緊張と緩和


 6限後のショートホームルームが終わると同時に、私は教室を飛び出した。早足で廊下を進みながら、1秒でも早く会いたくて、なのに気持ちに呼応しない鈍足がもどかしくて。速度を上げようとするうちに、私は旧館の階段を駆け上がっていた。しかし、あんなに軽かった足は、3階に近付くにつれ、重たくなっていった。高良先生に会う前はいつも緊張するけど、いつもの緊張とは何か違う。


 旧館の3階はいつも通り静かで、人気がない。足音を立てないように第2指導室へ近付きながら、急に、最初に何と話しかけたらいいか心配になった。色んな案をああでもないこうでもないと思い付いては却下している間に、第2指導室の前に着いてしまった。一先ず、窓の隅から中を覗く。しかし、高良先生はいなかった。私の方が早く来るなんて初めてのことだったが、今日はその方が都合がいい。私はノックもしないまま、ドアを押し開けた。


 ゴンッ――


 半分開けたところで、ドアが何かにぶつかった。同時に、


「イテッ」


 聞き慣れた声がした。恐る恐るドアの向こうを覗き込む。そこには、痛そうに後頭部をさする高良先生が立っていた。


「いたんですか……」


 最初にかける言葉をあんなに悩んだにもかかわらず、私の口から飛び出したのは、そんな気の利かない台詞だった。慌てて「すみません」と「大丈夫ですか?」を付け足す。すると、高良先生は後頭部を痛がるのをやめた。


「……なんで来たの?」


 高良先生の声がいつもより低い。怒っているようにも聞こえる。喉の奥に詰まり感を覚えながら、私は教室に入り、ドアを閉めた。


「……付箋、くれたから」


 訊かれたことに答えたのに、高良先生は不満げにため息を吐いた。そして、窓際の席に腰掛けた。いつもだったら隣に座るが、高良先生の纏っている空気がいつもよりギスギスしていて、近付くことすらできない。


「嫌だったら来なくていいって言ったでしょ」


 突き放すような言い方は、やはり怒っているからだろうか。でも、怒っているとしたら、何に?


「私、嫌だとは言ってません。ただ、高良先生の負担になるならやめた方がいいと思って」


「負担だなんて思ってないよ」


「じゃぁ、これからも勉強教えてください」


 高良先生が顔を上げて、私を見る。私も高良先生を見る。掛け時計の秒針が、いつもより大きな音を立てて時を刻んでいく。


「先生」


「矢野」


 私が高良先生を呼ぶのと、高良先生が私を呼ぶのは同時だった。私たちの間に、気まずいような、照れ臭いような空気が流れる。


「先生が先に話してください」


「いや、いいよ。矢野からで」


「大した事じゃないから」


「そんなことないだろ。矢野からでいいよ」


「いいから先に話してッ」


 語尾を強めて言うと、高良先生は参ったというように頬をポリポリと掻いた。固かった高良先生の表情が、微かに和らぐ。


「いや……今日はさ、特にやってもらう仕事ないんだ」


「この間言ってた手伝ってほしいことは?」


「それはまた今度で間に合う。だから……」


 そこでまで言うと、高良先生は立ち上がった。こちらに歩いてきたかと思うと、私の目の前で止まった。そして、私の手を取った。高良先生の体温がじわじわと体を侵食して、足の爪先まで火照っていく。掴まれた左手が熱くて堪らない。


「今日は、矢野とたくさん話がしたい。なんか話してよ、矢野のこと」


「え?」


「いつも俺ばっかり喋ってるからさ」


「そんなことないと思いますけど」


「いいから。今日は矢野が話して」


 そう言って、私の手を引いて向かったのは、さっきまで高良先生が座っていた椅子。そこに私を腰掛けさせると、高良先生は隣に腰掛けた。繋いでいた手がそっと離れていく。


「何か話せと急に言われても……話すの上手くないし……」


「そうか?」


「面白い話なんてできません」


「ハハハッ、別に面白くなくていいよ」


 高良先生が笑った。途端、重たくて仕方がなかった心臓が軽くなったような気がした。緊張が解けるのと同時に、うまく呼吸できていなかったことに気付く。



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