5−2 あんでぃ・べる
カイアはトカラの一族の、カタナはニホンジンという集団の、そして、あの国の人間は王という屍の頂点の、もしも、世界中の人間一人一人が、何かしらの物語に属しているとするのなら、俺は一体、どこに属しているのだろうか。
俺という人間を語るには、何を語ればいいだろう。俺がオーサカを牛耳る家の息子に生まれたことか? その権力者の家で、祖父も父も、この家には一滴たりとも原始人の血が混ざっていないことを自慢していたことか? 五人もいる優秀な兄たちに比べ、出来の悪く、反抗的な俺が、罰としてミナミの学校へ放り込まれたことか? その後も、厄介払いのようにトーキョーの警察隊へ放り込まれ、数年後には、あの良い国で働くことになったことか?
事実を次々と並べてみれば、俺の物語は俺だけのもので、そこに家族はおろか、生まれた国など入る余地などどこにもないような気がした――が、それはそんな気がするだけだということくらい、馬鹿な俺も理解している。人間は一人で生きられないし、生まれた国や家族がなければ、いまある俺はないのだから。
けれど、それでも敢えて言うのなら、俺という人間はどこの物語にも属することができなかった。俺は原始人の血の混じらない家という物語も、だからこそ優秀な息子たちという物語も、自分のものだとは思えなかったし、逆に不出来な俺を、俺以外の家族も、家族という物語から排除していたに違いないからだ。
ゆえに、俺は一人だった。私たちは海を渡り、辿り着いたこの島の人々と血を混じらせ、この国を作り上げました――という、誰もが生まれながらに属すことのできる物語にさえ、原始人の血が一滴も混じらない家に生まれた俺は、属することができなかったのだ。
だから、俺がずっと抱えてきたのは、そんな苦しみだった。例えば、孤児がない親を求めるように、貧しいミナミの人間が裕福なキタを羨むように、俺もまた、俺から欠けた物語を探し、羨み、求めてきたのだ。物語は一人では紡げない。それは集団の記憶であり、歴史であり、個人ではない、そこに属する人々が作り上げるものだからだ。
とはいえ、そんな思いに辿り着くまでには、長い時間が必要だった。あの頃、俺が感じていたのは、ただ疎外感と、一人きりで立つ地面の危うさと、その弱さを隠すためだけに、俺は自らを大きく見せなければならないのだという、確信めいた感覚でしかなかった。もっとも、キタからミナミの学校へ通う俺は、その態度にふさわしいほどの身分を兼ね備えていたわけで、それは他人から見れば、何ら矛盾のない人格に見えたに違いない。
俺は何の悩みもない、容姿も家柄も良い人間で、ミナミの人間にとっては別世界の人間だったし、それをあの頃の友人たちは――中には、しりるという、誰もが認める天才もいた――疑うこともしなかった。そんな友人にどうして心を許すことなどできただろう。いや、ただ一人だけ、彼女だけは例外だった――。
俺はゆっくりと目を閉じ、膨れ上がる感情をいなした。
彼女は――まりあは死んだ。この世からいなくなった。俺がそれを知ったのは、その日から三年も経った頃だった。オーカミが爆破したミナミの教会、その犠牲者名簿の中に、彼女の名前が記されているのを、偶然発見したのだ。
もっとも、初め、それは俺の知る彼女のはずはないという確信があった。この国が嫌いだ、だからあなたのことも嫌いなのだと、そう言って、あの良い国へと渡っていった彼女。その彼女があの悪い国に、ましてやミナミに戻るはずもない。さらに付け加えるのなら、彼女が他のどこでもない、あのミナミの教会だけには、寄りつくはずがないのだった。
なぜなら――話は俺たちが子供の頃に遡る。当時、ひと月も降り続けた大雨に、山の上に建っていた古い教会が崩れ落ちた。夜間のことで、教会にこそ人はいなかったが、その麓まで達した大量の土砂は、そこに住んでいた人々の命を悉く奪った。そして、その中には、まりあが家族のように慕っていた一家もいた。
まりあは救助を願ったが、しかし、それは叶わなかった。いや、あの悪い国は救助どころか、その亡骸を掘り起こすことさえしなかったのだ。国にとって大事なのは、死んだ貧乏人よりも教会だった。つまり、金と人手はすべて、そのために割かれ、結果、町の中心には、ミナミには不似合いなほど立派な教会が建った。
孤児で、教会に育ててもらったと言っても過言ではないまりあが、教会に寄りつかなくなったのは、それ以来のことだった。より一層、この国を憎み、海を渡るという決意を強くしたのも。
ゆえに――まりあ・すみす。そのありふれた名前が示すのは、同姓同名、別人の死であり、彼女ではない。俺がそう考えたのも当然だった。俺の知るまりあは、あの国で幸せに暮らしている。それ以外は、有り得ない。
入隊して以降、俺は配属先となったあの国で、退屈な日々を送っていた。とはいえ、それはもちろん、出世街道と言われる、誰もが羨む道だった。勤務態度が悪かろうが、上司に楯突こうが、家の名は俺をしかるべき立場へと導いていく。あの悪い国の反乱分子が、大聖堂を爆破した――そんな一大事にさえ、何の関心も示さず、右のものを左へ流していくだけの俺を。
だから、それは恐らく、初めて俺が導かれた立場に感謝した瞬間だったかもしれない。名簿を見て以来、抜けない棘のように、幾日過ぎても気に掛かるその名のためだけに、俺は有休を取り、ミナミへ戻ったのだ。そして、到着して、わずか数分後には、その瓦礫と死体の山を片付けたという分隊長の敬礼を受けていた――あの国からわざわざ戻ってこられるなんて、報告書に何か不審な点でもございましたでしょうか?
これが俺個人の興味ではなく、仕事だと勘違いした分隊長は、恐れおののき、伺いを立てた。それで、俺は単刀直入にまりあのことを尋ねた。本当に、傲慢で馬鹿だったのだ。
このまりあ・すみすというのは、一体どこの誰なのかと、彼女の名を出した。すると、そのときは、俺と同じくらい馬鹿で無知だったのだろう、分隊長は部屋の外で待機していた部下をどこかへ行かせ、しばらくして戻ってきた彼の言葉を、畏まったまま俺に伝えた。お尋ねの女は、ミナミに個人医院を開いていた医者だということです、と。
それを知る誰かの手配だろう、分隊長は医院のあった場所を記した地図すら、恭しく差し出した――もしご用があるなら、誰か行かせましょう。ご存じでしょうが、ミナミには原始人のやつらがうようよしてますから。
いや、その必要はない――自分でも意外なほど、俺はあっさりと申し出を断り、足早に隊舎を出た。君のような男をこんな肥溜めで腐らせているのはもったいないな、などと彼に聞こえるようにつぶやきながら。無論、その名など、聞いた端から忘れてしまっていたが、何かの機会に話題に出せば、誰かが彼を探し出し、相応の立場に据えることは間違いないだろう。俺の言葉にはそれだけの力があった。いや、俺の家の名には、というべきだが。
傲慢なままに、俺は自嘲の笑みを浮かべた。けれど、その笑いとは裏腹に、俺がここまできた理由は、未だ先の見えないままだった。
ミナミで個人医院を開いていた女医者。それがあの、まりあなのか。もちろん、あの国に渡ることができるほど、優秀な彼女だ。医者になった、というところまでは理解できる。しかし、それがミナミで医院を開いたというのは信じがたい。そしてやはり、爆破の日、ミナミの教会にいたという事実は、さらに受け入れがたいものだった。
しかし、なぜだろう。この地に降り立って以来、秒針が時を刻むにつれ、じわじわと頭の中に浮かび上がってくるのは、あのまりあの死体だった。腹に大きな穴を開け、頭からは血を流した、まりあの姿。あるいは、瓦礫に足を潰されながら、どうにかそこから逃れようとしたままの姿勢で動かなくなった、その姿。
映像が現実であるかのように生々しいのは、俺の想像力が逞しいせいではなく、例の大聖堂の爆破現場を、この目で見たからだった。飛び散った血や肉片、助けを求めるように伸ばされた手。しかし、そのときの俺はそれらに顔をしかめながら、足を運んだと言えるだけの時間を潰すと、あとは他人に任せ、その後は思い出しもしなかった。
爆破で誰が死のうが、オーカミが次の標的をどこに定めようが、俺にはまったくの他人事だったのだ。皆が怒り、泣き、激情を露わにする様子も、滑稽だとしか感じられないほど。
と、そのとき、ひんやりとした空気が、ふと足元から這い上がった。まるで洞窟に足を踏み入れたような――そう思って見上げると、背の高い建物が、暖かな陽を遮っていた。平屋と言えば聞こえは良いが、汚い掘っ立て小屋だらけのミナミの町、そこにそびえ立った立派な白い石積みのそれは、当然だ、三度建て直された教会だった。
昔、山の上の教会が崩れた時と同じように、爆破されてすぐに、建て直されたのだろう。以前よりも立派になって復活した大聖堂のように、犠牲になった人々の名を、その壁に刻んで。
刹那、俺は初めてそこに不気味な何かを感じた――ような気がした。もっとも、俺がもう少し賢ければ、その何かは確信となったに違いない。そして、その先に待ち受けていた運命にも、幾分ましな対応ができただろう。あのとき、教会の下には何かがある――そう気づいた、しりるのように。
思えば、あのとき、しりるはとっくに気づいていたのだ。歴史の語る嘘に、王という存在に、この国が抱え込んだニホンジンという爆弾に。だから、早々にあの国に渡り、この国の何もかもと縁を切った。まりあも、もしかしたらそうだったのかもしれない。だから、同じように海を渡っていったんじゃないか――。
それに引き換え、俺はいつまでもあんな場所で何をしていたんだろう。
死んだ目で歩く貧乏人、どこからか臭う糞便、泥の染みたような汚い町並み。俺は、唐突に現実にしらけ、踵を返し、そこから離れようとした。あの良い国から帰ってみれば、この悪い国はどこまで行ってもみすぼらしく、俺に相応しい場所ではない。そこが居場所とは思えないが、あの国の方がまだましだ――。
しかし、運命は予定通り、俺を捉えた。不意に誰かの声が俺を呼び、振り返ると、そこには俺が関わったことがあるはずもない、醜い女が心許なげに立っていた。握りしめていたのは、俺の写真。なぜ、そう問う前に、その女は、何かを恐れるように辺りを見回し、それから訴えるように囁いたのだ。
まりあ先生は爆弾で死んだんじゃない、特高に殺されたんです、と、ミナミ特有のひどい訛りで。
*
衰えきった肉が少しずつ戻り、ようやく起き上がれるようになった頃、カイアは丁寧に時間を掛けて、肉片の浮いた汁を作った。何の肉かと尋ねると、牛だと、そう彼女は言った――私たちの言葉ではタトンカと、そう言うけれど、と。
一族の物語を、カイアは王の言葉で語ることしかできなかった。無論、一族には一族の言葉があった。けれど、それは人と共に欠け落ちていき、単語のようなものしか残っていなかったし、そもそも俺と彼女の間で共通する言葉は、王の言葉だけだった。
そうだ、俺は王の言葉しか知らないのだ――そう気づいた俺の口には、苦いものが広がったが、それを常識とするカイアは、表情を無にしたまま、一族の物語を語るとき、王の言葉はその半分も伝えることができていない気がするのだと、つぶやいた。
草木も花も、空も風も、暮らす動物も人間も、その土地土地によって違うように、争いから生まれた王の言葉と、そうでなかった一族の言葉では、互いに言い換えることなどできるはずがなかった。
いや、例え、うまく言い換えることができたと思っても、その感覚は偽物で、いくら外見が似ていても、宿る心はまるで違い、その意味はかけ離れてしまう。だから、本当は、一族の物語は一族の言葉でしか、伝えることができないのだ、と。
悲しい目をしながら、カイアは自分の汁をつついた。それからしばらくして、まるで正しくあろうとするように、俺の目を見て告白をした。
タトンカと牛は、本当は違う動物だけれど、私たちはそれを知りながら目を背け、同じものであるように振る舞っている。なぜなら、タトンカはもういない。この世界に存在しない。王が食べるわけでもなく殺戮し、彼らをこの平原から消してしまったから。でも、私たちが私たちであるためには、タトンカが必要で、だから私たちは知らないふりで、牛をタトンカと呼んでいるの。
王が兵を差し向け、タトンカを絶滅に追い込んだのは、平原の狩猟民だった一族を支配下に置くためだった。糧がなければ、平原の暮らしは成立しない。追い込まれた一族に、王は、奴隷となったものにだけ、自分たちの糧を分け与えようと言った。そして、それが牛だった。海の向こうからやってきた、王の家畜。
カイアの話に、俺も無言で汁を啜った。彼女たちの糧が、そのタトンカだというならば、俺たちのそれは米であるはずだった。あの国から来た、神より賜った米。
もっとも、その物語は嘘に塗れたものだと、俺は既に知っていた。その昔、教会の下に保存された米を、俺はまりあや、しりると共に見つけたのだ。けれど、その反応は一族とは正反対のものだった。
しりるはなぜか地下を封じ、まりあはさらに米を嫌うようになった。その原始人の糧を食えば、自らも原始人になってしまうとでもいうように。だから、早く海を渡り、米を食べなくていい暮らしがしたいと、以来、それはまりあの口癖となった。
キタで毎日ぱんを食べ、米などほとんど口にしたことのなかった俺は、そのときも無関係な己を疎み、孤独を感じただけだったが、そんなことは、いまはどうでもよかった。重要なことは、まりあが米を憎んでいたということで、だというのに、あの日、あの汚い町で、あの醜い女が差し出したのが、米の粥だったということだった。
まりあ先生はこれが大好きだったんです――醜い女はるーしーと名乗り、粗末な茶碗によそったそれを差し出した。るーしーに連れられ、辿り着いた場所は、奇しくも隊舎で得た地図の場所で、俺はそれが偶然か、それとも必然なのか、答えを出せないままそこに佇んでいた。そこへ、差し出されたのが米の粥だった。それを目にした瞬間、俺はこの女についてきたことを心底後悔した。
俺のことを知っていようが、まりあのことを知っていようが、彼女の言うことはすべて嘘だ。いや、それが嘘ではないとしても、この女は、まりあではない、誰か別人の話をしているのだ。
やはり俺の思うとおり、まりあがこの国へ戻るはずがなかった。ましてやミナミで、貧乏人のための医者となり、醜い女を助手に雇い、その女の煮る米の粥を美味いと言うはずがなかった。さらには、訪ねてきた特別高等警察に殺されたなど、荒唐無稽な最期を迎えるはずもなかった。
しかし、頭ではそう思いながらも、俺は女の言葉を否定することができなかった。
湯気の上がる粥を、欠けた茶碗を投げつけて、ひどい無駄足だったと、踵を返すこともしなかった。代わりに、粥を一口啜った。
その女の口から出る「まりあ先生」が、あのまりあであることを、俺はどこかで認めていたのだ。一体、なぜそんなおかしな結論に辿り着いたのか――もしかしたら、それはいまや廃屋にしか見えない、かつては医院だったというその場所から、山の上の教会が崩れた跡が――人々の墓標となった土砂の小山が、窓枠に切り取られた絵のように、一望できたせいかもしれない。
「まりあ先生」は、まりあだった。熱望したあの国での生活を捨て、大嫌いなこの国へ戻り、貧乏人や原始人のために、ミナミに医院を開いた。それどころか、教会が爆破されたあの日、運び込まれた怪我人の治療に当たったのも彼女だった。そして、どういうわけか、あの国の警察に殺された――。
なぜ、幾ら問いかけても、答えを持たない女は首を振るだけだった。女が繰り返すのは、怪我人の治療に当たっていたまりあが、その爆破に巻き込まれるはずがないということ、いなくなったことに気づいたのは、特高がやってきた翌日の朝で、だというのに、犠牲者名簿にはその名前が刻まれていたのだということだけで、醜い上に脳味噌も小さいのだろう、その話も何度も聞き直さなければ要領を得ないものだった。
だから、もし、女の言葉がそれだけならば、俺はそのまま医院を去り、記憶に蓋をしたかもしれない。しりるがあのとき、教会の下へ続く通路を塞いだように、何もかもなかったことにしたかもしれない。しかし、去り際の女の一言が、俺の運命を決定づけた。まりあ先生はオーカミの友人がいるんじゃないかって、特高は疑ってたみたいです――ふと思い出したかのように、女は確かにそう言ったのだ。
その瞬間、俺の中でばらばらに散っていた欠片は、ぴたりと一つの枠に収まった。確かな絵が見えたわけじゃない。しかし、それ以上、女の話を聞くこともなく、俺はすぐにトーキョーへ飛んだ。海を渡り、ここへ来る前の、つまらない生活に帰るためではない。
トーキョー拘置所、死刑判決を受けた囚人が収容されるそこで、昔の友人に会うためだ。
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