女と女と、その他すべてのありうべき要素についての掌編
桜木潮
白 (第一三三回殺伐感情戦線 お題『罪』)
「私の顔面が醜悪なのはですね」
親愛なる我が妹は言いました。
「母が罪人だからです。母の犯した罪の証が、この不細工な容貌なのです」
「そうなのですか」
「そうなのです」
ぷうと膨らませたその顔は、拗ね顔というより蛙の面を思わせました。角ばったエラ骨と、半目とタレ目を足して割ったような双眸。そこに膨らんだ両頬ときたら、これはもう蛙です。蛙以外の何物でもないのです。右手に持ったバナナクレープに駄犬みたいにかぶりつくと、その両頬はさらに膨らみ、これでは蛙というよりリスだなと私は思いました。リス。聞いたことがあります。確か彼らは、秋の間にせっせと埋めた餌の場所を、冬にはあらかた忘却してしまっているとか。つまりはバカです。脳足りんのちんちくりんです。ああ、なんて愛くるしい! 可愛らしいことこの上ない!
「ああほら、妹よ、クリームが鼻についていますよ」
私はポケットから白のハンカチを取り出して、同じく白いホイップクリームを妹の鼻から拭き取りました。妹はリス顔負けの高速咀嚼でもぐもぐごくんと内容物を飲み込むと、けぷ、とドブから分泌されるメタンガスのような音を出し、きっと私のことを睨めつけました。キッとではありません。きっとです。何故ならそれはツリ目というより、布袋さまの如き糸目だったので。
「だから姉上、こんなことをしても無駄なのですよ」
「こんなこととはどんなことです?」
「放課後にクレープ屋へ連行し、カロリーお化けの甘味を毎日欠かすことなく食わせ、ぷくぷくと出目金のように肥え太らせることがです。私は確かに醜いです。ですがそれは、体重に起因するものではないのです。これはいわば宿命的、カルマ的な醜さなのです」
そこまで言い終えると、妹は握りこぶしほどの大きさになったクレープを一気に口の中に突っ込みました。しばらくの間会話は途絶え、妹の咀嚼音だけが人通りのまばらな市街地の中に響きます。
ごくん、と最後の一口を飲み込むと、妹は指先についたクリームを舌でべろりと舐め取って、続けます。
「私をさらなる不細工にしようと悪計を巡らせたところで、それは根本的に無意味なのです。だって私は姉上の愚行とは関係なしに、絶望的に穢らわしい容姿をしているのですからね」
妹は私の手から、まだ一口しか食べていない苺クレープをひったくると、顎を大きく縦に開いて躊躇なく噛みつきました。するとたちまち、唇の周りが紅色のベリーソースに塗れます。生まれながらに見苦しいおちょぼ口に後天的な汚れがトッピングされ、死にかけの芋虫の如き蠕動を不規則に繰り返す。その有機的動作のおぞましさといったら筆舌に尽くしがたいほどで、公衆の面前で晒すのは犯罪以外の何物でもありませんでした。
被害者が出る前にこの地獄絵図をなんとかしなければ。私は再びハンカチを取り出しました。が、妹はそれより早く、私の制服の袖に汚れた口元をこすりつけてきました。煮詰められ凝縮された苺ソースの赤色が、まばたきほどの速度で繊維の奥までぬるぬると染み込みます。
妹の身に纏う地元の公立校の黒色のセーラー服なら、きっとその赤色は闇に飲まれて漂白されていたことでしょう。ですが私の通うカトリック系の女子校の制服は、雪のような白でした。清廉であれ、無垢であれ、という祈りを体現するかのような、白百合の如き純白。ひとたび汚れが付着してしまったら、どれだけ必死に洗ったところで完璧に落とすことはできません。白とは、そういう色なのです。穢れを纏わないがゆえに、穢れを隠蔽することもできない。あらゆる不浄を白日の下に晒し上げずにはいられない。白とは、断罪の色なのです。犯した罪を映し出す、閻魔様の鏡なのです。
「なにをするのですか、妹よ。これでは母上が、食べ物で袖を汚すなどなんてお下品な、と卒倒してしまいます。それ以前に買い食いもバレてしまうではないですか」
袖口に擦りつけられた甘ったるいキスマークを見やりつつ、私は妹に苦言を呈しました。すると妹は皮肉まじりの、否、どう見ても皮肉百パーセントの底意地の悪い声色で言うのです。
「醜さのお裾分けですよ、姉上」
私は、華麗なる一族の華麗なる令嬢としてこの世に生を受けました。母方の血筋は由緒正しき華族の末裔、父は戦前に成り上がった叩き上げの大企業のせがれ。けれど口惜しきかな。私の両親の素晴らしさというものは、どれだけ言葉を尽くしたところで表現できるものではないのです。というのも、両親が授かった最大の美質は家柄でも資産でも社会的肩書でもなく、その美しきかんばせにあるのですから。
実の娘の立場でこのようなことを口にするのはひどく恐縮なのですが、両親の顔立ちの端麗なことといったら、それはもうこの世のものとは思えないほど。私の貧相な文学的センスでは、その美しさの一端さえも表現することはできないでしょう。そして恐縮に恐縮を重ねるようで大変心苦しいですが、天上の美貌を有する両親の下に生まれた私もまた、至上の美貌を携えて産声を上げたのでした。
けれど妹は不細工でした。とんでもなく不細工でした。突然変異というやつなのか、はたまた劣性遺伝子のいたずらか。我が妹の容貌の醜さといったら、父母両方の家系の全員の美顔ポイントを総計し、それにマイナスをつけてもまだ足りないというほどの圧倒的な見苦しさでした。噂によれば妹を取り上げた助産師さんが、「ギャ、不細工!」と悲鳴を上げて、危うく妹を取り落としそうになったほどだったとか。
そんなわけで、一族の誰もが美しき長女である私を偏愛するようになるのは至極自然なことでした。特に母上の私に対する溺愛っぷりといったら、反抗期の萌芽さえ有り余る愛で腐らせてしまうほどでした。私は本来、姉妹の間で平等に分けられるはずだった母の愛を、この華奢な身体一つで享受し続けているのです。
それはもう、抱えすぎて折れてしまいそうになるくらいには、ね。
だから、私は確信を持っていました。たとえどんな込み入った相談であろうとも、母上は微笑み一つで許してくれることだろう、と。
そんなわけで私はある日、極上の打ち明け話を母上に持ちかけました。
「それで、相談というのは?」
「どうか、怒らずに聞いて下さい。母上、実は私にはお付き合いをしている方がいるのです」
「ええ、ええ、ご存知ですとも。◯◯さんのことでしょう」
「いえ、そうではないのです。だって、あの人は許嫁です。お付き合いとは、違うでしょう」
「あら。それはつまり、他に好意を寄せる殿方が出来た、ということ? まったく、この子は。そういうことなら、もっと早くに相談してくれればよいのに」
母上は一度、困った子ねぇ、とでも言いたげに腕を組み、わざとらしいため息をしてみせました。だけどすぐに柔らかい表情へと立ち返り、それで、と言葉を続けます。
「あなたが自ら選んだ男の方なのだもの。それは大層、素晴らしいお相手なのでしょうね」
「それが、とんでもない醜男なのです。優しくもなければ、切れ者であるわけでもない。芸術なりスポーツなりに傑出した才覚があるわけでもない。ただただ粗暴で、ただただ醜い。ひたすら下賤で卑しいだけの、なんの取り柄もない男なのです」
ああ、なんて浅ましい告白なのでしょう! 稀代の画家が細筆をすっと走らせたような、絶妙な曲率と色彩を持つ私の唇から、かくも汚辱に満ちた文言が紡ぎ出されているなんて。その事実を思うだけでも、私としては軽く絶頂してしまいそうなほどでした。
「実を言うと、もう初体験も済ませているのです。いえ、それどころか私は――」
私はわざとらしく下腹部を左右の指先で撫でました。にこり、と上品な微笑を貼り付けながら、伏せていた両目をおもむろに持ち上げました。
「既に妊娠しているのです」
母上の容貌はコチコチに凍りついておりました。罪の色に染まっていました。石膏で象られた胸像のような、白。空気を含んだ質の悪い氷のような、白。あるいは精液のようにどろりと濁った、穢らわしい、白。
「ああ、この子は一体どんなかんばせをして生まれてくるのでしょうか。想像を絶するほどの不細工であることは、まず間違いないでしょうね。だって、その人は本当の本当に醜男なのです。唾棄すべき面立ちをしているのです。父上と母上が代々受け継ぎ、世代を経るごとにますます洗練されてきたこの美貌の遺伝子も、あの醜男の前では容易く壊れるのが必定でしょう。だって、美というのは儚いものです。それゆえに尊いのです。天上の美しさが凡庸な醜さに叶う道理など、どこにもないのです。ああ、ああ、母上。私は一体、どうすればよいのでしょう。たとえ腹を痛めて産んだ子供であろうとも、許嫁を差し置いて醜男との間に設けた醜い醜い赤子など、私は到底愛すことはできません。馬鹿なことをした、と聡明な母上はお思いでしょうね。だけど母上、どうか私を責めないでほしいのです。だって――」
母上が手のひらを振り上げました。勝った、と私は思いました。
「この美しさは、宿命です。逃れるには、自らの手で自らの身体を穢すよりほかなかったのです」
最後の言葉を述べると同時に、反射的に両目をきゅっと閉じました。なんだか格好がつかないですが、それも仕方がありません。自ら招いた事態とはいえ、誰かから顔面を打たれる機会など物心ついてからもそれ以前も、ただの一度もなかったのですから。
けれど、想定していた衝撃が訪れることはいつまで経ってもありませんでした。私はただ、扇風機くらいの風圧を左頬に一瞬感じただけでした。
ゆっくりと瞼を開くと、母上は既に踵を返したあとでした。罵声も怒声も泣き言も漏らすことなく、盗人のような足の速さで寝室へと引き返していきました。後ろ髪に一本だけ、長い白髪が混入していることに気がつきました。それで私は、母上も年を取っていたのだなぁ、と当たり前のことを当たり前のように実感しました。
とはいえ結局、私の頬は張られることになるのですけどね。我が親愛なる妹の、クリームパンのようにぷくぷくとした手のひらで、パッチンと。
「馬鹿ですか、姉さんは」
生まれて初めて受けた平手打ちは、派手な音がした割にはさほど痛いということもなく、なんだか拍子抜けでした。私は打たれた頬を半ば惰性でさすりつつ、拗ねたように唇を突き出して、言いました。
「ええ、馬鹿ですよ。私の知性は、あくまでも外見だけのもの。理知的な凛々しい顔立ちをしていても、中身はすっからかんなのです。だけど妹、あなたは私と違って賢明です。顔は蛙みたいな間抜け面でも、中身がきちんと詰まっています。そしてこの一件で、私は一生母上から恨まれることになりました。あとはこれで、私があなたに平手打ちをし返せば、何もかもが平等ですね。というわけで妹よ、私にも一発頬を張らせて下さい。一度やってみたかったのですよ、暴力というものを」
「寝ぼけたことを言わないで下さい。どこが平等なものですか。生まれたときから持ち得ないのと、自らの意思で捨て去るのとでは、意味がまったく違うではないですか」
「でも妹よ、宿命なんてその気になればいくらでも塗り替えられるものなのですよ。たとえば、ほら」
私は中絶用の代金にと、母上から突きつけられた札束を差し出しました。ついでに妹の頬を叩いてみました。三十万の扇でペチペチペチ、と。
「このお金で韓国にでも飛んで、整形でもしてくるとか。どうせ無用の長物ですし、あなたがその気ならお譲りしますけど?」
「遠慮しておきます」
妹は鬱陶しそうに私の右手を払うと、小さく、けれど逡巡なしに首を左右に振りました。その顔に驚きや戸惑いの色は微塵も浮かんでいませんでした。蛙面には似つかわしくない深刻な表情が、脂肪の仮面の奥に薄っすらと透けているだけでした。
「それより、一つ訊かせて下さい。あなたは、母上を憎むばかりに見え透いた猿芝居を打ったのですか? それとも、姉さんは――」
妹の言葉が、不意に途切れました。続く言葉は、私が間髪入れずに返答を放り投げたことで、永久に闇の中へと葬り去られました。
「決まっているでしょう。私は、母殺しをしたかったのです。そのために、あなたの出生の秘密を利用した。それだけの話です」
「……本当に嫌な人」
妹は忌々しげに呟いて、片頬をきつく吊り上げました。不格好な容貌に不格好な表情が掛け合わされて、それはそれは、いつも以上に見苦しく、いつも以上に愛くるしいことこの上ありませんでした。
力ない足取りで部屋を後にする妹の猫背の後ろ姿を見やりつつ、私は内心、吟遊詩人のように唱えます。
妹よ、あなたは蛙でもリスでもなく、虫なのですね。でっぷりと重い身体をぬめらせながら、花びらの裏側にこびりつき、花びらの繊維にかぶりつき、天然の芸術品を汚損する、惨めなナメクジ。
私の美を損なうのは、妹よ、あなたなのですね。あなたが、私を穢してくれるのですね。
私が自らの手で、自らの美を破壊するまでもなく。
――ああ、本当に。なんて醜く、なんて愛らしい妹なのでしょう。
女と女と、その他すべてのありうべき要素についての掌編 桜木潮 @SakuragiTyou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。女と女と、その他すべてのありうべき要素についての掌編の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます