第87話 律樹 ウッドデッキ

最近妻の唯芽が変わった。

唯芽はもともと好きな事に時間を忘れて打ち込む性格だったけれど、僕と結婚してからは僕を最優先に、和樹が生まれてからは自分の趣味などを持たずに家族にだけ尽くして来た。


 そんな唯芽が急激に若返った。


キッチンのレンジフードから玄関の靴箱までどこもかしこも綺麗に磨き上げ、雑草まみれの庭を完璧に掃除してピザ窯を作ったり、屋根に登って雨漏りを直したり、とんでもなく行動的になった。


 家はいつもピカピカで衛生的、食事の味はとんでもなく向上し、家事は完璧でそれは素晴らしい事だと思う。だからと言って散財する訳でもなく、渡した中でやりくりしてくれている。でも若い頃だってそんなにも行動的じゃなかったはず。君に一体何があったんだい?


 彼女自身が抱える問題ごともあって、そのサポートのために時々週末にお義母さんと会って近況を伝え合っているが、彼女は今度はどうやらジビエ料理にハマってしまったらしい。その一環で庭に窯や燻製器を作り新たな料理の可能性にチャレンジしているのだとかで、お義母さんはたいそう喜んでいた。


 美人で料理も歌も上手い唯芽は人付き合いさえ得意であれば間違いなくお義母さんの居酒屋をついでいたのだろうから、お義母さんもまだ諦めきれないのかも知れない。


彼女にとってはとてつもなく嫌な思い出がある店だが、もう立ち直っている様で、ちょくちょく顔を出すという。もしかしたら唯芽は、あそこでまた働きたいのかも知れない。今は客層は女性ばかりだし、ランチ営業なら危険な事は無いだろう。少しでも人付き合いに慣れてくれればと僕は唯芽に店に手伝いに出る提案をした。



 僕が体力が無くあまり一緒になって遊ぶ事をしないから、なるべく好きな様にさせてあげようとは思っていたけど、最近は僕や和樹より自分を優先させる事も増え、僕に意見をする事も要望を言う事も少しだけど増えてきた。いつも謝ってばかりの内気な彼女にとってそれはとても喜ばしい事だとは思う。

もちろん唯芽は浮気をできるような子ではないから何も無いのは分かっている。だけど美容には興味が無かった唯芽が僕にさえ分かるくらい急に綺麗になったりして少しだけ心配なんだ。


 

「え?釣り?」

「そう。前に何か始めたいねって言ってたじゃない?釣りはどうかな?」

 珍しく唯芽が新しい趣味を提案して来た。

 確か部下の村瀬君がが釣りに詳しかったはず。唯芽は釣りなんかした事なかったから全くの素人だ。僕は先に手順を覚えて唯芽に良いところを見せたくなった。


 彼女は僕と付き合うまでは殆ど外出はしていなかったから、付き合い始めた頃は僕が彼女を色々な所へ連れ出した。

 人混みは僕も苦手だけれど一緒に祭りにも行った。彼女はあまりに世間知らずで浮世離れしていたから、僕は色々な物事を彼女に経験して欲しかった。僕だって苦手な事も初めての事も2人で一緒にチャレンジして色んな新しい事を体験していったんだ。


 ボーリングにも行ったな。

彼女は人と物を共有するのが大嫌いで、最初は嫌がっていたけれど、少しずつ慣れていこうと僕はあらかじめタオルとクリーナーを購入していたんだ。毎回きちんと僕が自分のタオルで拭いて安心させた。いつしか彼女は拭いていないハウスボールを躊躇なく触って選び、自分のレーンに持っていく事ができる様にまでになった。

 これは予想外の事だったが、運動のとても苦手だった彼女がなんとボーリングにもハマった。マイボールやグローブが欲しいと言うので買ってあげた程だ。僕も体力は無い方だったがお陰でボーリングが得意と言える程の点数を取れるようになったのは感謝するしかない。


何にでも真剣に全力で取り組んで、上手くできたら僕を振り返って花の咲くように笑うんだ。僕は僕だけに見せたあの顔を久しぶりに見たくなった。

釣りに一緒に連れて行けとせがむ唯芽を置いていくのは少し罪悪感があるが、僕は早く覚えてあの頃の様に唯芽に教えてやりたかった。


最初はそう思っていたのだが、

一度経験してみれば僕自身が釣りに夢中になっていた。一緒に行く部下の村瀬君との交流も楽しく、雑誌を購入して勉強したり、釣りについて話すのも楽しくてしょうがなかった。

釣りをしていない時も釣りの事を考えては道具を眺めてみたりメンテナンスをしたりした。唯芽が色々な趣味に打ち込んでる時はこういう気持ちなんだろうか。とにかくこんなに楽しい事は唯芽と交際を始めた頃以来だった。


 とはいえあまり釣れない今日は釣具をセットしたまま缶コーヒーを飲んでぼんやりしていた。

「課長、この動画すごくないですか?」

 村瀬君が見せて来た動画はどう見てもうちの庭に見えた。最初に庭の風景が映った時に見えたあの窯は唯芽が作った物だ。

「この庭……!ウチだよ。妻が作ったウッドデッキだ。」


 完成したウッドデッキを見て、びっくりして息が止まるかと思った。

「えっ。奥様、凄いですね!でも家族に内緒で家を公開しちゃったんですね…。」

僕の両親が残した家だ……。僕は少し複雑な気持ちになった。


「でも今まで家に閉じ込め何もさせて来なかったんだ。仕事以外は常に家に居た事にも気付いていながら僕は自分が安心したい為に何も言わずにきた。釣りも一緒に始めたいと言ったのにこうして自分だけ楽しんでる。彼女は今まで家族に尽くして来て、最近やっと自由に過ごし始めたんだ。もし問いただしたりしたら、真面目すぎる性格だから全てをやめてしまうかも知れない。だから妻から打ち明けてくれるまで待とうと思うよ。」


村瀬君は少しの間考えてから口を開いた。

「この動画を撮ったのは息子さんでしょうか。奥様に声をかける前に一度息子さんと話してみては。」

「いや、慎重な和樹が自分の家をインターネットに公開するとは思えない。普段からネットリテラシーには厳しい子だったはずだ。」


急に増えたDIYの知識、そもそもあの子がこれを1人で組み立てるのは最初からあるパーツを買ってきたとしても普通は不可能ではないのか?

和樹でないとしたら動画を撮ったのは誰だ?


 僕は唯芽の交友関係は知らない。知らないというか、そもそも唯芽は人が苦手だ。出て行った父親が異常なまでに厳しく、常に他人からの評価を気にする様にひとときも気を抜かない様にと言い聞かせて育てたから人が怖くなってしまったのだとお義母さんに聞いた。そこへきてあの事件だ。

子供を授かるどころか僕と結婚する事さえ奇跡だったと言ったぐらいだ。だから唯芽に限ってそんな事はあり得ない。


 いやしかし、人嫌い、しかも相当な男嫌いである唯芽が僕にだけ執着した頃の事を思い出し、僕は血の気が引いた。

もしも波長の合う相手が現れたなら、彼女は恐らく自分を止められはしない。


「それならもしかしたら部長から聞かれないと、ずっと言う気はないかも知れませんよ。息子さんでないならこの動画を撮った人物も気になりますし、ずっと知ってた風を装って探ってみてはどうです?心の広い男を演出して奥様に惚れ直してもらうんですよ。」

村瀬君が下手な冗談で場を和ませようとする。

「ふ。そうだね……。帰ったら聞いてみるよ。」

僕は村瀬君のアドバイスに従えば、その時は何もかも上手くいくような気がしたんだ。


 正直聞いてみて良かったと思う。普段の僕なら絶対に聞かなかった筈だ。今まで唯芽を制限する様な事は極力避けてきた。制限すると彼女は相手に不信感を持ち心を閉ざしてしまうからだ。


だが今回だけは、村瀬君に話して良かったと思う。


あの唯芽と和樹の顔…。まさか和樹が知っていたとは。和樹が関わっているならば、やましい事は無いだろう。和樹はしっかりしているし、人一倍生真面目な唯芽が愛する息子に対して後ろめたい事をする筈が無いからだ。僕は和樹が僕の代わりにサポートについてくれてると知って心から安堵する。


「前の職場の友達の初ちゃんと一緒に動画作り始めたの。でも勢いで上げたものの律樹さんの家だから、怒られるかもと思ったら言い出せなくて。そしたらバズっちゃって……。実際和樹にはこっぴどく怒られて、懐中時計で買収して、拝み倒して内緒にしてもらったの……。」


 動画を撮った人間は前の職場で知り合った女性らしかった。あの精巧で高価そうな懐中時計を渡したのはそういう訳か。僕は唯芽をあやす様に髪に軽く触れた。動画を撮っていたのは女性だと知って安心する。


「君が楽しくできてるなら構わないさ。僕も1人で釣りに行って悪かったよ。」

「うん。隠しててごめんね。許してくれてありがとう。あなたに嫌われなくて良かった。」

そう言う唯芽は、まるで捨てられるのを恐れている様な目をしていた。僕が君を捨てる訳が無いというのに。


「僕の誕生日も手作りのプレゼントを期待しているよ。」

唯芽の髪を弄りながら言った。

「ふふ。期待してて。」

唯芽は一瞬虚をつかれたような顔をして、

そしてようやく、ほんの少し笑った。

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