月華剣客

川野 毬藻

第一部『幽々の垣間』

第1話 「落ち武者の噂」




 カラン......カラン......




 ___...煌煌と夜闇を照らす望月の空の下。夜風でさざめく葉音に紛れて訥々とつとつと侘びしく鳴る下駄の音は、いつ何時なんどきだって一人である。その音を鳴らしている正体の姿を直に見た者は、皆口を揃えてこう言った。『あれは、落ち武者の亡霊だ。』と...___




 「はぁ...はぁ...っ、めぇん!!」素早く踏み込んだ勢いに乗り、固い竹刀は大きな弧を描くようにしなりながら直下で振り下ろされる。対戦相手の緩い守りをスルリと抜け、振られた竹刀は被っていた面の芯をしっかりと捉えていた。私はサッと赤い旗を上げて声高に言う。

「面一本!この勝負、田淵たぶち先輩の勝ちです。」竹刀で打たれた方の男性は床に尻もちを突きながら感嘆の声を漏らし、少し不満そうに言った。


 「ヒェ〜!今日も負けたぁ〜!これで3日連続男が床掃除じゃないすか...っていうか、マジで今の踏み込みは速すぎてビビっちゃうっすよ!うわ〜...俺も早く田淵先輩みたいに強くなりてぇ〜なぁ〜...」その対面で自分の面を外し、颯爽と汗を拭く二年生の田淵先輩はニコッと優しく微笑んでその男に言う。

「アハハ...いっぱい練習していれば、強くなるのはそんなに難しくないよ。剣道は日々の研鑽と努力、自分の気持ちが最も如実に現れる武道なんだもの。地道に努力すれば、きっと鈴森すずもりくんは私なんかよりずっと強くなれるよ。」

「え...ま、マジっすか?そ...それなら掃除も地道に頑張ろうかな?エヘヘ...」鈴森は鼻の下を伸ばして照れながら言う。すると試合場の横で見ていた三年生の瀬戸せと先輩が大きな声で鈴森に言った。


 「ワハハ!こりゃまた綺麗に一本取られたなぁ!まぁまぁしょうが無いって鈴森。でも、お前は剣道の腕よりも酒癖を良くしたほうが良いんじゃないか?この前だって彼女とご飯を食べに行ったら、酒に酔ったお前のあられもない痴態を見て彼女が泣いて逃げたそうじゃないか!!」私と田淵先輩はそれを聞いてピクリと動きを止める。一方言われた鈴森は顔を真っ赤にし、焦った様子で瀬戸先輩にそそくさと駆け寄りヒソヒソ声で話す。

「ちょ、ちょっと瀬戸先輩!待って下さいよ...そ...それは僕達二人の絆で結んだ漢の内緒って、俺言ったっすよね!?な、何大々的にバラしてんすか!!」

「あ、そうだったか?ワハハ!すまんな鈴森。俺な...実は口が結構軽いんだ。ワハハ!」


 「...はぁ...ったく、朝から男達はホント...」私がそのやり取りを見て男たちの性根にやれやれと呆れていると、胴などの道具を外した田淵先輩が歩きながら私に話しかけてきた。

正華せいかちゃん、お疲れ様。何度も審判やってくれてありがとうね!...あ、そういえば、もう脚の怪我は治ってるの?」田淵先輩に訊ねられたので、私は自分の右脚を何度か上げ下げしながら自慢げに高らかと答えた。

「はい!もう十分に治りましたよ田淵先輩!この前医者に相談した感じ、リハビリしながら練習をやれば、来月末の東京都学生剣道選手権大会には問題なく出れるそうです。」すると田淵先輩はまた優しく微笑んで私に言った。

「ホント!?はぁ良かった〜...正華ちゃんが出れなかったら、ウチの剣道部の女子は人数不足で団体戦に出れなかったからね。安心安心。」そうして暫くするとジャージ姿でやってきた顧問の三上コーチが私達に言った。

「...お〜い、もう朝練の時間は終わりだぞ。早く撤収して授業受けに行けよー。」私は自分の竹刀袋と勉強道具が入ったリュックサックを背中に背負い込んで、小走りで直ぐにその武道場をあとにした。




 ...私の名前は菊池正華。今は東京の多摩市にある私立多摩金城かねしろ大学に入学して、日々歴史の勉強と剣道に勤しんでいる。静岡の田舎から上京して近くのアパートで今年の春から一人暮らしを始めてもう半年が経ち、今では仲の良い先輩や同期がいてとても楽しいキャンパスライフを送っている。そんな、ごくごく普通の大学女子だ。


 大学内の武道場から暫く歩くと、丁度最寄りの京王永山駅が通りにある正門からやって来た大学生と合流する道に出る。私が両手を上げて大きく欠伸をしながらその人混みに混じって歩いていると、後ろから誰かが声をかけながら背中を軽くタッチしてきた。

「おっはよ〜正華!...あっ、その感じ...今日も剣道の朝練だったの?正華は相変わらず大変だねぇ〜。私、朝早くから剣道の練習なんて絶っ対に出来ないわー。」私を朝一から大きな声で呼んできたこの彼女の名は柴田美優しばた みゆ。私と同じ史学科の一年生で、一番最初にこの大学で出来た今でも数少ない私の友人だ。私は彼女の横で再び欠伸をし、眠たそうにしながらも話しかける。


 「美優ちゃん、おはよう...あ、突然であれなんだけどさ。今日の授業って、確か日本の怪異伝承とか地域伝承とかについての講座だったよね?」

「え?そうだけど、それがどうかしたの?」美優ちゃんが少しズレたメガネを戻しながら私に訊ねてくる。私は首を傾げて怪訝そうに切り出す。

「そうなのか...いや、好きな人にはちょっと申し訳ないけどさ?私ああいうの、ちっとも面白さが分からないんだよね。確か美優ちゃんって、そういうの結構好きだったよね。その...オカルト的なやつ?あれって何がそんなに面白いの?その...魅力みたいな...」私が目をこすりながらうだうだと言うと、美優ちゃんはいつもの眠たそうな細目をカッと見開いて話しだした。


 「え!うん、めっちゃ好き!!その...妖怪とか幽霊とか怪異とかってさ、今の科学じゃどうやっても説明出来ない不明な存在な訳じゃん?もしかしたら彼らは、まだ私達の知り得ない、未知の世界を知ってるかもしれない...そういう想像が無限に膨らむってのが、オカルトチックな物の一番いいところなんだよね〜!」彼女は早口で私に熱の入ったオカルト談義をした。実際、彼女はこの大学でオカルト研究同好会なる物に所属していて、そういった話になるとすぐに火がついてしまうのだ。いつもの流れでまた長話になるだろうと呆れてボーっとしていると、美優ちゃんは私の目を見て察したように言った。


 「っ、あ〜!さては正華、いつもの長話だって思って一ミリも興味ないな?それなら、そんなオカルトに無関心な正華でもめちゃめちゃ興味が湧くような噂を一つ教えてあげようかな!」私はそれに眉をひそめ、口を尖らせつつ言った。

「え〜?別に良いよ良いよ。そんなの端っから興味ないし。」

「え〜?聞くだけタダだし良いじゃ〜ん!まだ9月だけど暑いでしょ?だから少しだけ涼しくなるような幽霊のお話だよ。小耳に挟むぐらいでいいから~!ね?ね?」美優ちゃんは真剣な表情を浮かべた顔で眼前に迫る。私はその気迫に押されて、仕方ないかと頷いて一応聞くことにした。彼女は喉をコホンと鳴らして、私の耳元で囁くような声量で語りだす。


「...正華。多摩川に彷徨う落ち武者の霊っていう噂、知ってる?満月が昇る日の夜、多摩川の横の林道とかを歩いていると、風に吹かれる草木の音に紛れて何処からか『カラン...カラン...』って下駄の音が聞こえてくるんだって。その音の方向をサッと見ると、そこには死んだ落ち武者の霊が、日本刀を手に持ちながら向かって歩いてくるんだってさ。出会った人の中には、その幽霊に走って追いかけられたりした人もいるんだよ。一説には、死んだ時のやり切れない未練がまだ刀を持って彷徨ってるって言われてるんだ。もしも追いつかれたら...その日本刀でザクッと斬りつけられてしまうかもしれない...っていう噂だよ。」全てを話し終えると美優ちゃんは私の顔をジッと見つめる。私は唖然として呟く。

「...えっ、終わり?」

「うん、終わり。」私と美優ちゃんは互いを見合わせて暫く口を噤んだが、先に美優ちゃんが吹き出して笑う。


 「...プッ!アハハ!いや〜面白いよね!これ、剣道に熱心な正華にはかなり持ってこいな噂話だと思うんだよね〜!聞いてみてどうだった?」美優ちゃんは顔を上げて、自信満々そうにニヤけながら私に言った。私は深く大きなため息を一回ついてから彼女に言う。

「はぁ...ちょっと真面目に聞いてて損したわ。きっと酔っ払いとか夜間ランナーを見間違えてただけでしょ?そもそもそんな死んだ落ち武者の幽霊なんて、この世にいるわけないじゃん。私は幽霊なんて微塵も信じちゃいないよ。第一、仮にこの世に幽霊が居たとしても、私には見えるわけないだろうし...あ、ほら、早く行かないと一限目が始まっちゃう!急がないと!」私は大学の建物の外壁に掛かっている大時計を見てからゆっくりと教室へ走り出した。美優ちゃんは少ししょんぼりとした表情をしながら一緒に走った。

「はぁ...まぁ信じてくれないとは薄々思ってたけどさ...あ、ちょっと待ってよ〜!!」

 

 ...そうして何気ない日常は、今日もいつものように何もなく進んでいった。あのが、起こるまでは...

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