第2話 綾子

長テーブルをさらに横に並べて、その上にハンドベルが並んでいる。

そしてその前に女性ばかり十人が並んでいる。

一人三つくらいのベルを担当して、一つの曲を奏でる。

ベル一つが一つの音だから最低でも八つ。

さらにベルが並ぶ。


「聡子さん。ちょっと早いわね」指揮棒を振りながら綾子は指示、と言うよりダメ出しをする。

「はい」

「あと沙織さん。ちょっと響きが長いから、ベルさわっても良いから止めてね」

「はい」


綾子がこのハンドベルサークルの指導兼、指揮者になって五年が経つ。

初めは気が進まなかった。

自分は声楽がメインだ、ハンドベルなんて、門外漢どころか見たこともなかった。

世話になった先輩が引退するので、代わりにやらないかと言うことになった。

目の前にいるのは普通の主婦に見えるが、半分以上、音大出だったし、でなくても何かしらの楽器をやっていた人が大半だった。

経験者比率が多いと言うことは、このサークルのレベルが高いと言うことだが、そのぶん、ハードルは高くなる。

全くの未経験者は入りづらい。

こういうサークルでは門戸が広くないと、いざ何かあると人がいなくなるので、誰でも気楽に入れるようにして置かないといけない。


綾子は考える。

みんなどういうつもりでこのサークルにいるのだろうと。

でもまがりなりにも、音大を出ている。

自分の実力で完全に諦めた人でも、音楽に未練がある人は少なからずいると思う。

ところがそういう人と、そうでない人の温度差というのは、時にいざこざを起こす。

今日も始まりの時だ。

吉村さんが遅刻してきた。

大したことではない。

家の事情、もっと言えば子供のご飯の準備。

ほんとにたいした事ではない。

でも、ほぼ同じ環境の沙織さんが苦言を呈する。

「ちょっと吉村さん」

「はい」

「その態度はないんじゃないかしら。遅れて来て」

「ああ、ちょっと夕食の支度に手間取って」

「そんなの言い訳よ。何のためにここに来ているの」その沙織さんの言い方に吉村さんもちょっと腹を立てたようだった。

「何のために?じゃあ沙織さんは何のためにハンドベルをやっているんですか」

「何のため?」

こういうサークルは、温度差があって当たり前。

本気の人。

暇つぶしの人。

ベルが面白そうと思ってやっている人。

音大出が半分、大半が何らかの経験者という中にあってもだ。

そこに、何のためやっていると言ってしまっては温度差が露見してしまう。

やばいと思って綾子はすぐに止めた。

「はいそこ。もう良いから。時間もないし。始めるわよ」


この人達は幸せだと綾子は思う。

音楽なんて諦めて、普通の生活をした方がどれだけ人生が豊かになるか。

結婚して、子供を作って、家族の心配。

子供の心配。

綾子はそういうものに背を向けて生きてきた。

そのなれのはてが、定年間近の音楽教師だ。


綾子はクリスマスイヴにやる発表会の演目の確認をして帰る。

音大の声楽科といったって、本当に凄い子は海外に行ってしまう。

だから音大を出て、音楽で食べていけるならこんなに良いことはないが、残念ながらそういう子は極めて少ない。

綾子は教師になって三十年になる。

いくら数が少ないとはいえ、三十年やっていれば相当数の子を指導してきた。

その中で、ソリストとして活躍できているのは三人くらいしかいない。

その三人だって、元々海外にて一時期日本を拠点に、その時だけちょっと指導したという感じだ。


預かった鍵を掛けて、警備室に鍵を返して、外に出た。

綾子が外に出ると、背広姿の初老の男が立っていた。

「武雄さん?」

「ああ、久しぶり」男は照れたように手を上げた。



落ち着いて話すには居酒屋とかよりファミレスの方がいい。

コーヒーも飲み放題だ。

「どうしたの、いつ日本へ。いつまでいるの。彼女、出来た。あっごめんなさい。ご結婚されているわよね。お子さんとかは?」綾子は三十五年前にタイムスリップしたかのように話す。

それはまるで少女のようだった。

「勘弁してよ質問攻めかい」

「ごめんなさい。なんだか懐かしくて」

「綾子は元気だったの」

「あたしは相変わらず。孤高の声楽家よ」

「まだそのキャッチフレーズなんだ」

「もう結婚したと思った?」

「この間まではそう思っていた。でも最近まだ一人だということを知った」

「うん。縁がなかったというには、良く言いすぎよね。自分で選んだ道だから」

「綾子は、これからどうするの」

「どうするって」

「そろそろ定年だろう」

「うん」

「武雄さんこそ。もう定年過ぎてるでしょう」

「今は嘱託で働かせてもらっている。給料は安いけどね」

「奥様は?死ぬまで働けとか言われてる?」

「いや、独身だよ」

「離婚。したとか?」

「違うよ一度も結婚していない。綾子と一緒だよ」

「なによそれ」

「アッごめん。一緒にするなって」

「いえ別に、なんで結婚しなかったの、武雄さんの会社なら、結婚して、ゴルフとかやって、子供にお金がかかって、定年になったら悠々自適な生活。そういう普通の生活が出来たでしょ」

「同期とかが結婚して、人生の墓場だなんて言っているのを真に受けてさ、この年まで独身で、好きに生きてきた。」

「そうなんだ。後悔している?」

「綾子は?」

「私は、って質問を質問で返さないでよ」

「ああ、ごめん。ちょっとね。この年になると、何もないんだよ。家もある、車もある。でもそれだけなんだ」

「何が言いたいの?」

「綾子は、自分の人生、これで良かったと思うかい」

「当然でしょう。だって自分で選んだ道だもの。後悔なんかしていない」

「それは後悔したら今までを否定するからだろ」

「違うわよ。それは確かに・・・」そこで綾子の言葉がとまった。

綾子の思いは巡る。

自分が指導している人達。

確かに音大を出て。

音楽に未練があって。

ハンドベルくらいでも音楽に接したいと思う主婦になった人達。

でも家族がいて、子供の成長が楽しみで。

子供の事で頭を悩ませて。

でもその全てが自分にはなかった。

確かに若かったときは自分の選択に迷いはなかった。

同期の恵理子が世界に羽ばたいて有名になった。

口では良かったねと言ったけれど嫉妬しかなかった。

そんな恵理子が、三十を超えた位であっけなく乳がんで死んでしまった。

友達が死んだ悲しみより、いい気味と言う思いが心の中に浮かんでしまったことが、綾子は今でも自分を許せない。

だからこそ恵理子の分まで音楽に邁進して行こうと誓った。

でも結局は音楽教師になれただけだった。

音楽で食べていける人間は一握りだ。

その中に入れたことをラッキーと思わなければならないのに、どこかに敗北感があった。

そしてそんな物を忘れる術を身につけていたはずなのに。

武雄の出現で引き戻される。

「どうしたの、綾子、顔色が優れない」

「ごめんなさい。何でもないの」酷く落ちこむ。

忘れていた物を思い出したような、そして、それを思い出させたのは、お前だと綾子は心の中で叫んだ。

「武雄さんこそ、なんで結婚しなかったの。一人がいいとは言ったって、私なんかと違って、結婚していた方がいろんな意味で仕事上も良かっただろうに」

武雄の顔がひどく思い詰めている。

なにか気に障ることを言ってしまったのかと綾子は心配になった。

「綾子が、一人だったからかもしれない」

「えっ、何を言っているの。あたしと武雄さんが結婚しないこと、なんの関係があるの」

「綾子。もう、良いんじゃないか」

「何が」

「もう、一人で頑張るのは」

「何を言っているの」綾子は自分の声が震えているのが分かった。

「俺は一人でいることがもうイヤなんだ。だから綾子さえ良かったら」

「何言っているの、そんなことしたら、今までのあたしの人生は、生き方は、全部だめだったということになるじゃない」

「そんなことはない。今までの人生があるから、これからがある」

「だって、じゃあ今までいろんな物を我慢して、耐えてきたのは何だったの」

「だからそれは今からでも」

「帰る」そう言って綾子は席を立った。

「綾子」後ろで武雄が呼んでいることは分かっていたが、それを振り切って、綾子は店を後にした。



練習が始まる前の部屋で、すでに来ているメンバーがいる。

綾子は聴く気もないが会話がなんとなく耳に入る。

「沙織さんの旦那さん一度も聴きに来てないんですか」

「そうなのよ。子供はママ頑張ってなんて言うんだけどね」

「ハンドベル、良く思われていないんですか?」

「そういうわけでもないんだけれどね」

「照れているんじゃないの」つい綾子はクチバシを入れてしまう。

「先生。そうなんですかね」

「あっ、ごめんなさい。私は独身だから、想像に域を出ないんだけれど」

「沙織さん。先生の言う通りよ」

「そうかな」


旦那と、子供の話を同じ立場の人と話す。

あるときは悪口、あるときはのろけ。

綾子はそんな物はくだらないと思っていたが、ちょっとだけ羨ましいと今日は感じた。

それは武雄に再会したからだと言うことは分かっていた。

綾子は武雄のやつめと思った。

武雄は確かに彼氏だった。

三十五年前のことだ。

三十五年間全く接触がなかったわけではないが、昔の知り合い程度の距離感だった。彼氏だったということさえ、忘れかけたような関係だった。

いきなり現れて、いったい何だと言うんだ。

でも武雄と別れなければ別の人生があったかもしれない。


「さあ、皆さん練習始めますよ。次はクリスマスイブの演奏なんですから。ハンドベルはクリスマスのためにあると言っても過言ではありません」するとメンバーから笑いが漏れた。

綾子は指揮棒を振りながら思い出していた。


(綾子。もうだめだ。あたし、もう辞める、これ以上歌続けられない)

絶対に有名になると誓い合った親友の美弥子だ。


(綾子あたし。もう声楽諦める。結婚するの。彼が言うの、このまま続けていても、結婚してもいろんな形で音楽には関われるだろうって)

また別の仲間、晴美だ。


みんなそうやって挫折していった。

指揮棒を振りながら、今、目の前にいる音大崩れの主婦たち、ああ、この人達はあのときの、美弥子や晴美だ。

辞めてもみんなそうやって音楽に関わって行こうとする。

あの時辞めていった美弥子や晴美だって、聞けば何らかの形で音楽に関わっているかもしれない。

今、目の前にいる、メンバーたちのように、普通の家族という幸せを持ちながら、ほんの些細な音楽と接しながら。

かつて綾子はそういう人達を脱落者と思っていた。

でも今は。

決してそんな風に思えない。

綾子には得られなかった物を大切にする、人生をまっとうに生きている人達だ。


「先生。先生」

「えっ」綾子は我に返った。

どうにも想いの縁に落ち込んでいたようだ。

「どうしたんですかボーッとして。それに顔色が」メンバーの一人が言ってくる。

「いえ、大丈夫。皆さんのベルがとても素敵で、聞き惚れちゃったの。さあ皆さんハンドベルは冬の楽器よ」

「そうなんですか」と笑いながら、メンバーの一人が言う。

「そうよ、私はそう信じています。クリスマスイブには観客に、冬の音を聴かせましょう。そしてクリスマスの奇跡を起こしましょう」綾子の言葉にメンバーはそんなオーバーなと思いながらも、なんとなくその言葉にのった。

そして音大や、楽器をやっていた頃に戻ったかのように、声をそろえて。

「はーい」と返事をした。



デパートの従業員通路にメンバーが並ぶ。

時間になった。

綾子はメンバーを見つめる。

「さあ。皆さん。行きますよ、最高の音を作りましょう、そして私たちも楽しみましょう」綾子はみんなを先導するように会場へと歩いて行く。

武雄さんがいる。

綾子は一瞬喜んだが、次の瞬間不安になる。

怒っていないだろうか。

この間あんな風に別れたのに。

全員が配置について、綾子がくるっと観客の方を向く。

そしておそるおそる武雄の方を見る。

武雄は笑顔で綾子を見ると、胸の辺りで手を軽く振った。

綾子は武雄が怒っていない事を知り、なんだか嬉しくなった。

そして棒を振る。

静かにクリスマスソングが始まる。

今は武雄がこの時期に会いに来てくれたことが奇跡のように感じる。

クリスマスの奇跡だ。

綾子は嬉しくなって指揮棒に力が入る。

ハンドベルの音が高らかに冬の音を奏でる。

ああ、嬉しい。

嬉しい。

そして綾子は思った。


冬の音が聞こえる。


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