受講の目的
夕方の旧館はむわむわと蒸し暑い。ほとんど使われていないため窓を閉め切っていて、熱い空気が籠るせいだ。でも、さっきまで冷房の効き過ぎた教室にいた私には調度良いくらいだった。
窓から第2指導室の中を覗き込むと、高良先生がいた。生徒用の椅子に座って、針と糸とにらめっこしている。コンコン、とノックすると、顔を上げてこちらを向いた。
「どうぞ」
声は聞こえなかったけど、口の動きで何と言ったのか分かった。私はドアを押し開ける。室内は軽く冷房がかかっていた。
「何作ってるんですか?」
机の上に散らばるフェルト生地や糸を見ながら、高良先生の隣の席に腰を下ろす。よく見ると、見本のような完成品が一つあった。それはフェルト生地で作られたユニホーム姿の人形で、名前と背番号が縫い付けられている。
「お守り。3年の引退試合がもうすぐだからさ。顧問とマネで作ってやろうってなったんだよ」
そういえば、高良先生はサッカー部の副顧問だった。
「だけどほら、ご覧の通り。俺、裁縫苦手でさ。矢野なら手伝ってくれるかな~って」
確かに、針に糸を通すだけでも、高良先生の手は覚束ない。
「何個作るんですか?」
「3こ」
「いつまで?」
「来週の火曜日」
「間に合うんですか?」
「だから矢野に頼んでるんだよ!」
「開き直らないでください。私、縫いますから、先生は生地切ってください」
このまま高良先生に縫合を任せていたら、お守りどころか呪いの人形になってしまう。私は高良先生から針と糸を取り上げ、裁ちばさみを預けた。
黙々と作業に取り組んでいると、沈黙に飽きたのか、
「学習合宿さぁ」
と、高良先生が話しかけてきた。
「はい」
「俺の講義、希望してたでしょ」
高良先生の講義なのだから、本人に知られないことはないと思っていた。しかし、まさか話題にされるとは思っていなかった。
「だから何ですか」
「いやぁ、矢野が俺の講義を希望するとは思ってなかったからさぁ」
「友達に誘われたんです。面白そうだから一緒に受けようって」
我ながら素っ気ない言い草だとは思ったが、高良先生は気にしていないようだった。
「実はあの抽選、八百長してんだよね」
「八百長?」
「本気で勉強したいわけじゃなさそうな生徒は抽選する前に落っことしてんの、俺」
「どういうことですか?」
「どういうことってそのまんまの意味だよ。目的が古典の勉強じゃないやつは抽選にもかけない」
そういえば山口さんが、去年は抽選に外れたから今年こそは、と騒いでいた。
「いいんですか、そんなことして?」
「合宿の目的は勉強だろ? 純粋に勉強したい生徒の邪魔はさせたくないんだよ。……ところで、」
そこまで言うと、高良先生は手を止めた。首を傾げて私の顔を覗き込む。
「矢野はどっち?」
「どっちって?」
作業に集中しているふりをしながら、高良先生の方を見ないように答える。
「本気で古典の勉強がしたくて希望した? それとも他に目的がある?」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
「私は友達に誘われて希望しましたが、講座内容に興味がないわけじゃないです」
「つまり?」
「勉強以外の目的はありません」
「ほんとに?」
と、高良先生はにやりと笑う。
「しつこいですよ」
「あはは、ごめんごめん。ちょっとからかった」
ケラケラ笑いながら、高良先生は作業を再開させた。そして、ひとしきり笑った後で、
「俺に会いたかったって言わせてみたかったのかも」
と、ぽろっと言った。
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