コンビニ・セラピー

小島蔵人

第1話

 リビングからスマホで話す悦子の声が聞こえてくる。相手は大沢英一で圭太の従兄である。すでに社会人で三十歳、市内のワンルームマンションで一人暮らしをしている。先週あたりから頻繁に電話をかけているのを圭太は知っている。高校を一年間登校拒否したあと、自主退学してから一か月が過ぎていた。関係の相談所や地方の高校等、いろんな方法を章太郎と悦子は考え圭太に勧めたが、肝心の本人が部屋に籠って動かないので、最後の望みを英一に託したのだ。

 「何回も言ってるけど、もうあなたしかいないのよ」

 「だからそうじゃないって、あなたが一番仲がよかったでしょ、あなたとは何でも話していたのをずっと見てきたから」

 「圭太も英一君のところだったら、行ってもいいて言ってる」

 「じゃ、土曜日と日曜日はうちに帰るってのはどうかしら、とにかく今の生活を変えるところから始めないといけないのよ」

 圭太は一階に降りる階段に座って成り行きを聞いていたが、英一は抵抗も虚しくなんらかの条件で折れたようだ。結局十日ほどかかったことになる。

 「ほんとう、よかった、ありがとう、じゃ早速今日から、今日の夕方そっちに連れてゆくから」

 電話口で英一は何か言ったようだが、悦子は「そんなことなんでもないわよ、よかったわぁ」と答えて切った。「よし」と悦子の声が響き、次の瞬間「圭太ぁ」と二階に向かって叫んだので、あわてて部屋に戻った。


 車の中で口を酸っぱくして悦子が言うには、「ただ置いてくれるんじゃないからね、仕事に行っている間に家のことを全部やるのよ」

 「おれ、お手伝いさん、やるの」

 「あのね、世の中厳しいの、ただ籠っていればすむなんて大間違い、なにかの存在意義があった方があなただっていいでしょ」

 「存在意義なんて、おれ、別にいいけど」

 「うちもね、食費負担するんだからね」

 「じゃ、おれ晩御飯とか作らなきゃなんないの」

 「そのへんは英一と話し合ってちょうだい、とにかく何もしないで籠ってばかりはいられないんだからね」

 「英ちゃん可哀そうだな、迷惑なんじゃ」

 「あなたが何言うの」

 うだうだ言われてマンションの前で下ろされて、バッグ一つを持って入り口の操作盤の前に立つ。部屋の番号を押すが返事がない。数回押してところで逃げたんじゃと思い至った。

 自動ドアの前に座り待つ。確かに悦子の言うとおり、英一ならと思ったのは事実だ。英一の家は大家族で子供が八人いる。そのうち七人が女の子で一番末の英一は何かというと圭太の家に遊びに来ていた。女性恐怖症で彼女なんかとんでもないと常日頃言っていた。うちにもよく泊まりにきていたから、こんな無茶な頼みも断われなかったと思われる。

 「あ」と声がした。見上げると当の英一が両手にトートバッグを下げている。 「圭太が来るっていうから買い出しに行ってたんだ」カギで自動ドアを開けながら言う。

 「お世話になります」と頭を下げ、これ母からですと現金の入った封筒を差し出した。

 ああ、と英一は受け取り、中身を見てからエレベーターに乗る。三階で下りて部屋のドアを開け「あがれよ、だけどワンルームだからな、狭いんだからな」

 「おれ、狭いの大好き、テーブルの下とか、押入れの中とかもっと好き」

 英一は大きくため息をついて、「今後のことはおいおい決めてゆこう」と言って手に持ったバッグをテーブルに置いた。

 その夜はめんどくさい話は一切せずに、静かに配信の映画を見ながら過ごした。英一にしてもおいおい慣れてゆくしかないのだ。そうそうに「寝るぞ」と言って本人はロフトに上がっていった。圭太の居場所は本当にテーブルの下で、そこにマットを敷いて寝た。

 翌日、起きると英一はいなかった。仕事へ行ったようだ。時計を見ると九時を過ぎていたから当然だろう。朝ごはんはなかった。テーブルにメモが残してあり『自分でコンビニへ買いに行け』と書いてあった。部屋のカギも置いてあり、『落としたら殺す』とつけ足してある。外へ出たくないから引き籠りなのに、なんてこったとため息をついた。朝は食わなくてもいいが、昼は必要だなと思いのろのろと着替えた。セカンドバッグ持ち、英一が使っていたトートバッグを借りてドアを薄く開けた。この時間だから誰もいないだろうとは思うが油断はできない。あたりを見回し急いで出てエレベーターに乗った。

 コンビニは百メートルも歩くとウルザンスカウザンスがある。前に英一に連れられてきたことがあり、この辺ではけっこう離れたところにナンデモマートがあるぐらいだ。店の中をガラス越しにのぞくと、十時ちかい時刻なので少ない。数人の客が見える。入口のドアを押したとたん、がなり声が聞こえてきた。奥のレジでおっさんとレジの女性が言い争っている。

 「なに言ってやがる」

 「当然のこと言ってんだよ」

 「たった百円の買い物で威張るんじゃねぇよ」

 「百円だって客だ」

 「ぐだぐだ言ってねぇで、とっとと帰りやがれ」

 「じゃかしい、それが客に対する態度か」

 「今どき客だぞって威張る奴がいるなんて、遅れてるぅ、あんたいつの時代の人、笑っちゃう」

 「なんだと、客だって威張って何が悪い、つい十年も前は神様だって崇められた尊い存在だ」

 「あんたみたいな小汚いジジィのどこが尊いのさ、バカみたい、何十年も生きてきたくせにその間抜け顔はなに」

 「おまえだって、変に厚化粧で若作りしやがって、実物を見せてみろってんだ」

 「やかましい、他の客の迷惑、さっさと金払って出ていきやがれ」

 「おう、じょうとうだ、こんな店二度と来てやるもんか」

 「まあ、よかったわ、店の評判が上がる、貧乏神に憑りつかれずにすむって」

 「へっ、その厚化粧にヒビが入って崩れないように気をつけるこったな、バケモンの顔なんて見たくもねぇ」

 「なんだと」

 圭太は呆然とその場面を見ていた。凍りついたように動けず、胸の激しい鼓動とフラッシュバックする昔の映像に襲われ、やがて崩れるように座り込んだ。

 「だいじょうぶですか」ちょうど入ってきた女性客が声をかけた。「ちょっと、大変よ、誰か来て」

 「どうかしましたか」レジの女の声がした。

 こちらを見て状況を知って走ってくる。「おい、どうした」とおっさんも駆け寄ってくる。圭太は大きく呼吸しながらその二人を視界に入れると「ひゃああ」と叫び、脱兎のごとく店から走り出た。そしてマンションの英一の部屋を目指して全速力で走り切った。


 その日は朝昼抜きになった。夜に英一が帰ってきてから言われた。「おまえさぁ、そんなことぐらいでって言っても仕方ないのかもしれないけどさ、おまえ関係ないじゃん、それに冷凍庫にはパスタとか焼きそばとかあっただろ」

 「勝手に食っちゃっていいのかなって、思ったし」

 英一は困ったようにため息をつき、「ここにあるものはなんでも食っていいから」とだけ言って「圭太も頑張れよ」つけ加えた。

 夜、テーブルの下で寝つけないでいた。フラッシュバックは辞めた高校の時のものだ。中学の時はいじられることも多かったが、悪意を感じることはなかった。小学校二校の持ち上がりだったから半分は顔見知りだった。ところが高校は受験校とはいえ上位でも下位でもない本当に普通の高校で、勉強する奴はするが、遊ぶ奴も多い学校だった。真面目というより気弱で臆病な印象の圭太は、入学当初から目をつけられ、体操服を隠されたり、財布をとられたりした。そのうちエスカレートして常時絡まれて、万引きやカツアゲを強制されるようになり、逃げると追いかけられボコボコにされた。それから学校へ行けなくなり、部屋に籠るようになった。自主退学するまで一年かかったのは親や先生の説得があったからだが、人が怖かったし信用出来なかったから受け入れることはできなかった。他人とは誰とも接したくなかったのだ。

 英一は別だった。小さい頃から知っていたし、文句言いながらも圭太の気持ちを尊重してくれる優しさを感じていた。それは七人の姉たちに鍛えられたという事情があるのかもしれない。

 寝つけないでいるのにはもう一つ理由があった。コンビニのあの怒涛の罵りあいが目に焼きついて離れないのだ。圭太にはあんなに怒鳴りあった経験はなかった。大人しいとか、声が小さいとか、そんなことばかり言われて育ってきて、いつも人の後ろに隠れていたし、人混みに紛れるとか、部屋の片隅とか、そんな事が好きだった。

 思い起こしてみれば、悪意とか憎しみとか、そんなものをあまり感じなかった。どこか爽快でまるでスポーツの一つみたいな清々しさがあった。

 「でも清々しいってことはないよなぁ」

 圭太はもう一度あの場面を見てみたい気がしていた。自分にはない世界だし、怖気ついてしまう世界だった。どうしてあんなに言いたいことを言えるのか、その訳を知りたいと思った。


 翌日、同じ時間を見計らってマンションを出た。あのジジィが来ているかどうかは疑問だが、少なくともあのレジの女性はいるのではないかと思った。気持ちは委縮していたが朝御飯を買いに行くだけだと胸の中で何度も反芻した。

 コンビニのドアを押した。「いらっしゃいませぇ」の声がした。あの女の声だ。だがジジィはいなかった。本当にもうこの店には来ないのかもしれない。確かに普通に考えれば別の店へ行くはずだ。自分だってそうすると圭太は思った。仕方ないので、サンドイッチとおにぎり、カップラーメンを持ってレジへ行く。

 「いらっしゃいませ」女は商品をスキャンし金額を言う。圭太は千円札を入れてお釣りとレシートを取り、商品を持ってきたトートバッグバッグに入れた。

 そしてその女を見た。ネームプレートに岡田とある。心臓がバクバクした。

 圭太が動かないので女の目つきが鋭くなった。

 「あの」と勇気をだして言った。圭太にしてみればこれだけでもノーベル賞ものである。聞きたかったのだ。昨日の罵りあいのことを、どうしてあんなに口汚いことばがスラスラと出てくるのかを。できればあのジジィのことも聞きたかった。

 「なにっ」と女が語気鋭く言い、睨みつけた。

 「ひゃああ」次の瞬間、圭太は叫びながらコンビニを走り出ていた。



 

 

 

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