ニセモノの恋人

虫野律(むしのりつ)

ニセモノの恋人

 買ったばかりのSUVを走らせながら遼平りょうへいは、特に愛してはいない妻、月子つきこのことを考えていた。夜空に浮かぶ月がいやに輝いていたから、というわけではない。

 月子は遼平の勤める会社の重役の一人娘で、彼女との結婚は端的に言えば出世のためだった。

 高慢が垣間見える細面に抱き心地の悪い痩せぎすの月子は、甘やかされて育った世間知らずの箱入り娘で、そのせいかはわからないが神経質な完璧主義者で疑い深い性格をしていた。

 家には月子の定めたルールがいくつもある。例えば、〈小便も座ってしろ。した後は除菌のトイレクリーナーで便座を拭け〉〈「箸先五分、長くて一寸」の絶対遵守〉〈鞄をリビングや寝室に持ち込むな〉〈一日の予定をあらかじめ報告しろ〉〈妻からのメッセージには必ず二十分以内に返信しろ〉〈どんなときも妻を拒むな。しかし十分以内に射精しろ〉などなど、とかく七面倒くさいのだ。

 だから俺のせいじゃない。

 遼平は罪悪感がちらつくたびにそんなふうに自分に言い聞かせてきた。月子を愛せないのも、嘘の予定を報告するようになったのも──今、陽菜子ひなこの所に向かっているのも全部彼女が悪いのだ。だから自分は悪くない。

 陽菜子は月子とは対照的に愛嬌のあるかわいい女だった。若いうえに胸もケツもでかく、言われなくても十分も持たずに果ててしまうほど具合もいい。

 遼平には、独身時代から通っている個人経営の喫茶店がある。人目を憚るように繁華街の裏路地にひっそりと佇むそこは、遼平にとって、少年にとっての秘密基地のようなものだった。訪れる時はいつも一人で、月子を連れてきたこともない。

 陽菜子とはその隠れ家で出会った。大学進学と共に東北の田舎から出てきて、そこでバイトしはじめたらしかった。

 結婚生活に疲れていた遼平が、陽菜子に惹かれはじめるまでに時間は掛からなかった。

 そして陽菜子のほうも、慣れない土地での初めての一人暮らしの寂しさからか、遼平を拒絶することはなかった。

 それが、ちょうど三箇月前のことだ。

 遼平はハンドルを切って住宅街へ入った。




 陽菜子のマンションは、老朽化の進んだこぢんまりとしたものだった。当然、オートロックもない。

 階段を上り、二階の陽菜子の部屋の前まで来た。呼び鈴を押す──しかし、いくら待っても応答はない。

 どうしたんだ?

 訝しく思い、もう一度押すもやはり無音。

 まさか何らかの事件に巻き込まれたのか?──嫌な想像が背筋を駆け上がった。ぞわ。一瞬遅れてその足跡が粟立っていく。

 遼平はビジネスバッグから合鍵を取り出した。マナー違反かもしれないが、緊急時には致し方ないだろう。慌ただしく鍵穴に差し込み、回した。

 ガチャ、という安っぽい解錠音が不安を煽った。玄関扉を開ける。と、

「なっ……?!」

 遼平は目を見張った。「何だこれはっ」

 もぬけの殻だったのだ。電灯は点いているもののキッチンと一体となったリビングダイニングには何もなく、足元に目を落とせば三和土たたきはただコンクリートの灰色が見えるばかり。下駄箱も空。

 部屋を間違えたのか、と疑ったが、合鍵のことが浮かび、すぐに否定した。

「陽菜子……?」

 彼女の名を呼びながら敷居を跨ぐ。返事はない。隣の寝室へと続くスライド式の間仕切り扉を開けた。やはり何もない──いや違う。ベッドのあった場所──フローリングにぽつねんと置かれている物があったのだ。

 近寄って拾い上げると、若草色の洋封筒だった。糊付けはされていないようだった。ペラとめくると、折り畳まれた便箋が覗いた。取り出し、広げる。学生気分そのものの丸文字が並んでいた。記憶にある陽菜子の字とまったく同じだった。

 彼女からだ。彼女からの手紙だ。

 そう確信した遼平のこめかみを汗が伝い、そしてそれを読みはじめた。


『遼平さんへ

 突然のことで戸惑っていることと思います。ごめんなさい。

 でも、こうするしかなかったんです。わたしは弱いから、遼平さんの顔を見ると、声を聞くと、きっと決意が揺らいでしまいます。

 遼平さんはいずれ妻とは別れるつもりだと言ってましたけど、そんなの嘘です。わたしだって馬鹿じゃないんです。野心家の遼平さんが、肩書きのある人の親族、名家の娘の夫という立場を捨てるはずがありません。それくらいわたしにもわかります。

 遼平さんは都合よくわたしを利用しているだけ……。

 わたしはどこまでいってもニセモノの恋人……。

 つらかったです。ずっと悩んでいました。

 ……思えば、遼平さんはいつも嘘ばかりでした。

「妻とは上手くいっていない」「ろくにごはんも作ってもらえていない」「会話もほとんどない。業務連絡みたいな無機質な会話だけだ」「もう随分と彼女には触れていない」

 溜め息まじりにそんなふうに言っていましたね。

 でも、全部嘘です。

 奥様の特技は料理でしたよね? 本当は毎日毎日手の込んだ夕食を作り、遼平さんの帰りを待っていてくれるんですよね?(たしかに、洋食好きで子供舌の遼平さんからすれば、和食好きで舌の肥えた奥様の料理は口に合わないのかもしれませんけど)

 会話もないわけがありません。そもそもお二人の馴れ初めは、遼平さんが奥様のお父様に、共通の趣味である本格ミステリのお話をしたことです。お父様を通してそれを耳にした奥様が興味を持ったそうですね。休日にはお互いの考えた推理クイズ、いわゆる読者への挑戦ものの短編推理小説を出し合ったりと仲睦まじいと聞きました。

 やっぱり遼平さんにとってわたしはニセモノの恋人。ホンモノは、本当に愛しているのは奥様なんです。新婚のころと変わらない頻度の夫婦の営みが何よりの証拠です。

 なぜそんなことまで知っているのか。きっとそんなふうに怪訝に思っていることでしょう。戸惑う顔が目に浮かびます。

 ……わたしがニセモノだからですよ。

 不倫相手だからニセモノの恋人という意味かって?

 もちろん違いますよ。

 遼平さんは頭のいい人です。もう気づいてるんじゃないですか? わたしの嘘に。

 わたしは疑い深いんです。今まで遼平さんを心から信用したことは一度もありませんでした。

 しかし、最近父が、「そろそろ孫の顔が見たい」とうるさいでしょう?

 そこで、わたしは遼平さんの愛を試すことにしたのです。

 どうでした? 若い女の体は。

 わたしと違って遼平さんの好みに合った、はしたない体だったでしょう? 遼平さんは面食いですからね、探すのに苦労したんですよ。

 そうそう、今夜は遼平さんの嫌いな身欠きにしんの煮物にしました。だから、逃げないで早く帰ってきてくださいね、あなた。』




(了)

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