第49話 「呪詛の巣窟」
都内の雑多な建物群に紛れるように佇むその施設は、一見して普通の宗教施設に見えた。しかし、周囲の空気は異様に重く、目に見えない圧力が訪問者を拒むかのように立ち込めていた。建物の外観は経年劣化で薄汚れ、灯りもなく、不気味な沈黙が続いている。
施設の前に立つ本庄麗奈と椎名真琴。二人は無言のまま建物を見上げた。麗奈の持つ数珠が、微かに妖気を感じ取るように震えていた。
「……かなり濃いですね、この妖気。普通の結界では防げません」と真琴が低い声で言う。
「この規模の妖気が集まる施設、放置するわけにはいきませんね」と麗奈が柔らかな声で応じた。
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建物に足を踏み入れた瞬間、二人を襲ったのは異常な寒気だった。外の冷気とは異なる、体の芯を蝕むような妖気が空間を支配している。暗闇の中、壁には奇妙な模様が描かれ、それらがまるで生きているかのように蠢いている。
「これは……通常の呪詛ではない。空間そのものが呪術に染められていますね」と真琴が分析を始める。彼の声は冷静だが、警戒心が滲んでいた。
「このような場所で活動している人々も、ただの被害者である可能性があります。慎重に進みましょう」と麗奈が言い、数珠を握り締めた。その表情は柔らかいままだが、目には鋭い決意が宿っている。
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施設の奥へと進むにつれ、空間の歪みがさらに強くなっていく。突然、暗闇の中から低い唸り声が響き渡り、周囲の影が蠢き始めた。壁に描かれていた模様が実体化し、巨大な蛇のような影となって二人を取り囲む。
「来ましたね……!」真琴は即座に護符を取り出し、空中に投げる。護符が光を放ち、周囲に一瞬の安堵を与える結界を作り出す。
麗奈は数珠を掲げ、小さな祈りを唱えた。数珠の一珠一珠が淡く光り始め、浄化の波動が周囲に広がる。影は一部が消えたが、再び形を取り戻し、彼らに襲いかかってきた。
施設の奥から一人の男が現れた。黒い長衣をまとい、手には古びた呪符が握られている。彼の顔は歪み、まるで憎悪そのものが形を成したようだった。その目は鋭く光り、二人を睨みつける。
「ようこそ、冥府機関の者たち。この場を生きて出られると思うなよ」と呪詛士が嘲笑を浮かべる。
麗奈は微動だにせず、静かに呪符を見つめた。「ここであなたを止めます。この場所が浄化されれば、ここで苦しむ人々も救われるでしょう。」
「救う? 馬鹿なことを……この地に宿る力は、救いとは正反対のものだ!」呪詛士が叫ぶと、彼の周囲に黒い霧が集まり始めた。それは次第に巨大な姿を取り、歪な形の怪物と化した。
真琴は素早く護符を展開し、霧の侵食を防ぐ結界を作り出した。「麗奈さん、浄化の準備を!」と短く指示を出す。
麗奈は頷き、数珠を強く握りしめた。笏を掲げると、彼女の周囲に柔らかな光が広がり始める。その光は霧を押し戻し、一瞬だけ場を静めた。
だが、呪詛士はさらに呪符を取り出し、空間全体を揺るがすような術式を発動させる。怪物のような影が結界を叩きつけ、真琴の防御を削り取ろうとする。
「この程度では結界は破れません!」真琴は力強く言い放ち、護符をさらに追加して防御を強化した。その動きは正確で無駄がなく、影の攻撃をすべて防ぎ切っている。
戦闘の中で、麗奈の心には過去の記憶がよぎっていた。かつて浄化の力が通じなかった村での失敗。その時に抱いた無力感。しかし、彼女は数珠を見つめ、心を落ち着けた。
「過去の後悔に囚われるわけにはいかない。この力で、今目の前の人々を救う……」
彼女は大きく息を吸い、全身を浄化の光に包み込むと、一気に呪詛士の方へと歩みを進めた。その一歩一歩が、施設全体に広がる妖気を浄化していく。
呪詛士は最終的な術式を放ち、全ての妖気を彼らに向けて解放した。空間全体が歪み、まるで地獄そのものが広がるかのような光景となる。
「これで終わりだ……!」
その瞬間、真琴が護符を空高く掲げ、「今だ、麗奈さん!」と叫ぶ。結界の光が一時的に呪詛士の動きを封じた。
麗奈は笏を掲げ、全身の力を込めた。「清浄なる光よ、この地を覆う闇を断て!」彼女の声と共に、笏から放たれた浄化の光が呪詛士の術式を完全に飲み込んだ。
黒い霧は一気に晴れ、呪詛士はその場に崩れ落ちた。彼の持つ呪符が燃え尽き、影は完全に消滅した。
施設内には静けさが戻り、重かった空気も薄らいでいた。麗奈と真琴は互いに頷き合い、周囲を確認する。
「この場所は浄化されましたね……これで、安心できます」と麗奈が柔らかく微笑む。
「ですが、これが終わりではないでしょう」と真琴が淡々と応じる。
二人は静かに施設を後にした。その背後で、施設は浄化の光に包まれ、過去の呪いを消し去った清浄な空間として佇んでいた。
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東京の夜空には、わずかに雲がかかり、街全体が静けさに包まれていた。宗教団体の施設を後にした本庄麗奈と椎名真琴は、無言のまま車に戻っていく。戦いの余韻が、二人の心に重くのしかかっていたが、その一方で小さな達成感も胸に残っていた。
車の中、麗奈は数珠を膝に置きながら、窓の外を眺めていた。街の灯りが流れるように過ぎていく中、彼女の表情には一瞬、安堵の色が浮かんだ。
「少しは、穢れを払えたでしょうか……」彼女は静かに呟いた。
隣で運転する真琴は、ちらりと彼女を見てから短く答えた。「ええ、間違いありません。施設の空間が浄化されたことで、犠牲になっていた人々の心も少しは救われるでしょう。」
麗奈は彼の言葉に小さく微笑みながら頷いた。
二人の脳裏には、施設の中での激闘がまだ鮮明に残っていた。呪詛士との戦い、迫り来る影、空間全体を歪める妖気。あの恐ろしい空間の中で、二人は互いの力を信じ、全力で対処してきた。
麗奈は、数珠を握りしめながら、その時の自分の言葉を思い出していた。
「過去に囚われず、今を救う」
その言葉は、彼女が自らに言い聞かせるためでもあった。浄化の力が及ばなかった過去を克服するため、彼女は今日も戦っていたのだ。
真琴は運転しながら、施設の中で呪詛士が放った言葉が頭をよぎった。
「力を得るためには、犠牲が必要だ……」
その言葉に、真琴は微かな怒りを覚えていた。彼にとって、仲間を守るための結界は、誰かを犠牲にする力ではなく、全員を守るための盾だった。その信念に基づいて戦ってきた彼にとって、呪詛士の考えは到底受け入れられるものではなかった。
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冥府機関の本部に戻った二人を迎えたのは、深夜の静けさだった。活動を終えた機関のメンバーたちはそれぞれの休息を取っており、施設内は人気がない。
麗奈は真琴と軽く会釈を交わし、それぞれの方向へと歩き出した。
彼女は浄化の道具を片付けるために、自分の部屋へ向かう途中、ふと立ち止まり、静かな廊下を見渡した。これまで数え切れないほどの戦いを経て、多くの命を救ってきた。だが、彼女にとってそれは「十分」とは言えないものだった。
「まだ、終わりではありませんね……」麗奈は独り言のように呟き、数珠を手に取った。その数珠の一珠一珠には、これまで救えなかった命への祈りが込められていた。
一方、真琴は本部のトレーニングルームへと向かい、静かに護符を並べ始めた。戦いの反省と、次の任務への準備。それが彼の習慣だった。
「守るための盾であるべきだ……それを忘れない限り、道を間違うことはない」
自らに言い聞かせるように呟き、真琴は護符を一つ手に取り、じっと見つめた。
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本庄麗奈の部屋の窓からは、遠くの空がわずかに明るみ始めているのが見えた。夜が明ければ、新たな日が訪れる。そして、新たな戦いもまた、すぐそこに待っている。
「今日もまた、進むべき道を歩みましょう」
麗奈は静かに微笑むと、数珠を机の上にそっと置き、目を閉じた。母のような存在である彼女は、仲間たちを見守りながら、自分自身の戦いを続けていくのだった。
そして、彼女と真琴の姿が、次なる戦いのためにそれぞれの決意を新たにする光景が、静かな夜明けと共に溶け込んでいく。
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