STAY IN BED
うやまゆう
マナス・マグナ
第1話
軍服を着たハイイログマのヴィンチェスター軍曹は、その太い四足で宮殿の廊下をそぞろ歩いていた。大理石の床を爪が叩く軽快な音。その静かなテンポは彼の耳の奥で、バッハのメヌエットとラバーズコンチェルトを行ったり来たりしていた。土木作業員のようなヘルメットには大きな五芒星が描かれていて、紺色で落ち着いた礼服の襟元には、三重矢じりの階級バッヂがぴかぴかに磨きぬかれて光っている。歩くたびに丸い尾が揺れるのは、知性のある熊なら当然の礼儀として、下穿きを履いていないからだ。
ヴィンス(彼は仲間うちからはそう呼ばれている)には悩みが多かった。シエラネバダの山間で暮らしていたころには無かった類の悩みばかりだ。自分を森の王のように思っていた、一本気の畏れ知らずだったころとは、何もかもが違う。かつては縄張りの中にブルーベリーやラズベリーの群生が至る所にあったし、川の中流は何年も彼ひとりの拠点だった。自分の何倍も図体があるヘラジカであっても、そこでは決して自由にさせなかった。しかし、今の彼は妻子持ちで、縄張りは無く、郊外の穏やかな巣穴で暮らしながら年金をもらって生きている。
年々衰えていく筋力と、明晰な思考力。自信や勇気には試す機会が無く、ゆっくりと消耗していく。娘は自分の音楽の趣味を褒めてくれるが、それはただ、零れ落ちていく若さを、土の中から懸命に掘り集めているだけのような気がしてならなかった。
娘。家庭のことを思うと気が滅入ってくる。家庭で演出する自分と、心の奥にいる本当の自分が、まったく別の存在に思えてならない。
妻のサーシャは毛並みが美しい灰色をしていて、目元はつぶらで優しく光り、魚影を決して見逃さないすばしこさがあった。ふくよかで、歯は蜂蜜のように色づいて鋭い。まさに憧れの女性だ――サーシャに憧れないヒグマはいないだろう。ヴィンスが彼女の心を射止められたのは、彼の一生涯でも一・二を争う幸運といえる。なにせ、彼女と会ったころのヴィンスは、森の縄張りも、若者らしい活力も、今のような冷静さも、何もかもを欠いていた。この世界に競争相手がいなかったから、サーシャは没落していたヴィンスでも、辛うじて夫だと認めてくれたのだ。
だがサーシャは昔ながらのヒグマで、夫の家事手伝いを縄張り争いと見做す典型的なタイプだった。他のことならなんでも――食べきれない量の鹿肉を持ち帰ってしまったり、他の雌の臭いが身体についてしまっても――笑って許してくれる。しかし、子育てだけは譲れない一線なのだ。ヴィンスは(自分でも驚いたのだが)子煩悩で、できれば四六時中子供と遊んでいたかったのが、そうしていると妻との関係に支障をきたすのはわかりきっていた。
離婚、という言葉が頭をちらつく。そのたび、メヌエットはラバーズコンチェルトに代わる。本来、狩りを教えるのはサーシャの仕事なのに、自分にもできる、これなら手伝えると思ったのは、たしかに会話以外で子供との接点が欲しいという下心がなかったわけではない。だが、サーシャの負担を減らせるかも、という推測は――完全な大間違いだった。
「だったら、わたしは一生穴倉で寝ていたらいいの? あなたが子供たちに狩りを教えている間、独りで土を掘り返して……」
ヴィンスは足を止めて、洞穴に吹く風のようなため息を吐いた。間接が外れてしまったような空回りばかり。涙の滲んだサーシャの瞳を思い返すと、手当たり次第に木々をなぎ倒して、動物を嬲り殺したいというほの暗い衝動に駆られる。ああ、赤い血の中に溺れて死んでしまえたら! 若いころなら、この本能に従ったかもしれない。しかしヴィンスはシエラネバダにはいない。
ふと顔を上げると、等間隔に続く柱の間から、優雅な中庭が見えた。吹き抜けになった天上から白い光が降り注ぎ、春の午後のような清涼な風が毛先を撫でていった。何度見ても、かけがえのない光景だった。失いたくないものばかりが増えて、それを繋ぎとめる力は無くなっていく。それが老いだというのなら、生き物はなぜ、死ぬべき時に死ねないまま、流れ、流れて……。
「やあ、ヴィンス。ずいぶん久しぶりじゃないか! こんなところでどうしたんだ?」
しゃきっとした高い声が飛び込んできて、頭の中のクラシックが消えた。ニンゲン――アイリス・ニルス・ウィトルキン。
白いカーディガンのボタンは胸元で留まっていて体のラインを隠し、丈はくるぶしのあたりまであった。ボトムスはゆったりと長く、靴はサンダルだ。服と同じ白色の三角帽をつけていなければ魔法使いには見えないが、帽子があると魔法使いにしか見えないという不思議な塩梅だった。
ヴィンスは、ちょっと足を休めていただけですよ、という顔をしながら二足で立ち、声の方を向いた。もう三十歳になるというのに、四足歩行をしているところを見られるのはなんだか気まずかった。特にニンゲン相手なら、なおさらだ。
アイリスは伝説の魔法使い――だったらしい。その分野では誰もが跪いて教えを乞い、一言でも助言をすれば、それが石に刻まれて祀られたような偉大な人物だった、とヴィンスは聞いている。シエラネバダでのヴィンスのようなものだ。彼もその道では師だった。だからといって、ヴィンスはアイリスと特別仲が良いというわけではなかった。優秀な後輩ではあるし、ニンゲンの中でも魔術師は接しやすい部類だが、彼女との会話は気疲れする。
「すこし考えごとをな。きみは?」
「ああ、ぼくも考えごとだよ」アイリスは三角帽を消した。柔らかなプラチナブロンドのおさげが明らかになった。「ここは考えごとにぴったりだ。だろう? いかにもリラックスできるじゃないか。ぼくの足だと、一周でちょうど十二分だしね。四年前に、あのいじらしいドリアードたちと造園したんだよ。特に好きな想い出のひとつさ。ああ、あそこ。松の木を見て! ぼくが植えたんだ、直々にね。大戦の折、ポーランドで切り倒された旧いアカマツの、世界で唯一の子孫だよ。立派なもんだろう」アイリスがそう言って声をかけると、松の木ははにかんでお辞儀した。「はは、相変わらず奥ゆかしいやつだ。ところで松の葉を砂糖水に漬けてしばらく置いておくと、発酵して炭酸飲料になるらしいんだけど、実は試したことはないんだ。よかったら今から準備してみるかい?」
ヴィンスがアイリスと会話をしたくないのは(気持ちの沈んでいる時はとくに)、彼女のこういうところのせいだった。うまく言えないが、どうも本筋とは違うことをぺらぺら喋っているような気がしてならない。何が本筋ということもないのだが。
「遠慮しておくよ」とヴィンスは物静かに言った。「甘い飲み物は癖になってしまうからな」
「気分転換にはちょうど良いと思うけれどねえ?」
「気を抜くと、そこからすべてが駄目になるんだ。一匹の死骸が池を腐らせるようなものだ」
アイリスが何かを言いかけるよりはやく、ヴィンスはこほんと唸って会話を終わらせた。熊の空咳というのは("ブヴォォ"という感じ)いつでもこれっぽっちも冗談めいて聞こえないことを彼は知らなかった。人間にとっては、なにか根源的な恐怖を喚起してやまない不安な響きに満ちているのだ。アイリスは――ほんの一瞬のことだが――反射的に唇を結んで、目を瞑り、眉をめいっぱい
「ところで、眞人殿はどこだ?」ヴィンスは思い出したかのように言った。本当はずっと、この質問をする機会をうかがっていたのだが。「実は、相談があって探しているのだが……この辺りもずいぶん様変わりしていて、寝室を見つけられないんだ」
アイリスはわれに返った。
「たぶん、
彼女が目を細め、さらりと言ったその場所に、ヴィンスは心当たりが無かった。
その様子を見たアイリスは、
「ああ、きみが郊外に移り住むようになってから新しくできた場所だ。とにかくたくさんの女の子を押し込めてある、一種のプレイルームってところかな。今は、寝室もあそこに置いてあるよ」
「そうだったのか」ヴィンスは親戚の気まずい話を聞いたような心持ちになった。とはいえ、眞人殿もそろそろ年頃だろうし、雌を多く娶るというのは大抵の雄として立派なことだが、しかし、ニンゲンにもそのような文化があるものだろうか……。
四足で歩いている自分の目線と、ほとんど変わらない身長をしていたころの眞人の姿をヴィンスは思い出した。
最後に会った時はどんな顔をしていたのかも思い出せない。
「ぼくがハーレムまで案内しよう」アイリスが請け合った。「ちょうど良かったよ。きみにはインパクトがあるからね」
アイリスの言っていることがわからず、ヴィンスは小首を傾げた。
噴水のある前庭を抜け、ステンドグラスに照らされた大きな階段を上り、壺を割らないように気を付けながら、ヴィンスは狭く洗練された廊下を進んだ。アイリスがその部屋に続く扉を開く前から、甲高い笑い声の多重奏がうっすらと聞こえてきていた。
いくつもの照明が点いていて、まるで部屋そのものが光っているようだった。布団のように分厚いカーテンは閉まっていたが、採光の必要が無かった。太陽の紋章が描かれた広い絨毯の中央に、一個の寝台が置いてあるのがヴィンスには見えた。まるでお姫様が眠るような天蓋つきのキングサイズである。
二十人以上の女性がほとんどスクラムを組むくらい密集して、ひとつのゲームの趨勢を見守っていた。
「
「だめ、ツーカードだわ」赤い髪の少女がぶっきらぼうに言ってカードをひっくり返す。
「うぅ……降りたい……」金髪の少女がそう言うと、その左右で覗きこんでいる女の子たちがやいのやいのと「降りるのはだめ」と面白そうに囃し立てた。「ワンペアです……」
「えーっ、うそ⁉」ポニーテールの少女が口を大開きにして、がっくしと肩を落とした。
オーッと興奮の声が上がる。
「
ポニーテールの少女は唇を尖らせながら、「はいはい、ブタですよ」
ストレートになりかかったカードの束が明らかになると、集団はいっそう盛り上がって部屋を揺らさんばかりの喝采を上げた。「
「さあ、これで全員一敗したな? 勝負はここから、どぇ、え、熊?」
「キャー」鼓膜が張り裂けそうな叫び声の連鎖。
高まったボルテージは瞬時にパニックに変じた。彼女たちは、自分が実際にいかなる脅威に晒されているのかを知る機会は無かった――逃げなければならない、という強烈な不安に脳髄を殴られ、それに従うほかなかったのだ。少女たちは蜘蛛の子を散らしたように四方八方に走り出し――そしてその先々で、霞のごとく消え去っていった。いや、彼女たちは本当に幻だったのだ。
誰かが盾の代わりに掴んでいたクッションがぼすんと床に落ちるころには、その部屋はしんと静まり返っていた。一頭の熊と、彼のヘルメットを小脇に抱えた白い魔女と、ベッドの下から飛び出した、すね毛のある細い脚が二本。
眞人はさっと脚を引っ込めて、それから数秒後、ヤドカリのように注意深く顔を出した。
自分の存在が恐怖の元になってしまったことで切ない想いをしていたヴィンスは、空気を和らげるつもりでこほんと空咳を打った。
「ひいいいい……」
眞人はベッドの下に引っ込んだ。
アイリスはぶるぶると首を左右に振ってわれに返ると、今度は人間らしい空咳をした。「うおっほん」
「――アイリス? おまえなのか?」眞人は囁くように言った。「く、熊だ! 熊がいるぞ! ぼくはちょっと取り込み中だ! おまえが追い払ってくれ!」
「おやすみ中失礼するよ。すこし話したくてね」
考え込むように黙っていた眞人だったが、やがて全身を出すと――上裸に青い短パンで、やせ気味だが血色は良い――管のついた蒸留器のようなもので身体を支えながら立ち上がった。そして大人しく四足で立っているヴィンスを見て、それからアイリスを見つめる。彼は不機嫌そうに眉をひそめていた。「まったく、やってくれたな! わかってるのか? 一からあの人数を作り直すのは大変なんだぞ!」
「こうでもしないと、話を聞いてもくれないじゃないか」
「いつも言ってるだろ。おまえも脱衣ポーカーに参加して、勝ったら言うことを聞いてやる。もちろん、そのためにはおまえのその服の中身をデザインする必要があるけど……」
「すけべにもほどがあるよ、眞人くん」アイリスはげんなりした。
眞人は地面でとぐろを巻いている管を拾い上げると、笛のようになっている先端を口につけて、中の煙を吸い込んだ。フーッと煙を吹き出して、それで人心地ついたようだった。「それで、その熊は?」言った後で、だめ押しにもう一度吸う。
「――眞人殿、わたしは……」
「うおっ⁉ ゲホッゲホッ……熊が喋った⁉ ゴホ……」
今吐き出した分を取り戻すように、眞人は目を見開きながら再び煙を吸い込む。
「ヴィンチェスター軍曹だよ」
アイリスはそう言うと、星の印章が刻まれたヘルメットをヴィンスに被せた。ヴィンスはゆっくりと二足で立ち上がり、少しでもわかりやすいように、敬礼の仕草をした。眞人は一瞬、その振り上げられた腕で殴殺されるのかと身構えたが――
不意にすべての合点がいって、眞人は吸引チューブを投げ捨てた。そしてヴィンスのもとに駆け寄ると、そのふくよかな腹に力いっぱい抱擁し、くぐもったため息を吐いたのだった。ヴィンスは――忘れられていたわけではなかったのだという安心とともに、息子や娘にするように、ほとんど触れるか触れないかという力で抱き返した。それでも、熊の力は人間には手厚く感じた。
「ああ、懐かしい、懐かしいなあ」眞人は何度かそう繰り返して、しばらく制服の中に顔をうずめていた。それからしばらくして顔を上げ、
「で……、またどうしたんだ、ヴィンス。おまえ、今は奥さんと暮らしてるんじゃなかったのか? 森での暮らしに飽きたのか? 結婚は墓場っていうもんな」
「いえ、そういうわけではないんですが」ヴィンスは努めて明るく言った。しかし内心では、彼の言葉はしっくりきた。つくづく人間は言葉が上手い。「あの……つかぬことをお訊きしますが、その煙はいったい?」
眞人はきょとんとして、それから巨大な蒸留器とチューブを見て微笑んだ。「ああ。これは
「それよりも、眞人くん」アイリスが割って入った。「さっきの娘……李花って言ったっけ?」
それは服を脱ぎかかっていたポニーテールの少女のことだった。眞人はヴィンスから離れつつ頷いた。「ああ、それがどうかしたか」
「あれは現世の人間じゃないの?」
眞人は再び屈みこんでチューブを拾い上げた。「さーて、どうだったかな」
アイリスが仏頂面で両手を叩き合わせると、水煙草の装置は霧のように消えた。
眞人は目をつむったまま空気をちゅぱちゅぱと吸い、一拍遅れてから装置が消えていることに気がついた。彼はいかにも気に障ったように鼻を鳴らし、アイリスを見つめた。
「ああ、そうだよ。
「現世の人間を創るのはルール違反じゃないか」
アイリスが一歩踏み出して強気に言った。ヴィンスは、彼女が真面目な調子を崩さないことに驚いていた。
ヴィンスの知っている、数年前までのアイリスは、眞人と同じかそれ以上の悪戯好きで、二人の性格にはほとんど差異がなかった。年齢のぶん、アイリスの方が余計性質が悪かったくらいだ。しかし、いまや問題児は眞人独りだけのようだった。二人の肉体年齢が近づいて、何か関係性に変化があったのかもしれない。
「ルールだって?」眞人はからからと笑った。「おれが作った、おれだけに適用される、おれだけが運用して管理するルールだ。当然、誰に予告することもなく自由に変える権利がおれにある。なんたって――」
そして彼は立ち上がって、両手を広げた。
「なんたって、この世界はおれの『夢』なんだからな!」
すると天蓋付のベッドは瞬く間に消え失せ――、いや、消え去ったのは部屋そのものだった。ヴィンスは瞬きをしていなかったのに、それが消える瞬間も、そしてそれが現れる瞬間も認識できなかった。いつの間にかこの空間は白い砂浜のビーチに変わっていて、アイリスと彼は波打ち際に臨んで水平線を見つめていた。
カモメが鳴いて桟橋へと降りていくのが見える。
ふたりが振り返ると、ぎらぎらと眩しい太陽を背に、温帯の林が広がっていた。分厚くて広い葉っぱが黄色に照り返している、その手前に木造コテージが一軒、ぽつんとたっている。軒下の濃い影に、柵で隔てられた玄関ポーチがあって、年季の入った安楽椅子に眞人が座っていた。彼の手の中には、足の長い釣鐘型のグラスが収まっており、黄金色のトロピカルジュースが波々で、小さな青色の傘までついていた。彼は白と赤の縞模様をしたプラスチックストローから一気に吸って氷を鳴らすと、ふたりに向かって手を振った。
「ま、しばらく南の島でバカンスでも楽しんで、リラックスしてくれ。おれはこれから学校だ」彼は目を瞑った。
「待って、眞人くん――」
アイリスが呼びかけるのが速いか――眞人の姿はふつりと途切れたように消えた。
もはやこの世界のフレームに彼の姿は収まっていなかった。眞人は目覚めたのである。
ヴィンスはため息を吐いた。それが呆れからくるものなのか、あるいは問題を先送りにした安心からくるものなのか、わからないまま。
*
「おはよう、朝戸くん」
「おはよう、委員長!」
眞人はネクタイを軽く締め直しながら、にこやかに挨拶を返した。クラス委員長は唇を引き締め、神妙に頷き返した。とことん生真面目な女子である。
席に就いた彼の元に数人の男女が集まってきた。女子はノートやら教科書やら消しゴムやら習字ペンやらを一日借りてしまったことを詫び、今度お詫びに何かできないかと訊く――眞人は決まって、またいつでも借りに来ていい、と言って済ませる――男子たちは、近づいて来る女子たちを気にしながら、昨日のドラマを観たか、ティックトックがどうだ、配信者がなんだと喋りつづけ、眞人の友人であるかのように振る舞っている。眞人は熟練者の餅つきがごとく、ひたすら相槌を打ちつづけるだけだ。やがて話を捏ねくり回す方が疲れてきて、ぐったりして退散する。
「おはよっ、朝戸くん」
眞人は挨拶を返し、「なんか元気だね、安庭さん」
安庭李花は、ばっちりキマったポニーテールをしゃらりと波打たせた。
「いや~、実は今朝、なんかすごい夢見ちゃってさ~! もう贅沢三昧なのよ! 温泉旅館でエステにヘッドスパでしょ、しっかもわたしの好きな料理ばっかり出て来る宴会とか~、もうなんでもありだったわけ!」
眞人は朗らかに受け答えしながらも、その内容を真剣に分析していた。
眠っている人間を夢に呼び出すと、このように意識が繋がる場合がある。大抵は半日もすれば完全に記憶から消えているが、強烈な印象を与えると、長期記憶として根付くこともあるようだ。それでも、詳細はおぼろげになり、受けた印象やおおまかな流れしか残らないようだが。
もう何度も実験しているので今さら珍しい現象でもないのだが、情報はいくらあっても足りない。それに、大方の人間が『一番つまらないのは今日見た夢の話』だと公言して憚らないが、眞人からすれば、そんな言説はナンセンスもいいところだった。
「ところで、宴会に出たとかいう好きな料理って?」
「えっ? ああ、ビーフストロガノフ」
実際には大量の知育菓子だった。この認識の齟齬を重大なインシデントとして数えるべきかどうか眞人は迷ったが、おそらく、知育菓子を大量に摂取したいという欲求があったことを知られるのが嫌で、咄嗟に嘘を吐いたのだろうと判断した。丸裸になった心を相手に数時間やりとりして、李花の感情の動きには相当詳しくなっていた。
「あと生ハムのゲンボクね」
これはビーフストロガノフとは違って眞人が実際に出した物だが、ただの美味しいハムだった。おそらく原木という単語を、高級な生ハムにつく称号か何かだと勘違いしており、その思い込みが表れたのだろう、と眞人は分析している。
「あ――、もしかしたら朝戸くんも出てきたかも?」
眞人はごくりと唾を飲んだ。
「李花……じゃなくて、安庭さんの夢の中じゃ、おれってどんな風だった?」
彼女は首をぐるんっと傾げ、常に地面を指すポニーテールスタビリティーを披露した。
「ンー、わかんないや。忘れちゃった」あっはっはーと李花は笑った。「よかったら、李花って呼んでよ。そっちの方が呼びやすいならさ」
眞人が口を開きかけたその時だ。
ぴしゃんっ、と教室のドアが開いて、クラスは静まり返った。
教室の入り口には、機嫌の悪い犬みたいな表情をした少女が立っていた。おおよそ気持ちのいい朝には似つかわしくなく、どんな晴れ間であってもおまえの上に雷を落としてやるという呪わしい意思で満ちた眼つきをしている。真っ黒な瞳の奥では、正体不明の憎悪のようなものが、あたかも紫色に光っているかのように眞人には感ぜられた。
「お……おはよう、鳴神さん」
鳴神
「おはよ、しい」李花は苦笑いしつつも、彼女にやり直しの機会を与えた。
眞人もそれに倣って挨拶の体勢に入るも、すかさず飛来した支岼の邪視に射抜かれて舌がこんがらがってしまった。どうにもやりづらくてたまらない。それは向こうも同様らしかった。支岼は眞人の様子を忌々しそうに睨みつけながら、大股に近づいてきて、李花の手を取って教室のほとんど反対側に歩き去っていった。「ああ、ちょっと……またね、朝戸くん――」
眞人は静かに唇をぶるぶる鳴らした。どうしてこうも目の敵にされているのか、まったく心当たりがないのだ。
反物質の衝突という一大事件が過ぎ去ったので、教室には再び活気が戻り始めた。叱られるのを怖がる子供のように、恐る恐るの調子ではあったが。
「ひどいよね、鳴神さん」と委員長が世間話のように言った。「子供っぽいっていうか。何かされたわけでもないのに、どうしてあそこまで朝戸くんを嫌えるんだろう?」
「あんまり大きな声で言うと聞こえるぞ」眞人はのんびりと言った。
「聞こえたらいいんだよ」彼女は眞人の代わりにヒートアップした。「反省したほうがいい。高校生ってもう大人でしょ? 十八歳になったら選挙権もあるんだよ。もっと自覚を持たないと。だいたい……」
予鈴が鳴っても、クラスの喋り声は止まなかった。委員長の話も。眞人は適当に相槌を打ちながら、はやく授業が始まらないだろうかと、そればかり考えていた。
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