始まりのきっかけ
私と高良先生は週に2回程、放課後に個別指導室で待ち合わせをする。そして、高良先生は私に勉強を教え、私は高良先生の仕事の手伝いをする。
高良先生との個別授業が始まったのは、5月の連休明け頃だった。その日、日直だった私は日誌を提出しに、放課後、職員室を訪ねた。担任の木村先生は部活指導のため不在で、私は木村先生のデスクに日誌を置いた。そのとき、
「日直か。ご苦労さん」
と、背後から声をかけられた。振り返ると、高良先生が立っていた。高良先生の席は木村先生の隣だ。
「日誌を置いておくので、木村先生が戻ってきたら……」
高良先生とまともに話すのはこれが初めてで、緊張した。喉が渇いてうまく声が出ず、途中で言葉が途切れてしまった。
「あぁ、伝えておくよ」
私が息継ぎをして続きを言う前に、高良先生はこちらの要求を理解してくれた。椅子に腰かけながら、私の方を見ることなく軽い調子で相槌を打つ。
「ありがとうございます」
「あ、そうだ。矢野」
高良先生の口から自分の名前が飛び出たことに、私の心臓がドクンと揺れた。生徒の名前を覚えないことで有名な高良先生が、ろくに話したこともない生徒の名前をすんなり呼べたことに驚いたのだ。
「はい」
感情を押し殺して、淡々と返事をする。高良先生はパソコンを開きながら、やはり私の方を見ない。
「この間の小テスト、どうしたんだ?」
「小テスト……?」
「古典単語の小テストだよ。いつも満点なのに平均点ギリギリだったろ」
「個人の結果、把握してるんですか?」
「まぁ、担当クラスのはな」
「へぇ」
「矢野はいつも満点だから余計覚えてたよ。で、なんで今回は振るわなかったんだ?」
「その日、数学の小テストもあったので、そっちの勉強に集中し過ぎて古典やるの忘れました」
パソコン画面を見ていた高良先生の目が、パッとこちらを向いた。目が合うのは、初めてだった。高良先生は椅子に座っているため、私が見下ろす姿勢になっている。授業中も廊下ですれ違ったときも、高良先生を見上げたことしかなかったから、なんだか距離が近い感じがした。
「え? そんな理由?」
拍子抜けする高良先生に、「はい」と頷く。平常心を装うのに必死で、愛想のない言い方になってしまう。
「あ、そう。で、古典を犠牲にして挑んだ数学の小テスト、結果はどうだったんだ?」
「いまいちでした」
高良先生の眉間に、皺が寄る。
「古典を犠牲にしたのに?」
「応用問題が思ったよりできなくて」
「古典を犠牲にしたのに?」
「そうです」
「古典だって大事な教科なはずだけどねぇ」
「そんなに言うなら、先生、数学教えてくださいよ」
冗談のつもりだった。古典の先生なんて根っからの文系だ。数学の問題なんて解けるはずない。そう思っていた。だけど、高良先生はあっけらかんと答えた。
「いいよ」
思いもよらぬ返答だった。言い出したのは自分なのに、「いいよって、何が?」と聞き返しそうになった。
「第2指導室が空いてるから、そこでやろう」
こうして、小テストの勉強をさぼったことをキッカケに、個別授業は始まった。高良先生は専門である古典や現代文はもちろん、数学、英語、生物、政治・経済、世界史まで教えてくれた。最初は私が勉強を教わるだけだったが、回数を重ねるうち、高良先生に仕事の手伝いを頼まれるようになった。そして、勉強と関係ない会話もするようになった。話題を提供するのはいつも高良先生で、「今日の現文の授業、どうだった?」とか、「近所におしゃれなカフェができたんだけど、カップルだらけで行きにくい」とか、なんてことない話をする。教室では「プライベートなことは生徒に話さない」という主義を頑なに曲げないのに、放課後のこの時間だけは、自分の話をフランクにしてくれる。
先生と生徒という立場を超えたことはない。やましいことも後ろめたいこともない。でも、世間というのはそんなに甘くない。先生と生徒が、それも男女で、人気のない教室で定期的に会っているなんて、たとえ勉強しているだけであっても、スキャンダルになることは容易に想像がつく。女子高生は尾ヒレをつけるのが大得意だ。だから、私たちは基本的に個別授業のときしか会話をしない。言葉を交わすにしても、授業中に(出席番号で)指名されるくらいだ。個別授業のことを、私は誰にも言っていない。高良先生も誰にも言っていないと思う。これは、私と高良先生だけの秘密。
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