音楽評論誌『王都カランカオーの風に乗せて』164号(7月3日刊行)
(ヘッドラインニュース)
『埋められた傑作の発見!マーラーの『交響曲第九番』の世界初演!』
サレンジア伯爵スタンニスラウさまの屋敷に恩師マーラーが残した大量の資料が発見された、というのがことの発端でした。本誌の取材によると、資料の中からこの『交響曲第九番』の手稿を見つけたとき、「心臓が止まるかと思った」とスタンニスラウさまが仰っいました。この作品の扱いは極めてデリケートな問題だからスタンニスラウさまも慎重にならざるを得ません。「非常に迷ったがやはり公表すべきと考えた」とのことです。
このマーラーの『第九番』の実際の作曲時期は不明だが、『第四番』が発表されたのは作曲禁止令が設けた猶予期間の最後ということを考慮すると、ほぼ確実に作曲禁止令違反の作品となります。そんな作品が公の場で堂々と演奏されるのは極めて異例な出来事です。だが作曲禁止令違反の作品を演奏するだけでは罪を問われません。作曲者のマーラーはもうお亡くなりになって、新大陸にいる彼の家族も当局が処罰できません。こんな特殊な条件が重なってやっと実現したコンサートであります。
この歴史的なイベントに、普段はコンサートの場で見ないような錚々たる面子が参加しました。ウェンディマール王アレクフスキ陛下を始め、ゲルマニクス、アキエタニア、マツァール<*1>三国の大使、モラウーヴァ公爵さま、サンドミネッツ公爵さまなど、王都カランカオー在住の貴人が多く出席しました。ウェンディマール近隣国からはバイアルム大公さま、スターインマーク大公さまと自由都市プラーウガ市長のお姿が見えました。帝都アーケインから遠路はるばるいらっしゃったのはカーブル帝国法務長官、ゲオルギアス騎士団長、そしてディクシア国家連合<*2>の大使ジョージアンさま。ジョージアンさまはニュー・アングリア在住のマーラーの家族と連絡を取って、彼らは『交響曲第九番』について全く存知していないから、この『第九番』は本当にマーラーの作品なのかと先日懐疑的な見解を発表しました。本日のコンサートの後、ジョージアンさまは本誌の取材で「まだ確信できないが、これは確かに私が観たマーラーとよく似ている。例え誰かの偽作でも、とても偉大な作品に違いない」と仰っいました。
コンサートの前半はアリアさまが指揮する『亡き友を想うエレジー』。この曲も今回マーラーの資料の中から発見されましたが、クリューフィーネ家の意向によって作曲者不明の作品として発表されました。専門家の見解でもマーラーの作風と明らかに違う、おそらくマーラーに師事していた誰かの習作、もしくはマーラーの指揮者としての活動中で集めた曲だと思われます。ノスタルジックで寂しい想いがあふれるこの曲は、アリアさまが非常に気に入ったから自分の担当曲に選んだと本誌の取材で明らかになりました。本日のプログラムにはアリアさまによる、『亡き友を想うエレジー』へのコメントが載せていて、チャイコフスキーの二つの作品との関係性などの解説も含まれています。
後半はスタンニスラウさまによるマーラーの『交響曲第九番』。演奏時間80分近いこの超大作は、様々の意味で世間を驚かせました。『交響曲第四番』の発表と同時に筆を置くと公言したマーラーが、まさか家族にまで内緒で作曲活動を続けていたとは。曲に声楽が含まれていないのも予想外<*3>でした。『第二番』と『第三番』に挑戦的な試みがいくつもあったのに、今回の『第九番』はそんなわかりやすい革新的なところがないように見えます。しかし細部を見ると大胆な技法が作中に散見されます。この作品は「極めて洗練で先進的、我々がよく知っているマーラーの作品から正しく発展したあるべき姿」と、ケセミネウスさんを始めとする評論家の団体がそう主張しています。
本日演奏された『交響曲第九番』にはロマン時期晩期らしいエモーショナルの一面がありながら、それぞれの楽章で違う風貌を見せるドラマチックな一面もあります。人の死を強く意識させる曲の終わりに、スタンニスラウさまとSWPOは動かずに音がない空白を作りました。それはおそらく楽曲の最後で表現した死を追悼するための時間。初見の楽曲を振り返るための時間とも言われます。
このインパクトがある大作の出版権を巡って、既に国内外の多数の商会が動き出しました。ゲルマニクスは作曲禁止令の本丸だからその動きが若干鈍い、今の所はクナスブチ商会を中心に結成した国内とアキエタニアの出版商連合が一歩リードしています。楽譜を発見したクリューフィーネ家は原本を管理する権利だけ保持、印税の半分をマーラーの家族に、他半分は寄付すると発表しました。
<*1>この世界のハンガリーのことです。マーラーはブダペスト王立歌劇場の監督を務め、劇場の黄金時代を築きました。
<*2>この世界の新大陸北部を統治している国。わかりやすく言えば地球のアメリカ相当です。
<*3>マーラーの『第二番』、『第三番』、『第四番』は全部声楽つきだから、『第四番』までしか存在しないこの世界ではマーラーの交響曲に声楽があるというのが常識です。
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(どうしても反論から入りたがる、ケセミネウスの理詰めコーナー)
今週のSWPOのコンサートは音楽の歴史上に大きな意味を持つ出来事になるだろう。僕と同じく作曲禁止令そのものに疑問を感じる人は少なくないと思うが、その話は一旦おいておこう。法的観点から見ても、スタンニスラウ氏もアリア氏もSWPOと関連者たちも、誰一人法を犯していないからだ。作曲者に責任を問うことができないから演奏の自由を侵害するのは、ただの八つ当たりに過ぎない。「今回はスタンニスラウ氏のような大物だから罪を問われずに済んだ」、と思うのはそもそも間違っている。作曲禁止令違反の作品であっても、誰にも自由に演奏する権利がある。少なくとも現行の法律ではそれに関する制限は一切ないから。
アリア氏が気に入ったと言うあの『亡き友を想うエレジー』、最初はなぜあんな作曲者不明の小品をわざわざやるのがわからなかった。だが終わってから見ると、確かにあれはこのコンサートに最適な選択だと言える。マーラーの『第九番』のスケールを考慮するとあれくらいの長さがちょうどいい。楽曲のテーマも共通している。アリア氏のコメント通り、『亡き友を想うエレジー』に非常にチャイコフスキーらしい所がある。おそらくあの曲がマーラーが集めた、無名な作曲者がチャイコフスキーの作風を倣って書いた曲だと僕が思う。
マーラーの『交響曲第九番』、実は初演より前に僕が譜面を一通り見させてもらった。それもマーラーが自ら書いた手稿<*4>。スタンニスラウ氏はあの手稿を見てほぼ確信したが、事が事だから決断する前に僕にも鑑定を依頼した。筆跡と記譜の癖から僕はこれが間違いなく本物だと断定した。確かに技法とスタイルは僕達が知るマーラーから若干変わったが、『第四番』から『第九番』までの空白があると考えたらその変化にも納得がいく。和声と楽器運用がここまで緻密で大胆になったのも、その空白の時間で磨き上げたんだろう。
この『第九番』に目新しい要素が意外と少ない、と思う人が多いみたいが、とんでもない誤解なんだ。第一楽章の場面切り替えで見せた表現力と斬新な音色。第二楽章が三種類の舞曲で構成され、何度も速度変化を経る入り組んだ構造。第三楽章には多彩な楽器を活かせる豊富な創造力。第四楽章は二つのモチーフを丁寧に練り上げて恐ろしい完成度にまで到達した。それぞれの楽章に見所満載だ。今の所語れるのはこれくらいか。これほど壮大な傑作だから、僕もまだまだ研究し始めたばかり。今後は進捗がある都度報告するつもりだ。
ちなみに、この曲の番号を『第五番』に変更したほうがいいではないかと、僕も最初そう考えた。スタンニスラウ氏から聞いた話では、曲の番号を元の『第九番』のままで発表したのは、他の交響曲の発見を諦めていないから。今回見つけた資料は膨大でまだ整理が終わっていない。もしかして中から他の未公表作品も出てくるかもしれない。今から楽しみで仕方がない。
<*4>アリアの能力で作ったコピーです。(NO.2-3 能力検証に参照)
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(常に上から目線、些細なミスでも容赦なく叩く、ビュリーアールの辛口コーナー)
この度自分がマーラーの『交響曲第九番』の初演に立ち会うことができて、誠に光栄に思っている。マーラーの最後の作品と銘打ったこの『第九番』は、確かに「終わり」を強く意識させる一曲だ。曲の最後で演奏せず、間を引き伸ばすのもそれを強調するためだろう。自分はそういうやり方は好きではないが、そうしたくなるのはわかるし、とても効果的のも認めざるを得ない。
初演を観ることができたのはほんの一握りの人間、なのでここで曲の詳細や技術面の話をしても意味はないだろう。今回は観れなかった人向けに曲の紹介として、自分なりに感じたものを話そう。自分が知っているマーラーという作曲者はいつもオーケストラの限界に挑もうとしていた。同じ志を抱く人は多いが、マーラーは同時にトップクラスの指揮者でもあるから、同じ課題を他の人よりも現実的に、そして独特な観点で挑んでいた。彼の挑戦が作曲禁止令によって道半ばで終わったことに、自分は常に惜しんでいる。今夜の『第九番』を観て、自分の見方は正しいと確信した。マーラーが生涯をかけて目指した終着点はまさにそこにあった<*5>。確かにベートーヴェンを超えることは誰にもできないかもしれない。でもこの『第九番』を見るとどうしても考えてしまう。もし作曲禁止令がなかったら、作曲者たちは今でも不可能に挑み続き、この『第九番』のように自分なりの答えを探しているかもしれない。
今夜の注目がほとんど『交響曲第九番』の方に行くのは仕方ないが、あの『亡き友を想うエレジー』もなかなか興味深い曲。その存在が忘れられるのは非常に惜しいと思う。正直に言うと、アリア嬢がやけに拘った作曲者不明の曲だから、もしかしてあれは実はアリア嬢が書いたものなんじゃないかと、最初自分はそう疑っていた。しかし一度演奏を観ると考えを改めた。曲はシンプルながらも洗練な作り。アリア嬢の年齢なら他に作曲の勉強をしたのは考えづらいし、現行の王立学院音楽科の授業だけであれほどの曲を書けるとは思えない。それにアリア嬢のパフォーマンスから感じる意気込みも違う。作曲者自身の指揮で初演する場合、普通ならもっと客観的な、俯瞰的な見方になる。オーケストレーションを検証する必要もあるから。アリア嬢のように全身全霊をかけて、曲を誰かに捧げるような感じにはならない。まぁ普通に考えればそんな迂闊なことする筈がないし、自分の考え過ぎだった。
<*5>ビュリーアールはマーラーが『第九番』の後も『第10番』の第一楽章をほぼ完成させたのが知らないし、オーケストラ編成規模の限界突破を試みた『第八番』のことも知らないから、そんな発言をしました。
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(音楽評論誌の二人しかいない外国籍ライターの一人、アキエタニア人ジャンショーアの国自慢コーナー)
このウェンディマールにも作曲禁止令に対する明確な反抗が見られて実に嬉しく思う。皆さんも御存知の通り、誇り高い、独立精神を有しているアーティストを輩出しているアキエタニアでは作曲禁止令に対する反発が激しい。ゲルマニクス人皇帝の理不尽な勅令だから、あんな悪法に従う必要もないだろう。この場合、社会の混乱を招くような革命は流石にやり過ぎだが、間違った法律に対して不服従運動やデモンストレーションを起こしてもいいと考えている。今こそ芸術界隈が立ち上がる時。団結一致して固い決意を見せれば、必ずやあの悪法を打ち破れると信じている。(ジャンショーアさまの投稿にはまだ続きがありますが、編集部の判断により掲載する部分はここまでにしました。どうかご了承ください)
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ジャンショーアはこのコラムの掲載後、煽動罪と過去の皇帝への不敬の容疑でゲルマニクスの騎士団に連行され取り調べを受けたが、アキエタニア王立芸術院の声援とアキエタニア国民議会の働きかけによって無罪放免になった。
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