第47話 そんなわけない

 ぐらりと視界が歪んだように見えた。

 ああ、これは……そう思ったと同時に振られた直後の私を見たような気がした。



 真っ先に伝わってくるのが、怒りでも悲しみでもない、やるせなさ。頭では理解していてもどうにかならなかったのかと考えて、でもわからない。

 まさしく私の失恋直後だった。


 ぽたりと屋根の雫が落ち、葉の上で跳ねる。

 雨は降っていない、ただなぜか一滴落ちたのだ。


 笑った渚さんは視線を切るとまた夜空を見上げる。


「自業自得なんだー」

「見下して、バカにして、コケにして、さんざんひどいことをしてきたんだー」

「それに気づいたのがつい最近。ほんと笑っちゃうよ」


「怖いね、無意識なんだから」



 淡々と言葉を羅列していく。ゆっくりと声が小さくなっていく。

 なんとも言えない風が漂い、重たく沈んでいく。


 そっと開こうとした口も気づけばつぐんでいた。


 部屋で寝ている友達が呻く。


 その声に目を覚ますと、首を軽く振るった。

 邪念を払うように。


「……そろそろ、寝ましょうか。明日も早いですし」


「そう、だね。うん。寝よう」


 そう言うと顔を見せずに渚さんは立ち上がり、布団へと歩みを進める。その背中にはなにか嫌なものが憑いているように見えた。


 声をかけようとして、ためらって、そんなことを繰り返した。

 渚さんの歩みが小さくなっていき、静止する。


「……なにか、聞こえない?」



「え?」



 本当に憑いてるの?え?


「ほら、廊下の方から」

「マジすか、いやマジでしょうか?」

「そんな無理して敬語使わなくてもいいよ」


 言われてみれば確かに音が聞こえる気がする。

 女性の歌い声のような……


 途端にテレビを思い出す。

 たしか番組内では神主さん的なのを呼んで退治してたな。

 じゃあまず神主さんを……


 あれ、詰んだか。


 よ、よし。一度深呼吸だ。

 焦ったってなんも解決しないし、それにまだ幽霊と決まったわけじゃない。落ち着け。


「……原田さんが言ってたんだけどさ」


 待ってください渚さん。その話の入り方で助かることないんですよ。せめて作り話であってくれ。


「ここ、出るらしいよ」


 ですよね。分かってましたよ。


「何年か前にここを建て替えたらしいんだけど……」


「……明ちゃん」


「もしかしてさ怖、いのダメなの?」

「いや!!そんなことは……あり、ます、が……」


 渚さんはその言葉に思わず吹き出して笑うと、「以外」の言葉を付ける。


「以外って……別に私はそんな……強い人間じゃないですよ」


 幽霊だったらとりあえず一発殴ろう。

 物理だ物理。


 出会い頭に一発、決めてやる。それに悶えた瞬間首を絞めて落とす。


 やるぞ、やってやる。


 幽霊に効くか分からずとも気迫で悶えさせてみせる。


「なんか、聞き覚えのある声だね」


 渚さんはゆっくりとした足取りで玄関の戸に手をかける。


 引くと高い音が鳴った。

 やっぱりボロいのか?日本家屋だと腐りやすいとかあるのかな。


 空いた隙間からキョロキョロと辺りを見回すと、びっくりしたような顔でこちらを見る。


「なんか、声の主が扉の前にいるんだけど」

「は、はいぃ!?ちょ、じゃあ開けないでくださいよ!!」

「閉めて!閉めてぇ!!」


「いや、それがさ」

「文ちゃんなんだよね……」


「はい……?」




「ってことで!」

「ご迷惑おかけしましたー!!」



「ほんとですよ、何やってんですか」


 そう言うと扉の前で土下座をする中原さん、どこか火照ったような感じがしてバラのような香りがする。


 ただそこは問題ではない。なんというか、その……顔に艶があるのだ。


 え、ヤッたんですか……?修学旅行で?


 私の思考は先ほどまでとは打って変わり、もはや色欲の塊となりつつあった。


 もともとそういう浮ついた話が嫌いな訳では無い、むしろ好きな部類だ。

 だからこそ、失恋した私にとって人の色恋沙汰はまさに劇薬に等しかった。何をしても彼との日々を思い出してしまうからだ。

 初恋だったから、というのもあるのかもしれない。

 ただそれも、自分の中で特別な位置にある人の恋愛、という一点に特化したものはすんなりと受け入れることができたのだ。


 なんとも複雑な心境だ。


 こんなにも早く人の色恋に口出しできるようになるとは。


「……なんでそんな肌艶良いの?」


 渚さん!?ぶっこみますね、ていうかもうそれはわかってる人の反応ですよ。


「いや〜もう。それはそれは……」


 満面の笑みだ、中原さん、満面の笑みだよ……渚さん。


「キス、しちゃいまして〜」



「え?」


「え?とは何ですか、え?とは」

「そ、それだけ?」


 首を傾げると疑問符を浮かべる。


 どうやら、洗剤もびっくりの清いお付き合いをしていたらしいです。


「それで、鼻唄を歌ってたと?」

「はい、いや〜テンション上がっちゃって!」

「文ちゃん」


 渚さんの目線が下を向く。

 嫌な予感がする。こう、真っ白な物を汚してしまうような……


「世の中にはね」


 渚さん?


「トイレでチョメチョメする人もいるんだよ?」

「何ですか、チョメチョメって」

「か、可愛らしく表現したの!なんとなくわかるでしょ?」


 渚さん、諦めましょう。この顔は本当に分かってない人の顔です。すくなくとも知っててここまですっとぼけられませんって。


「ま、まぁ!いいじゃないですか、ね?二人とも!」

「謎の声の原因も判明したことですし!寝ましょう!渚さん」


「そ、そうするよ……」

「チョメチョメってなんなんですか?」


「あー……親御さんに聞いてください。多分知ってるので」


 魂が抜けたかのように項垂れる渚さん。その姿からは哀愁があふれている。


「まさか、知らない人がいるとは思わないじゃん……」


 ブツブツとその言葉を繰り返している。安心してください、私も心底驚いてます。


「文さん、おやすみなさい。渚さんは引っ張っていくので。それにそろそろ巡回来ると思います」

「ん、わかった。早く部屋戻るね!おやすみ〜」


渚さんをズルズルと引きずりつつ扉を閉める。


「あ、そうだそうだ」

「明ちゃん」


 文さんが私を呼び止める。それに少し違和感を覚えた。

 文さんと私は接点がほぼほぼない、強いて言うのであれば勉強を教えた位だ。

 たったそれだけの関係の私を呼び止めた、なにかあると思っても不思議ではない。


「何ですか?」


 おそらく緊張した声が出ていたと思う。


猫のような、まるで全部を見透かされそうな大きな黒目と目が合う。


「春馬はまだ、フリーだからね」



 時が止まった気がした。

 重苦しい空気が肺に溜まる。


 なぜ、この言葉が出てきたのかわからない。ただ真っ先にこの言葉喉を突いて出た、出てしまった。


「わかってます」


 ぱたんと扉が閉まった、そのままゆっくりと私は後悔に思いを馳せる。


 ズルズルと扉に体を擦り付けつつへたり込んだ。


 意味がわからなかった。気づいても遅いというのに、そもそもそんなわけがないのに。


 私はただ、ただ…………



 諦めろ、そんな言葉がゆっくりと頭を回る。


 頭がすこぶる良いわけでもない、運動ができるわけでもない、顔がいいわけでもない、なんであんなやつを。


 いや、落ち着いて考えよう。


 そうだ、そうだよ。明日になったら忘れてるさ。


 きっと。

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