第一章 名前を纏う男(4)

「どけ!」

私は全身の力を振り絞り、両手で男を突き飛ばした。

胸の中では心臓が狂ったように跳ね上がり、まるで今にも破裂しそうだった。麻痺した手のひらに、ようやく僅かな手応えを感じた。彼の指が急に緩み、すべての力を失ったかのように力なく垂れ下がった。


それまで私の襟を掴んでいた彼の手が無力に解け、彼の体は重々しく地面へと崩れ落ちた。

鈍い音を立てて倒れ込む彼の姿が、目の前に横たわる。


その瞬間、彼の周囲に一層の不気味な霧が立ち込め始めた。

その霧は冷たく湿り気を帯び、地下深くから湧き出たような腐臭を纏っている。

暗く薄汚れた霧は生き物のように蠢きながら、ゆっくりと、しかし止めどなく彼の体を包み込み、飲み込んでいく。


霧に包まれた彼の姿はぼやけて見え、その寒気の鋭さに頭皮がじりじりと痛んだ。

まるで地下のどこかから、目に見えない力が私たちを覗き見しているようだった。


「バカかよ?もうこれ以上近づくな!」

私は震える声で叫んだ。怒りと恐怖が入り混じり、その声は尖った響きを帯びていた。

心の底ではすでに崩壊寸前だったが、自分を守りたいという本能が、どうにかして冷静を装わせていた。

私は全力でこの異常な悪夢から距離を取ろうとした。


彼はなおも広がりゆく霧の中で地面に座り込み、断続的に呟いていた。

「来る……来た……」

その声は喉の奥で押し潰されたように掠れ、恐怖と絶望が滲み出ている。


彼の目は虚ろで、まるで私には見えない何かを凝視しているようだった。

恐ろしい存在が一歩一歩彼に迫っているかのようで、彼はただ黙って待ち続けるしかないように見えた。

待って、待って、全てが呑み込まれる瞬間を。


「クソッ!」

私は奥歯を噛み締め、強い口調で怒鳴った。震える声を必死に隠しながら言葉を絞り出す。

「これ以上やったら警察を呼ぶぞ!」

だが私の叫びは静まり返った通りの中でむなしく響くだけだった。


冷たい霧はなおも広がり続けている。

それは生き物のように蠢きながら、緩やかに、しかし止めようもなく彼の体を飲み込んでいく。

同時に私の神経をかき乱し、心を引き裂いていくかのようだった。


その時だった。闇の中から突然、無数の手が伸びてきた。

それらの手は乾ききって朽ち果て、異様な色彩を帯びている。まるで地獄から這い出た怨霊のように、彼の頭部をしっかりと掴み、狂ったように引き裂き始めた。

骨のような関節が「バキッ、バキッ」と音を立て、まるで金属片を無理やり折り曲げたかのような不快な音が耳膜を刺す。


「終わり……だ……」

彼の声は低く、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

だがその表情は、恐怖よりも解放を思わせる奇妙な笑みを浮かべていた。

彼の顔の歪みは次第に和らぎ、ただ安堵とも取れる笑みだけがそこに残った。

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