第3話 傘と引き換えに

 梅雨にはまだ早い季節だが、一昨日から続く雨は降り止む気配を感じさせない。

 ズボンの裾だけで無く、今日という日のやる気までもが少しずつ湿っていくような感覚がする。そんなことを思いながら、紺色の傘を持った男は一人、屋根も無いバス停に立っていた。


 子供の頃は雨が好きだった。普段履かない長靴や、いつもの道に急に現れるカエルやカタツムリ。すべてが不思議で特別な日に感じていた。

 いつからか長靴にもカエルにも興味がなくなり、雨はただ濡れて億劫なだけになってしまった。




 そんなことをぼーっと考えていた時、傘の縁からピンクの物体がぬーっと覗き込んできた。

 わっと驚くと、そこにはピンクのレインコートを被った例の女性が立っていた。


「雨だね」


「雨ですね」


「元気無いじゃないか」


「雨だと気が滅入りませんか」


「ふふふ。それが何故だか教えてあげようか」


 女は、いたずらにニヤリと笑う。男はまたいつもの適当情報だろうと思った。


「それはね。服が濡れて体に張り付いて気持ち悪かったり、傘の持ち運びが煩わしかったり、公共交通機関が混むからだよ」


「…確かに」


 まさかのその通り過ぎる情報だった。正しいことも言うのかと男は驚いていた。


「それを回避するにはどうしたらいいと思う?」


「さあ?」


 女の格好から何となく予想はついていたが、敢えて適当にはぐらかした。何となくレインコートを自慢されるのがしゃくだったのかもしれない。


「それは家を出ないことさ」


「え? そっちですか?」


「そっちって何だよ。気取った顔で"さあ"って言ってたくせに答えを持っていたのか」


 女は、おどけた顔でモノマネしてきたり、怒った顔をしたりと表情がせわしない。

 男はそんな女の表情に免じて素直に答えた。


「あなたがレインコート着てるからそれが答えかなって思ったんですよ」


 その瞬間、女は得意げな顔で微笑んだ。


「君、いい着眼点をしているね。けどね、レインコートでは先の問題は回避できないのだよ」


 女は右手の人差し指をピンと立てた。


「一つ、レインコートは通気性が悪いので汗で余計にベタベタする」


 追加で中指も立てる。


「二つ、濡れたレインコートの持ち運びは傘ぐらい煩わしい」


 最後に薬指を立てた。


「三つ、公共交通機関はどのみち混んでる」


「そりゃそうだ」


 今日は正しいことを言う日なのだろうかと男は思っていた。もしかすると雨だと彼女もまともになるのかもしれない。もしくは水に濡れると……?




「でもね、私はそれでも君にレインコートを勧めたいんだ」


「どうしてですか。僕も使い勝手が悪いと思うのであまり使う気が起きないのですが」


「レインコートはさ……」


 そう言いながら女は車道の水溜りに一歩踏み出した。レインコートと同じピンク色の長靴に弾き出された雨水が、雨音の中でもパシャっと音をたてる。

 女は二歩三歩と車道を歩き、男の方を振り返った。


 両手を横に広げて空から降る雨を見上げて少し大きな声で言った。




「何か開き直ってる感あるじゃん!」


 開き直ってる感。確かに言われるとちょっとわかる気がした。ちまちまとズボンの裾や肩やカバンが濡れることを気にしている傘よりも、雨を受け入れる姿勢のレインコートの方が清々しく思える。

 そして何よりも、目の前で雨を受け入れる女性が楽しそうで、そして美しく見えた。




 少し遠くに車のライトが見えた。


「ほら、危ないですよ」


 自然と差し伸べた手を彼女は掴み、小さく跳ねるように歩道に戻ってきた。初めて触れた彼女の手は細く、冷たく、湿っていた。


「さあ、レインコートの魅力はわかったでしょう」


「はい、何となく伝わりました」


 女は得意の満足げな笑みを浮かべて男を見た。


「じゃあ、傘を閉じて雨を受け入れてみようか」


「いや、僕レインコート着てないんですよ」


「まったく! 相変わらず君は細かい男だなぁ。どうせレーズンパンを食べるときに何個レーズンが入っていたか数えてるんだろう?」


 男はドキリとした。


「そ、そんなことしませんよ! それにレインコート着てるか着てないかは細かくないですし」




 遠くの方から見慣れたバスが接近してくるのが見えた。男は、ビチョ濡れのまま乗ることは無いとは思いつつも、念の為聞いてみた。


「あの、今日はバスに乗るんですか?」


「ふふふ、安心したまえ。いくら空いているとはいえ、流石にビチョ濡れのままバスには乗らないよ」


「そうですか」


 男はそれを聞いて色々な意味で安心した。と、同時にこの女性は何故このバス停に来るのか不思議にも思った。


 道路の水をかき分け泳ぐように、バスが目の前に流れてくる。


「それでは」


「おう、いってらっしゃい」


 女は顔の横で小さく手を振る。

 何ともむず痒い気持ちになりながら男はバスに乗り込む。


「あっ!」


 ICカードをタッチした瞬間に後ろから女の声が聞こえ、思わず振り返る。


「傘!」


 そう言って手を出す女に、咄嗟に持っていた傘を手渡した。

 次の瞬間にブザーと共にバスの扉が閉められた。


「あっ……」


 バスの入り口の近くで立ち尽くしたままの男を気にすることもなく、バスは発車する。

 男が窓から外を見ると、紺色の傘を指しながらピンクのレインコートを着た人物が、楽しげに歩いているのが見えた。




(何で傘取られたんだ……)

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