破片ライダーサドネス

第1話 僕は戦えない

「ねえ,君。こんな所にうずくまってどうしたの?もしかして,迷っちゃった感じ?」


氷も一秒と持たない間に溶けてしまいそうな暑いある夏の日だった。その日はオープンキャンパスの開催日で,学内は人で溢れていた。人通りの少ない,研究室の入口の前で足を抱え込んでうずくまっているところに声をかけられ,恐る恐る顔を上げた。すると,目の前に知らない男が立っていた。

その男は,切れ長な目に,目立つえくぼ,それから,ツンとした茶髪を長めに垂らし,平成のドラマで見たような派手な服を着ていた。2000年代の雰囲気をまとうその男と目があった途端,男は三日月のように眉毛を歪めて優しく微笑んだ。


「俺ね,早川っつーの。早川レイ。レイでいいよ。オーキャン見学の子でしょ?ここの大学広いから迷っちゃうよね,俺案内してあげるよ。」


「レイさん。でも,大丈夫です。放っておいてください…。」


口調もチャラそうで,いかにも人気者といった感じだった。そんな人が自分に構う暇も,興味もないだろう,と拒否を示した。が,それでもレイは立ち去ることなく,その場に立ちすくんでいた。強い口調に傷ついてしまったのか,と不安になり,もう一度その男の方を見つめ,慌てて謝罪をした。


「あの…すみません。ご心配ありがとうございます。しばらくしたら行くんで,放っておいてください…。」


それでも,やはり今は放っておいてほしかった。これは自分自身の問題で,誰かに話せるようなことでもなかった。レイは相変わらず,優しい笑顔でこちらを見て,話を続けた。


「じゃあ,俺もここいるよ。君の名前は?」


レイは隣に座り,太陽光が反射した水面のように,眩しくて目も当てられないほどの笑顔で私を見つめてきた。


「えっと…ブルスです。」


と絞り出すように声を出した。その眩しい笑顔と明るい性格は,あの世界とここが違う場所なんだということを,強く知らされるだけだった。そんなことにも構わず,レイは答えたことが嬉しいようで,大きく歯を見せて笑った。


「ブルス!なんか,日本っぽくない名前だね!でも,ブルスちゃんは日本人って感じの顔だから,ハーフ?」


「いや,ハーフとかではなく,ちゃんと日本生まれなんです。色々あって説明は難しいんですけど…」


言えない。ある意味,日本で生まれたことには違いない,嘘はついていない。


「へー,まあいいや。で,君はうちの大学に見学に来たの?迷子かな?それとも,人が多いから人酔いしちゃった?」


「見学…というか,吉田先生の研究室に用があったんですけど,緊張して…。」


はっとした顔をして何か思い出したレイは,廊下のずっと奥を指差した。


「多分あそこだよ,君の用事って。あそこが吉田先生が研究してる研究室。ヒーローへの技術の提供がなんとかって。うちの大学ってスポーツ系強いから,スポーツ科の学生の中からヒーロー候補を探したり,武器とかの研究してるからさ。君がその『天才科学者ちゃん』ってことだよね?」


「天才…ではないですけど,ヒーローの戦闘武器の開発のために,ここに呼ばれました。その…レイさんもそこの…」


そう言いかけたとき,大きな爆発音と,揺れを感じた。そのとき,レイに庇われるように両肩を掴まれた。見上げたときに見えたレイの顔は,一瞬人が変わったような目をしていた。だが,すぐに先ほどと同じような顔に戻り,レイは肩から手を離した。


「ブルスちゃん,だったよね?ゴメンだけど,これから俺お仕事なんだ。長い付き合いになると思うから,これからよろしく頼むね。じゃあね。」


口早にそう言うと,レイは走ってその大きな音が聞こえた方へ向かってしまった。一瞬の出来事に唖然としていたが,すぐに我に返った。


(いや,だめだ。このままではあの人が死んでしまう。こういうときこそ,僕が行かないといけない。僕が戦わないといけない。)


鈍っていた決心を奮い起こし,リュックサックの肩紐をぎゅっと握ってレイの後を追いかけた。廊下を走っている最中にも,大きな爆発音が続き,固めたはずの決心がゆらゆらと揺れて,体中が震えていた。だけど,怯えてばかりもいられない。僕はヒーローにならなきゃいけないのに。また一つ,また一つと大きな音が鳴るたび,足がすくんだ。


(でも…,それでも…!!)


『やめろ!!』


大きな叫び声が聞こえ,慌てて僕は窓から身を乗り出して外の様子を見た。大きな広場の中で,沢山の人々が恐怖した顔を浮かべながら逃げ回り,大混乱となっている中で,広場の中央には,青いマスクとスーツをまとった男と,蜘蛛のように足が六本生えた,大きな怪物だった。青い男は,その怪物にゆっくりと近づき,怪物に向かって剣を構えた。不気味な怪物と,青いマスクの変質者が向かい合っている様子は異様だった。その様子を見て,僕ははっとした。


「今は俺に倒されろ,話は後で聞く。」


その男が手に持っている剣に見覚えがあった。何しろ,その剣は僕が作ったからだ。今日,この大学へ来たのは,吉田先生の研究室に提供したその武器のメンテナンスとバージョンアップをするためだった。本当は,僕があのヒーローになるはずだった。

怪物は足と足をすり合わせたり,口をパクパクとさせたり,その青いヒーローを食べる気満々といった感じだった。その怪物の周りには,誰かの衣服や所持品と見られるものがぐちゃぐちゃになって散らばっていた。僕が怯えている間にもまた人が死んでいたのか。その様子を見て,再度決心を固めて気持ちを整えた。


慌ててリュックサックの中から,タオルで包んだ「あれ」を取り出す。そして,「あれ」を腰に巻きつけ,僕は叫んだ。


「変身!!!」


そう叫び,腰につけた「あれ」に手をかざした。しかし,反応しない。


「変身!!変身!!!お願いだ,動いてくれ…!!」


何度繰り返しても,やっぱり変身できない。変身して戦えない悔しさで,その場に膝から崩れ落ちた。


(ああ,僕はやっぱり戦えないのか。僕は,強くはなれないのか。)


しかし,そんなことばかり言ってられない。僕は腰から「あれ」を外し,それを手に持ってからもう一度,窓から身を乗り出した。そして,そのヒーローに向かって叫んだ。


「そこのヒーロー!!これを受け取って!!君の新しいスーツ!」


青い男は「あれ」を受け取ると,慣れたように腰にそれを巻きつけた。使い方は教えていないのに,と不思議に思ったが,一瞬で謎が溶けた。


「ありがとな,ブルス。」


そのヒーローに名前を呼ばれて,僕は確信した。僕をブルスと呼ぶのは,吉田先生しかいない。吉田先生なら,僕の作った発明品を知っているから,使い方も知っていることだろうと思った。

青い男は「あれ」に手をかざし,


「変身!!!」


と叫んだ。


腕を顔の前で十字に交差させ,ゆっくりと上へめくりあげるように引き上げていくと,青い男の体は装甲に覆われた。青と黒のボディで,目の下には雫のようなマークが浮かび上がっていた。細身の吉田先生でも筋肉質に見えるほどの筋力強化が施される設計だ。僕の開発した変身道具,通称イクサスデバイスは,その変身者自身が人生で最も感じた感情が高まったとき,その感情に共鳴して変身することができる。雫のマークに,青いボディ。


「あれは,悲しみの力…?」


青い男は,蜘蛛の怪物の腹部に蹴りを入れ,逃げ出しそうな所にさらに拳を打ち込んだ。しかし,パワーと圧倒的な強さは感じるが,決して乱暴な戦い方ではない。川の水のせせらぎのような,実に美しい戦い方であった。足取りの一歩一歩が,水面を打つように軽く,蜘蛛に一撃も撃たせないほどの素早さだった。

そんな様子を見て,ふと,ブルスは考えた。


(面倒だからって,洗濯機の容量を遥かに超えた洗濯物を,洗濯機に詰め込むような吉田先生が,あんなに優雅に戦えるもんなのかな…。それに,初戦闘でこれだけの立ち回りが…。)


そう考えているうちに,蜘蛛のような怪物は倒れ,しゅるしゅると小さくなって消えた。そして,男はすっと振り返って僕の方を見つめてきた。

その瞬間,その男から眩いフラッシュのような光が放たれた。現れたのは,吉田先生ではなく,先程出会った「早川レイ」だった。


「ブルスちゃん!ねえ,これすごいね!!やっぱり君は天才科学者ちゃんなんだよ!」


早川レイは,イクサスデバイスを指差しながら,あのキラキラとした笑顔ではしゃいでいた。てっきり吉田先生だと思っていたから,僕はすっかり腰が抜けてしまった。あの男が何者だとか,吉田先生とはどういう関係なんだとか,そんなことを考える暇もなかった。先程の様子を見ていれば分かる,あんなにしなやかに敵に攻撃を加え,被害を最小限にして周りの人を守りながら戦うには,相当の技術がいる。レイは恐らく,かなり戦闘に慣れている。しかし,僕はもっと別のことで頭がいっぱいだった。それは,なぜレイが変身できて,なぜ僕ができないかということだった。


「ブルスちゃん,イクサスデバイス,だっけ?先生から聞いたから知ってる。すごくいいよ,これ。ブルスちゃんがうちの研究室に来てくれて嬉しいよ。」


全てを見透かしたような,レイの言葉を聞いて一瞬,吉田先生の顔が重なった。はっとして我に返ると, 考える間もなく,頭に浮かんだ言葉を口にしていた。


「レイさん,あなたは何者なんですか?先生とはどんなお知り合いで?」


「だいぶ僕に心を開いてくれたみたいだね,ブルスちゃん。最初は大人しい子だなと思ったけど,やっぱり,吉田先生に聞いてた通りの,強気な天才ちゃんみたいだ!」


レイに大好きな吉田先生の雰囲気を感じたことに苛ついて,返答はせずにそっぽを向いて立ち去った。後ろから呼ぶ声が聞こえたが,聞こえないふりをした。いくら吉田先生と関係がある人物でも,早川とは関わりたくなかった。ただの嫉妬だった。レイが戦えて,僕自身は戦えないことが悔しかった。


その後しばらくして,大学に救助隊が到着し,怪我人の救助などでさらに学内は忙しなかった。僕も人々の避難に協力しつつ,吉田先生の姿を探した。吉田先生は僕を大学へ呼んだわけだから,きっとこの大学内にいるだろう,と。先生の安否を確認することと,覚悟を決めた今こそ先生に直接,研究への参加の返事を言いたかった。先生を探しつつ避難指示をしていると,広場の真ん中で人集りができていることに気付いた。よく見ると見覚えのある顔の人物が広場の中心で倒れていた。


「先生!!!」


そこには,腹部から血を流し,虚ろ虚ろと目を泳がす先生の姿があった。流れて地面に広がった先生の赤い血が,静かに広場の土をさらりと滑り,用水路に流れて落ちていった。周りの人がざわざわと集まったり,心配の声が響く中,僕は吉田先生に駆け寄った。何とか意識はあるようだが,この状態のままでは吉田先生は助からないだろう。すかさず,病院に連れて行かなければと思い立ち,鞄に手を伸ばして携帯を取り出した。しかし,吉田先生は震えた手で,僕の携帯の画面を塞いだ。


「ごめんな…。でも,ブル…ス,もう…いいんだよ…。いつか…こうなると…分かって…いた…からね…。」


途切れ途切れの言葉を,一つ一つ大事に聴き,吉田先生をじっと見つめた。


身寄りのなかった僕を拾って,ここまで献身的に育て上げてくれた先生。そして,そんな僕も,今年の誕生日を迎えたら二十歳になる。今日はブルスの好きなすき焼きを食べよう,と言って,出会った頃から変わらない笑顔を浮かべて,家を出ていった吉田先生。

しかし,今ではこんなにも弱々しく,僕の腕の中で苦しんでいる。僕は,吉田先生を失ってしまうかも知れないという恐怖で震えていた。


「ブルス…が…本当の…子供でも…なくても…僕は…君を愛して…いる…から。」


吉田先生は,僕のことをぎゅっと抱きしめ,涙を流しながら,最後にこう言った。


「家族は…血の繋がりが…全てでは…ない…。君が…家族だと呼べば…僕も…あいつも…皆家族に…なるんだ…。」


僕を抱きしめていた先生の腕は,すらりと僕の肩を滑って,地面にぺたりと落ちた。僕は,地面にできたじんわりと広がる血溜まりの匂いなんて,少しも気にならないほど激しく泣いて,そのまま先生に被さるように倒れ込み,僕の意識も途切れた。


――――



そして,あの事件から数週間近く経った。


以前までは,あれほど恐ろしい怪物なんて現れたことはなく,ヒーローは対人間との戦闘が多かった。しかし,例の事件以降,怪物は何度も現れるようになった。政府はあの怪物たちに,人々の心に傷をつけた衝撃の事件であり,人々の「痛み」だとして,「ペインズ」と名付けた。あくまで人間が起こす犯罪に対する対処がメインだったが,最近は対怪物への戦闘が多くなり,レイは僕が渡したイクサスデバイスで戦うようになり,レイは自身のことを「サドネス」と名乗るようになった。サドネスは,巷では最強のヒーローとして称賛されつつも,正体を知ろうとするものや,陰謀論をこじつけて唱えるものなど,様々なものに巻き取られつつも,ペインズと戦い,人々を守っていた。吉田先生の死について考える暇がないほど,僕もレイも忙しくしていた。

レイがペインズ退治に励むのと同様に,僕にも進展があった。正式に吉田先生の研究室に入り,早川レイの後輩であり,サドネスとして戦う先輩をサポートするための武器の開発に努めるようになっていった。


ある日,仕事がひと段落して,吉田先生が研究に没頭していた研究室に訪れた。その研究室の吉田先生がよく使っていた椅子に腰を掛けた。 そして,机の上に乱雑に置かれた先生が書いた論文や使っていた資料や本を眺めて,深く溜め息をついた。大きく深呼吸をしてみたが,胸のあたりの違和感は消えなかった。そのまま,やるせなさに机に突っ伏した。


(どうして僕は戦えないんだ…。)


昔,僕が部屋に籠もりっきりになっていたときに,吉田先生に言われたことを思い出した。


「ブルスは悩む人だね。呼ばれてもいないのに,うちのホームパーティーに来て,僕に向かってヒーローにならせてほしいと直談判するような早川のガキとは大違いだ。君らをちょうど半分にして分けたいくらいだね。」


そう言うと,吉田先生は軽くと笑った。早川レイの父親である早川ソウイチは,吉田先生の親友だという。早川ソウイチは既に亡くなっていて,早川先輩も僕と同じく,両親がいない。早川先輩は今まで,何人もの女性の家に入り浸っていたと聞く。吉田先生はさっきまで作っていた装置の方を指差し,僕に渡すようにくいくいと指を曲げた。


「それ,新しい変身装置なんです。僕は強くなりたい。強くヒーローになりたい。」


全て分かっていたかのように,そうかそうかと頷き,椅子に深く腰を掛け,その僕が作っていた装置をしばらく眺めてこう言った。


「ブルス,僕は君がヒーローに相応しくないだなんて思ってないよ。君もヒーローになれる。どんな形でも,君は世界の,誰かのヒーローになれる子だと思っているよ。」


吉田先生には,手に取るように僕の気持ちが分かるようで,僕が言葉にできなかった感情をすらすらと口で答えてしまった。


「僕は,君がどうヒーローになるのか,とても楽しみなんだよ。」


優しく微笑む吉田先生と,早川先輩の顔が重なって見えた。悔しいけど,あいつは吉田先生に似ている。全てがまるっきり同じとは言えないし,吉田先生の方が大人びているけど,やっぱり似ている。


早川先輩は強くて優しい。あの笑顔も何だか吉田先生に似ているから,見るのも辛くなる。


(やっぱり嫌です,先生。あなたがいてくれないと,僕はどう生きたらいいか分からない…。)


堪らず涙が溢れてきて,止めようと思っても止められなかった。苦しくて,辛くて,忘れようとしても無理だった。そのうちに泣き疲れて眠たくなって,意識を失っていた。


――――


目が覚めると,そこは白い壁と,白い天井に囲まれた部屋だった。白いベッドに寝かせられて,ベッドの脇に置かれた椅子に座っていた男と目が合った。


「おはよう,目ぇ覚めた?」


ベッドの脇に座っていたのはレイだった。僕が起きたことに気が付くと,心配そうに顔を覗き込んできた。


「…ああ,先輩…。」


僕が体を起こそうとすると,レイは僕の肩を押し,まだ起きるな,と僕を止めた。僕はあのあと,しばらく外に出なくなり,連絡しても返事がないことを心配したレイが家へ様子を見に来たところ,倒れている僕を見つけたらしい。食欲が湧かず,生活のリズムが徐々に崩れて,気絶したのかも知れない。


「気になることは山ほどあるだろうが,今は寝ておいた方がいい。退院した後はきっと,お前忙しくなるだろうからな。」


その言葉の今を,何となく理解した。日本のヒーローの戦闘武器の技術の柱を担っていた,吉田先生はもういないんだと,またそう強く感じさせた。そして,その技術を一番近くで学んでいた僕が,きっとこれから先生の意思を継いでいくしかないことも。


「それから,ブルス。」


早川先輩は,僕の手をぎゅっと握り,僕の目をじっと見つめて,もう片方の手で僕の背中をさすった。それから先輩は,僕を抱きしめたままこう言った。


「お前は,一人じゃないからな。」


しばらく僕らは抱き合ったままだった。先輩の優しい心音が聞こえてきそうなほど,ぎゅっと強く抱き締めてくれた。先輩に抱き締められているうちに,涙がぽろぽろと流れ出てきた。吉田先生を失ってしまったという気持ちは消えないし,今の自分では,これから先の不安に立ち向かえそうもない。しかし,先輩が今,一時的にでもそういうものたちから耳を塞いでくれたような気がする。先輩だって本当は辛いはずなのに。


「なあ,ブルス。今の俺は,昔の自分と比べて色々変わったと思ってたんだよ。見た目も,喋り方も。でも,実はあんまり変わってない。」


先輩の抱き締める力が更に強まり,僕の背中をさする手が止まった。

僕と先輩が出会ってから,先輩は女遊びをすることが減った。先生に諭されて変わったのかと思っていたけど,先輩自身が望んで変えていたことを初めて知った。


「でも,強くなりたいんだ。ブルスと同じだよ。」


先輩の話す声は,少し潤んでいた。先輩は泣いていた。耳元で漏れる先輩の声は震えていた。先輩は,僕を安心させるためだけに抱き締めてくれた訳じゃない。自分も安心したかったんだ。僕はそれに気付いてから,先輩の背中に手を伸ばして,先輩の背中をゆっくりと撫でた。すると,先輩のうわずって堪えていた声が,ぶわっと滝のように流れた。僕は先輩のことを,一人でひょろっと生きてきて,何でもこなして眩しく笑っている完璧な人だと思っていた。しかし,この人も所詮人で,弱い所もあるのだと知った。


「…先輩も休んで下さいね。」


先輩は,僕からゆっくりと体を放し,ベッドの端に腰掛けると,目元を指で軽く払って涙を拭った。しかし,先輩はベッドから立ち上がり,病室の扉の前に向かって歩いていった。病室を出ていこうとする先輩の背中を見たとき,何か声をかけようとしたが,何も言葉が出てこなかった。そしてなぜか,あのときの,オープンキャンパスで戦っていたあのヒーローの姿を思い出した。悲しみの力を使って戦っていた先輩。イクサスデバイスは,その人が人生で最も感じた感情に共鳴して戦うという仕組みであった。つまり,先輩が,人生の中で最も感じた感情は,悲しみ。


翌日,僕は無事退院して,吉田先生と暮らしていたあの家に戻った。玄関の扉を開けると,しんとした空気が部屋に漂っていた。それ当然だ。もうこの家に家主はいないんだから。

しかし,最近の先輩は,あのときの姿は見る影もなく,また女の子をナンパして,色んな女の子の家に入り浸るといった,出会う以前の姿に戻ってしまった。ヒーロー活動の方も今はもうやめてしまっているようだった。かっこよかった先輩がすっかり変わってしまっても,その理由は何となく分かっていた。先輩は,先生が死んでしまって清々したからまた女の子に手を出し始めたわけではない,と思う。あの人のことだから,僕や吉田先生のことを考えすぎて,先輩自身が壊れてしまったのだと思う。あの人の闇は,僕が思うよりもずっと重い。


――――


ある日,僕は珍しく大学にやって来た。もちろん,向かう先はあの研究室。がらっと扉を引くと,そこにはあの男の背中があった。話したいことは山ほどある。ぶつけたい怒りも沢山ある。しかし,そういう言葉は今は飲み込んで,できるだけ優しい声でその背中に声をかけた。


「ねえ,先輩。」


そう声をかけても,僕の方に振り向いてはくれなかった。研究室の中は吉田先生の私物や,参考書,本,論文なんかで溢れていたのに,今ではそれも全て段ボールにしまわれてしまった。


「辛いのも,苦しいのも分かります。でも,先輩の信念ごと,曲げちゃだめじゃないですか。強くなりたいんだって,僕と同じだって。」


僕は,ずっともやもやと胸に漂っていた言葉や気持ちを先輩に思いっきりぶつけた。帰ってきてほしい,僕が憧れたあの先輩に。僕が尊敬した吉田先生が認めた男のこれからをもっと見せてほしい。


「なあ,ブルス。俺はさ,ただヒーローに憧れることしかできない弱虫なんだよ。サドネスは,色んな弱いやつを助けてきて,ヒーローになった。だけど,俺は昔,吉田先生に救ってもらわないと生きていけない弱虫だった。お前にも救われてた。」


先輩は,椅子にグッと腰をかけ,眉毛をグッと歪ませた。涙を堪えているような表情だった。しかし,先輩はすぐにいつものあの笑顔に戻った。まだ何か,先輩の中に何かがつっかえているようにも感じたが,そう疑問に思う僕を気にせず,先輩は僕の目を見てこう言った。


「女の子といるのが好きだし,かっこよく戦うヒーローでいる自分も好き。吉田先生にもブルスにも,誇れる俺でいるよ。」


振り切ったような顔をした先輩の顔を見て,少し安心した。そして,先輩の座っていた椅子の前に,「あれ」をそっと置いた。


「イクサスデバイス…,任せろ。」


先輩はいつもの笑顔で笑い,イクサスデバイスを手に取った。その様子を見てホッとしたとき,僕の胸にずっとつっかえていた何かが取れたような気がした。

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