第53話 彼女

     53 彼女


 彼女が目を覚ましたのは――その日の朝だ。

 

 瞼を閉じていても日差しが眩しくて、彼女は我に返る。

 軽い眩暈と頭痛を覚えながらも、彼女は上半身を起こした。


 彼女が寝ていた場所は、粗末なベッドだ。

 掘っ建て小屋とも言えるそこは、とにかく物がない。


 机や椅子さえないそこは、ただ台所らしき部屋があるだけだ。

 彼女はボウとした意識のまま周囲を観察する。


 やはりそこは、どう見ても見覚えなどない場所だ。

 彼女はこんな所に、住んだ事さえない。


 と、彼女は突然、誰かに話しかけられた。


「――アンタっ? 

 目を覚ましたんだね――アンタ!」


「………」


 年配の恰幅がいい女性が、慌てふためく。

 女性は彼女の両肩を掴んだ後、彼女を抱き寄せた。


「よかった! 

 もう二日も目を覚まさなかったんだよ、アンタは! 

 私は、このままアンタがおっちんじまうんじゃないかと思って、夜も眠れなかったんだ! 

 ……本当に良かった! 

 お蔭で私は今になって、遂に神様を信じちまったよ!」


「………」


 抱きつぶすかの様な勢いで、女性は尚も彼女を抱きしめる。

 涙ながらに語る女性は、どうも彼女にとって近しい存在らしい。

 

 いや。

 彼女は今になって、あの白い人が言っていた事は事実だったのだと、理解した。


(〝私〟には、全く分からない状況。

 でも〝私〟が別人になったのだとしたら、この違和感は私だけの物。

 周囲の人達にとっては、私という存在は当たり前の事。

 だというのに〝私〟は彼女達の事を何も知らない。

 まずこの溝を埋めない限り、話は進まないでしょう)


 その為に何が最善か、彼女は即座に思いつく。

 彼女は取り敢えず、こう言葉を紡いだ。


「あの、実は私、記憶が曖昧で。

 私は誰で、ここはどこでしょう?」


「……へっ?」


 大いなる悦びから一転して、女性は唖然とする。

 女性は眉を顰めながらも、こう納得した。


「……確かにアンタは、頭を打っているからね。

 記憶が無くなっていても、おかしくないかも。

 もしかして……私の事も覚えていない?」


 恐る恐る訊いてくる女性に、彼女は申し訳なさそうな表情で頷く。

 女性は落胆する素振りを見せながらも、直ぐに気を取り直す。


「いや、いいんだ!

 これは別に、アンタの所為じゃないから!

 記憶だってその内、あっさり思い出す事だってあるだろうさ! 

 いや、その前に、自分の名前ぐらい知っておかないと困るか。

 アンタの名ね――ミレット・ディナだよ。

 このウーマ・ディナの娘で、今年で十五になるおてんば娘さ。

 どうだい? 

 何か思い出したかい?」


「………」


 当然の様に何も思い出せない彼女は、苦笑するだけだ。

 いや、彼女はこの時、記憶を失っているとは思えない態度を見せた。


「つまり、ウーマ様が私の母様という事ですね。

 今日まで、お手数をおかけしました。

 私はもう、大丈夫です。

 少なくとも、体の方は」


「………」


 敬語で他人行儀の様に喋り始める、ミレット。

 ならば、ウーマは顔をしかめるしかない。

 

 意識はしっかりしているのに、今のミレットはまるで別人の様だ。

 ウーマとしては、その辺が大いに気になった。


「……いや、とにかく意識が戻って良かった。

 その態度は気になるけど、命に別状がなければ些細な問題だ。

 記憶がないなら、まずはディナ家について教えておくよ」


「………」


 どうやらウーマは、おおらかな性格らしい。

 明らかに娘がおかしくなったのに、その辺りの事は責めもしない。


 ウーマは有言実行とばかりに、ディナ家の話を始める。


 ディナ家は代々続く、漁師との事だ。

 ウーナは婿をとって、ディナ家を存続させた。


 けれどその夫も、一年前に病死したとの事。

 今は一人娘であるミレット共に、生活していると言う。


「うん。

 ミレットも漁師になる筈だったんだけど、アンタは嫌がってね。

 私と何時も、喧嘩している様な状態だったんだ。

 ミレットが言うには、都会で華やかに暮らしたいとの事だった。

 私としては〝アホか!〟という思いだったんだけどね。

 アンタは何時でも、本気だったみたいだ」


「………」


 都会で、華やかに暮らしたい。

 それは彼女の願望とは、少し違っていた。

 

 彼女は確かに都会の中枢に居たが、華やかな生活を望んだ事はなかったから。


〝そう言えば自分はどんな生活を望んでいたのだろう?〟と彼女は今頃になって疑問に思う。


「そうでしたか。

 それは尚の事、お手数をおかけしました。

 もうその様な野心など抱いてはいないので、ご安心ください。

 母様が望むなら――私は喜んで漁師になります」


「………」


 と、ウーマは唖然とした後、もう一度ミレットの両肩を掴む。


「いや、いや、いや! 

 そんなに簡単に、自分のユメを諦めちゃだめでしょうっ? 

 そんなのちっとも、ミレットらしくないよ! 

 アンタは強情っ張りのじゃじゃ馬なんだから、そんなに素直なのはダメー!」


「………」


 どうも今の反応は、ミレット・ディナらしくない物だったらしい。

 しかしそう責められた所で、彼女としてはミレット像と言う物が上手く掴めない。


 彼女ほど〝おてんば〟という単語が遠い女子も、他にいないから。


「いえ、ですがディナ家は、漁師である事が誇りである家柄なのでしょう? 

 母様も私が家業を継ぐ事を、常日頃から望んでおられた。

 今その望みが叶ったのだから、これは喜ばしい事なのでは?」


「………」


 まるで宇宙人と会話をしている様だと、ウーマは思う。

 記憶を失っただけで、人はここまで変わる物なのかと、ウーマはもう一度唖然とした。


「……これは、思った以上に重傷だね。

 やっぱりアンタは、もうしばらく休んでいなさい。

 寺子屋も、後一週間ぐらい休んでいいから」


「寺子屋? 

 ああ。

 学校の事ですね。

 それなら……」


 ――確かに、問題はない。

 彼女は幼い頃から、母親に英才教育を受けてきたから。


 後の世で言えば既に大学院生位の知識を、彼女は持っている。

 今更寺子屋で学ぶ事など無いと言い切れるのが、この彼女だ。


 その彼女が、唯一の懸念を漏らす。


「でも、そうなると、私は時間を持て余す事になります。

 正直、私は暇な時間ほど、苦手な物はないのです。

 何かする事は、ありませんか?」


「――ありません! 

 アンタはとにかく、休んでいて!」


「………」


 強くそう言われたミレットは、仕方なく母の言い分に従う。

 昼間からベッドで横になるなど彼女の常識には無い事だ。

 

 だが、ああまで心配されては、彼女も母を気遣う他ない。

 自分が安静にしている事が、母の安心に繋がるなら、暇である事も仕方がない。


 彼女はそう割り切って、床に就く。


「………」


 だが、当然の様に、彼女は眠れない。

 いや、眠れる筈がないのだ。

 

 そう思うしかない彼女は六時間ほど横になっていたが、遂に体を起こす。


 ミレット・ディナは正に暇を持て余す様に――家から抜け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る