第8話 シュタインズ公爵邸(2)
「私、貴人のお世話を任されるのは初めてなんです。不慣れでご満足いただけない場面も出てきてしまうかもしれませんが、精一杯頑張りますね」
にこにこと屈託ない笑顔が眩しくて目を細める。
「奥様はお美しいので毎日の支度も楽しみです」
次の瞬間には手のひらを返されるのではないかと、エルゼを信じきれないエヴェリは目を見張る。
(…………毎日手伝ってくれるの?)
シェイラとしてなら当たり前のことなのに、エヴェリはやっぱり驚いてしまい、居心地の悪さを感じた。
慣れないといけないが、人に身の回りの世話を頼むのは違和感が拭えない。
「奥様、早速着替えましょう」
「ええ、あの中に着替え用のドレスが入っているわ」
晩餐でも着れるドレスがあったはずだ。
「かしこまりました。開けさせてもらいますね」
そうしてエルゼの手を借りて着慣れないウェディングドレスを脱ぎ、別のドレスに着替えようとしたところで予期しないことが起こる。
「……酷い、誰がこんなこと」
「どうかしたの」
絶句するエルゼがドレスの入ったカバンを開けた途端動きが止めたので、後ろから覗き込んだエヴェリは青ざめた。
(シェイラがドレスを自ら下賜してくれたから珍しいな、とは思ったのだけれど。まさかそんな)
エルゼが取り出したドレスはズタズタに切り裂かれ、黒インクがべっとり付着していた。
「貴女の荷物の中にあちらでも着れるドレスを入れて置いたわ。感謝することね」と旅立つ直前、上機嫌で言われた時に気づくべきだったのだ。
今頃、彼女は笑っていることだろう。最低限であってもドレスをくれたことに感謝し、礼を言った愚かなエヴェリが荷物を取りだして絶望する姿を想像して。
(どうしよう。私が持たされた服はそのカバンの中にある物で全てなのに)
姫として嫁ぐには心もとない嫁入り道具でも、全て高価なものである。当然エヴェリが用意することは出来ず、全てハーディング王家が用意した。ドレスがこうであるならば、他の荷物も同じような状態である可能性を覚悟しなければならない。
とはいえまずは着替えのドレスをどうにかしなければならない。このままでは晩餐に向かえない。頭の中が真っ白になって上手く頭が働かなかった。
(旦那さまに逆らうことになってしまう。それだけは避けなければならないのに)
持参したドレスが切り裂かれていて着用可能なドレスがないので晩餐は無理です。なんて、そんな理由を彼は信じてくれるのだろうか?
ただでさえ馬車に乗る直前、怒りを買うのを覚悟で彼を煽ったのだ。立て続けにセルゲイの神経を逆撫でる行いは避けるべきだ。
罵られたり無視されたりするのは悲しくなるけれど耐えられる。ただせっかくの好意を台無しにして、手が出ない保証はあるのだろうか。今度こそ暴力が振るわれるのではないかと過去の経験から嫌な想像をしてしまう。
(王妃様のように鞭はいやだ……)
きゅっと目を瞑り、お腹の辺りで震える両手を強く握った。そんな様子のエヴェリを、エルゼはドレスが破られていたショックからきたもののと勘違いしたらしい。励ましの声をかけられる。
「奥様、大丈夫です! 犯人は後で見つけるとして、こちらでもご当主さまが何着かご用意されておりましたので」
お待ちくださいとエルゼはエヴェリから離れて左手の、先ほど別部屋に続いているのでは? と思ったドアを開けた。隙間から見えた光景から、どうやら衣装部屋に続いていたらしい。
「お気に召されるかは分かりませんが…………」
エルゼが抱えてきたのは濃紺色のドレスだ。シンプルな装飾で落ち着きのある雰囲気を醸し出している。
ドレスにこだわりはない。着れるものならなんでもいいので直ぐに着替え、崩れた髪を整えてもらい、食堂に大慌てで移動する。
「遅れて申し訳ございません」
既に着席していたセルゲイはぴくりと眉を動かした。黄金の瞳がドレスを注視する。怒られるのではないかとビクビクしていたエヴェリは、その視線にますます緊張してしまった。
「そのドレスは」
「旦那さまがご用意してくださったものとエルゼから聞きました。ありがとうございます」
「そうか。料理が運ばれてくる。座れ」
(座れと言われましても……まさかあの席でしょうか?)
縦に長いテーブルの端、上座にセルゲイは座っており、セルゲイから見て左斜め前にもう1セット、カトラリーや食器がセッティングされていた。
「わたくしの席はそちらでしょうか」
「そうだが」
おそるおそる近づくと、エルゼがイスを引いてくれた。軽く頭を下げて着席すると、今度はずらりと並ぶカトラリーにめまいを覚えた。
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