、問答無用で襲い掛かっている魔族の方が、よほど野蛮ではなかったか。


(このまま、この心地よい関係に浸っていていいのか? それでは、魔族が人間を滅ぼすという大義に反していることになり、私は裏切り者になってしまうのではないか?)


 ポームの脳裏に、敬愛する大魔王デールン・リ・ジュラゴンガ(現在はシュラと名乗っているが)の顔が浮かぶ。

 あのお方は、アルミルを擁護し、彼女の夢を応援している。

 だが、それはあくまで――


(きっと、アルを『お嫁』にするために気を引こうとしているだけだ。大魔王様の本心は、やはり人間など家畜以下だと思っているに違いない。私が人間に情を移せば、きっと失望される……)


 忠誠心と、芽生え始めた友情。

 二つの感情の板挟みになり、ポームは誰にも相談できずに一人で悩み続けていた。


 ――


 稽古を終えたポームは、共同浴場で汗を流してから部屋へと戻った。

 部屋では、アルミルが聖獣の子・コナッツオと戯れていた。


「あ、ポームちゃんおかえり! お風呂どうだった?」


「ああ、いい湯だった。……アルも入ってくるといい」


「うん、そうする! ねえポームちゃん、私がいない間、コナッツオ君のことを見ててもらってもいい?」


「ああ、いいよ。いってらっしゃい」


 アルミルが着替えを持って部屋を出ていく。

 バタン、と扉が閉まると、部屋には静寂が戻った。


 ポームはベッドに腰掛けると、布団の上で丸くなっていたコナッツオを抱え上げた。

 ずっしりとした重みと、温かい体温。

 プラチナシルバーの毛並みは極上の手触りで、顔を埋めると甘いミルクのような匂いがした。


「……お前はいいな。悩みなどなさそうで」


 ポームはコナッツオの頭を撫でながら、ふっと心のガードを緩めた。

 この言葉の通じない獣相手なら、弱音を吐いてもいいだろう。そう思ったのだ。

 モフモフとした毛並みに癒され、張りつめていた糸が切れる。

 ポームは独り言のように、誰にも言えなかった悩みを口にした。


「なぁ、コナッツオ。……もし、アルと私の前に魔族が現れた時、私が魔族側に付いたら……アルはなんて思うだろうか」


 コナッツオはつぶらな瞳でポームを見上げている。


「私の事を……嫌うだろうか。『裏切り者』だと、軽蔑するだろうか」


 口に出した瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。

 想像するだけで怖い。アルミルの笑顔が、冷たい軽蔑の眼差しに変わることが。


「……ふっ。聞くまでもないな。何言ってんだろ、私」


 ポームは自嘲気味に笑うと、コナッツオを横に置き、そのままベッドに仰向けになった。

 天井のシミを見つめながら、答えのない問いを反芻する。

 私は、どっちなのだろう。魔族の戦士ポームなのか、シュラの妹ポームなのか。


 それからしばらくして。

 廊下からパタパタと軽い足音が近づいてきた。


「ただいま~! いいお湯だった~!」


 ドアが開き、湯上りのアルミルが顔を覗かせた。

 頬を紅潮させ、濡れた髪をタオルで拭いている。


「おかえり」


 ポームが体を起こして言う。

 すると、ほぼ同時に、別の声が重なった。


「おかえりなさいませ」


 ?!


 ポームとアルミルは、同時に固まった。

 今の声は、誰だ?

 高い、かわいい、子供のような声。


「ポームちゃん……今、2回おかえりって言った?」


「いいや。言っていない。……アルの方こそ、自分で『おかえり』って言わなかったか? それに何だか、妙に甲高い声だったような……」


「拙者でござる」


 ?!


 また聞こえた!

 今度ははっきりと!

 アルミルとポームは弾かれたように辺りを見渡した。クローゼットの中、ベッドの下、窓の外。

 しかし、自分たち以外の人間は誰もいない。


「きゃっ! お、お化け?!」

「くっ、曲者か?!」


 怖くなった二人は、ベッドの上にいたコナッツオを挟む形で、ガバッと強く抱き合った。


「こ、怖いよポームちゃん!」

「おのれ、姿を見せろ! ……ん?」


「ん”ん”ん”。苦しいでござる。ここでござる」


 二人の間から、押しつぶされたような唸り声が聞こえた。

 二人はハッとして顔を見合わせ、とっさに離れた。

 そして、その間に挟まれていた「それ」を抱え上げ、声を揃えて叫んだ。


「「コナッツオ!?」」


 そこにいたのは、少し迷惑そうな顔をして、前足で毛並みを整えている子狼だった。

 アルミルが恐る恐る尋ねる。


「コ、コナッツオ君! い、いつからおしゃべりできるようになったの?」


 コナッツオは咳払いを一つすると、前足を胸の前で組み、驚くほど流暢な口調で答えた。


「正確には、たった今からでござるが……こちらの言葉を聞き取り、理解していたのはもう少し前からでござる」


 渋い!

 見た目は愛らしいぬいぐるみのような子狼なのに、中身は時代劇に出てくる侍のような口調だ。

 アルミルとポームは目を白黒させて驚き合った。聖獣の成長速度、恐るべし。十日で親と同じになるというのは伊達ではなかった。


 二人の開いた口を横目に、コナッツオは涼しい顔で言葉を続けた。


「言葉が話せるようになって良かったでござる。つい先ほどもポーム殿から、『もしも自分が魔族側に付いたらアルミル様に嫌われるのではないか』という、わけのわからぬ相談を受けておりましたゆえ」


 ――ドックン!


 ポームの心臓が爆発した。

 言ったー!!

 こいつ、言いやがったー!!

 誰にも言えなかった、墓場まで持っていくはずだった乙女の悩みを、よりにもよって一番聞いてほしくない本人にバラしやがった!


 ポームは顔から火が出るほど赤くなり、手をバタつかせて慌てふためいた。


「えっ? あっ? そ、そんなこと言ったっけ? えっ? あー、うー、ど、どうだろう、聞き間違えじゃないかな? 犬の耳は遠いと言うし!」


 必死の隠蔽工作。

 だが、コナッツオは目を閉じ、落ち着いた様子で反論した。


「狼の聴覚は人間の数十倍でござる。それに、拙者は聖獣。嘘を申したりは致しませぬ。ましてや、ご主人様であられるアルミル様だけには絶対!」


 忠義の塊のようなセリフだ。

 その言葉に、アルミルが反応した。


「ご主人様……?」


 アルミルはコナッツオを目の前に掲げ、目を輝かせた。


「ご主人様だなんて、嬉しいこと言ってくれるじゃない。コナッツオ君~♡」


 アルミルは嬉しさのあまり、コナッツオの耳の後ろや首元を、指先でワシャワシャと揉むように撫で回した。

 すると、先ほどまで侍のような威厳を保っていたコナッツオの表情が一変した。


「ぐふふっ。ご主人様ぁ。そこはっ! 効くでござる! ぐふふっ。心地よいでござるぅ~」


 だらしない!

 舌を出し、足をピーンと伸ばして骨抜きになっている。所詮は犬(狼)か。

 

 アルミルはコナッツオを弄(もてあそ)ぶかのように撫で続けながら、ゆっくりとポームの方を向いた。

 その表情は、真剣そのものだった。


「ポームちゃん」


「あ……う……」


 ポームは身を縮こまらせた。

 聞かれてしまった。魔族側につくかもしれないと。

 拒絶されるだろうか。怒られるだろうか。


 だが、アルミルの口から出た言葉は、ポームの予想を遥かに超えて温かいものだった。


「仮に、もし仮にポームちゃんが魔族側についたとしても、それはきっと何か理由があるんだと思うから私は嫌いになったり、裏切られたとは思わないわ。

 だって、ポームちゃんはお兄さん思いで、私の事を守ってくれるほど強くて頼りがいがあって、信用している大切な友達だから。

 それに、私は人間と魔族さんとの間にある壁を壊して、世界中のみんなを幸せにする予定だから、ポームちゃんが魔族側にいたって何の問題もないわ」


 話を聞き終えたポームが、アルミルの目を見て言った。

「アル、世界を変えるってそれ、本気か?」


 アルミルは抱えていたコナッツオの正面をポームへ向けて、真剣に答えた。

「はいっ。本気です!」

「ご主人様は本気でござる」


 アルミルのブレない気持ちを聞き、不安の半分が消えたポーム。

「答えてくれてありがとう。アル」


 しかし、アルミルとの距離を縮めるほど、大魔王への忠誠心が揺らいでいく自分の心に折り合いがつかず、心が疲弊するポーム。


 横になったベッドの中からコナッツオへ手を伸ばし、そのぬくもりに安らぎを求めながら、眠りについた。

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