祈りの椀
天頂の太陽が西に傾きはじめるまでの時間をかけて、俺は四羽分の不死鳥肉を刻み終わった。必要な水と炊き出し用の大釜とは、兵士たちが封鎖区域の広場に用意してくれているはずだ。道具の用意までは他人に任せられるが、ものが魔法料理だけに、調理工程を担当できるのは「神の料理人」ただひとりだ。他人の手伝いを頼めないのは少しばかり辛かった。ここまでの大掛かりな調理は過去にも記憶がない。
考えてみれば、それもそのはずだった。これまで俺が魔法料理を供した相手は、毒見や不死鳥肉の効能試験を別にすれば、生涯を通してたった二人。ヴィクトールとエティエンヌにだけだ。これだけの大人数に向けて魔法料理を作るなど、少なくともヴィクトール即位以降には例がない。おそらくは古代にもなかっただろう。
「だとすりゃあ……これも、あいつを『殺す』ことになるのかね」
刻んだ肉を布包みにまとめつつ、俺はひとりごちた。
正統の王の象徴として、「王冠」として、俺は常にただひとりだけに皿を捧げてきた。だがヴィクトールが築いた権威付けは、今まさに崩れ去ろうとしている。いや、俺自身が崩そうとしているのか。
それなら、それでいい。
天地に満ちるマナが、国でただ一人の専有物だとは、考えてみればおかしな話だ。マナの恵みを必要とする人間が目の前にいるのなら、分けてやればいい。王の権威は失われるのかもしれないが。
エティエンヌが「不死鳥肉すべてを予防に回す」ことを決めた時、そこまで考えていたかどうかはわからない。だが後で気付いたとしても、王の権威を手放したことを後悔などしないだろう。エティエンヌはそういう男だ。
「とはいえ、できるかぎり高く売りつけてやりたくはあるよな」
俺は、包み終えた肉を両手に提げた。長い眠りから覚まされた四羽分の肉は、ずっしりと重かった。
広場の前には、既に数十人の市民が列を作っていた。この場に来る権利があるのは、第九・第十区画の管理責任者によって選定された計四百名だけだ。区画ごとに、傷病院での医療従事者を百名、物資の搬入等で傷病院に出入りする者たちを五十名、都市機能の根幹に関わる業務に従事する者たちを五十名、それぞれ推薦してもらった。その際には自警団の関係者等にも確認を仰ぎ、区画責任者の縁者等が紛れ込まないよう注意を払った……と、取りまとめ担当者からは聞いている。
目の前に並ぶたくさんの顔は、みな一様に不安に翳り、料理人姿の俺を縋るような目で見つめている。それはそうだろう。皆にとって、これから配られるスープには自身の命がかかっているのだから。
中庭に据えられた大釜へ、火が入った。
十分に熱が回ったのを見計らい、布包みを解いて一羽目の肉を投入する。細長く刻まれた薄紅のハム肉は、燻製の香ばしい匂いを漂わせつつ、みずみずしい脂を溶けださせてくる。何年も貯蔵庫で眠っていたものだとは信じがたい、豊かな肉の香りが辺りに満ちた。腹の虫の鳴き声が、いくつも重なって聞こえた。
薄めてしまうのがもったいないとは感じつつ、鍋いっぱいに水を注ぎ入れる。脂で白く濁ったスープを、大杓子でかき混ぜる。申し訳程度の塩胡椒を振り入れ、一煮立ちさせれば命のスープの完成だ。
「『不死鳥肉のスープ』だ。これさえ飲んでおけば、
俺は、居並ぶ市民たちを見回した。
不安に満ちた何対もの瞳が、俺ひとりを注視している。視線にはどことなく怯えを感じる。本当にスープはもらえるのか、どんな代価を要求してくるのか――などと、考えているのだろうか。
「言うまでもなく、不死鳥の肉は貴重品だ。普通の食糧さえ手に入りにくい今、これが手に入ったのは奇跡に近い……そして王子エティエンヌは、今まさに霜熱病で臥せっている。俺の言いたいことがわかるか」
民たちに動揺の波が広がる。俺は声に力を籠めた。
「この肉を使えば、エティエンヌを治すこともできた。だがあいつは、自分でなくあんたたちを救うことを選んだ。つまりな」
俺は椀をひとつ手に取り、できたてのスープを注ぎ入れた。湯気の立つ椀を高く掲げる。
「これは、エティエンヌの命だ」
配布待ち列の先頭にいた若い男を、俺は強くにらみつけた。彼に何かがあったわけではない。ただ、そこにいたからだ。筋肉の付き方や日焼けの具合から見て、おそらくは荷物の運搬人だろう。
「知っているだろうが本来、魔法料理は王にだけ許されたものだ。その掟さえ、あいつは捨てた。捨てて、あんたたちを守ろうとした。それだけの恩義を、あいつはただでくれてやるそうだ……すげえよな。すげえんだが、俺としちゃあちょっと納得がいかねえ。せめて相応のお代は、払ってもらわねえとな」
市民たちから嘆声があがる。どんな無理難題を吹っかけられるのか――どの顔にも、一様にそう書いてある。
俺は、眉間に籠めていた力をふっと抜いた。
「だから……祈ってやってくれ。あいつのために」
俺は先頭の男に向けて、湯気の立つ椀を差し出した。
「今、あいつは病と戦ってる。あんたたちに、これを届ける代価としてな。だから、願ってやってくれ……あいつがまた、元気に立ち上がれるように。あんたらに顔を見せられるように」
口角を引き上げ、できるかぎりの笑顔を作る。
男がつられて、口元をほころばせた。両手が胸の前で組まれ、聖教会の祈りの印をかたちづくった。
「……エティエンヌ殿下に、天の祝福があらんことを。永遠の祝福と健康とが、その身にもたらされんことを」
男の頭が下がる。
静まり返った庭に、遠く鳴く鳥の声だけがかすかに響いた。さえずりが止んだ頃、男はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。これでいいですか――と、目が語っていた。
「ありがとう、な」
俺は男の手を引き、椀に触れさせた。
満面に、今にも泣き出しそうな笑みを咲かせ、男はスープを受け取った。
列の次にいた女が進み出てきた。傷病院の白衣を着たままの、若い娘だった。水仕事で荒れた手が、流麗な動きで印を組み、かさついた唇が、エティエンヌへの祝福を高らかに告げる。俺はスープを汲み、礼の言葉と共に渡した。
繰り返される祈りと謝礼。やがてどこからか、澄んだ歌声が聞こえてきた。聖教会の
聖なる旋律に包まれながら、俺はスープを渡し続けた。ひとりひとりから「対価」の祈りを受け取りながら、俺は時折、作業着の袖で目元を拭った。いつしか涙が滲んでいた。
かつて無能と呼ばれ、惰弱と蔑まれ、己が従者にしか愛されなかった王子のために、歌声が重なり響いている。
あいつのために、祈りが、歌が、捧げられている。
ほどなく一羽目のスープが尽きた。二羽目のスープを作る間も、市民たちは頌歌を歌い続けていた。肉の香と歌声とに包まれながら釜を混ぜれば、あふれ落ちる涙が幾粒か、大杓子を伝って鍋に落ちていった。
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