Ⅱ-誤

 あなたはもう、ネットから遠く離れてしまった。

 ほかの少女たちは談話室でテレビを見てにぎやかにしゃべっている。あなたも談話室にいるけど、少し距離を置いた場所に座っている。テレビは見ず、本を片手に、中庭の噴水が絶えまなく水を噴き出し続けているのに目をやる。ときどきカモの群れやシロサギがやってきて羽根を休める。大きなプラタナス、アカシアやソテツの葉が風でざわざわ揺れている。あなたは、それらを眺めている。まるで波のようだね。佐世保の海が懐かしいよ。

 ねえ、あんた。シミュラってSNS知ってる? あたしたちみんなアカ持ってつながってんだよ。退所した連中ともつながってて、いまどこで何やってるのか全部わかるんだ。あんたもやらない? 参考にもなるし、楽しいよ。

 あなたは首を横に振った。いまは読書の最中だ。何を読んでいるのか全然興味ないけど、スティーブン・ジェイ・グールド『ニワトリの歯』下巻の表紙がちらっと見えた。「メメント・モリ」はラテン語で「人に訪れる死を忘れることなかれ」という意味で、「メメント・ウィウェーレ」は「生きることを忘れるな」。ことわざではなく、聖書の言葉でもなく、ゲーテの言葉。あなたは後者の言葉に目を見開かされたようだ。

 バイシュン少女とイジメ少女は、シュミラで売春組織の元締めをやっていた。ふたりがマインド・コントロールしていた少女たちが退所した後も、SNSというハイテクを駆使し、ずっとコントロールできていたのだ。

 バイシュン少女はネットバンクを残高チェックして、予定された振り込みが確認できると、その報酬としてカラダを売った少女たちに多額の送金をした。イジメ少女は、カラダ売りの少女たちの決定的かつ卑猥な写真や動画をもとに、裏切ったらこれらをネット公開すると恐喝した。カラダ売りの少女たちは言いなりなるしかないと、さらに男たちにカラダを売りまくった。イジメ少女はすでにカラダ売りの少女たちの性交した無修正動画と写真をバラまき(いわゆる“公開処刑”)、稼ぎに稼いだ。男たちはすぐに飽きがくると予測し、イジメ少女は新人の少女たちが集団で無残に犯されるのを高画質で撮影し、少女たちの顔と性器がくっきりと映った動画を違法サイトで続々とアップした。カラダ売りの少女たちはほかに稼ぐ方法を見つけられず、しまいにはクスリ少女が提供した最新の違法ドラッグを次々に手を出し、身も心もボロボロになるまで使い果たし、元締めの少女たちは完全に使いものにならなくなったら容赦なく捨てた。

 カラダ売りの少女たちはなぜそんなに簡単にクスリに手を出すのかというと、男がゴムの先端にたっぷり塗した強烈な麻薬の粉で少女を無理矢理犯し、膣粘膜は否応なしに麻薬成分を素早く吸収するから麻薬成分は粘膜から血管に素早く流れ込んで脳の受容体で興奮快楽物質ドーパミンがドバドバ分泌し、こうして“シャブイキ”は成功する。まるで全身が氷になったように冷たい快感が音速でぞくぞくと走り、痙攣が永遠に続く(ような錯覚が起こる)。一度麻薬の味を知った少女たちはそれなしでは済まなくなり、カラダを売っているとき以外は前後不覚となって、自分はいったい何のために生きてるのか考えたくなくて逃避したくなり、報酬は金ではなくすべてクスリになる。カラダ売り少女たちは初めから生ゴミとなる運命だった。元締め少女たちはカラダ売り少女たちを骨の髄からしゃぶる最強の悪魔だった。

 ふたりの少女が退所したときのこと。バイシュン少女は一生分稼いだから後はもうすることがなく、イジメ少女もこれからは心新たにし、ふたりで外国に行って羽振りの良い暮らしをしようと思い、以前からパスポートと旅券を手配させ、黒塗りの高級車に乗ったとたん惨殺された。遺体はバラバラにされ、海に沈め山に埋めた。がしかし、発行されたパスポートと旅券が受理され、少女たちは行方不明にはならなかった。ときどき、少女たちの絵葉書が届いた。


 寮長のお父さん、寮母のお母さんへ

 おひさしぶりです。

 わたしたちは、青年海外協力派遣隊で、いまマニラに来ています。

 毎日とても忙しく、勉強にもなります。

 来月からオーストラリアに行きますので、どうか返事は出さないでください。

 また葉書を出します。

 おふたりに 感謝を込めて


 ふたりが満面の笑みで肩を並べて映った写真に、寮長も寮母も思わず涙した。こんなに立派に成長して。やはり、愛あふれるわたしたちの教育は正しかったのだ、努力は報われた、と確信し、互いを固く抱きしめ合った。

 誰もいない暗い廊下で、ふたりの少女が手をつないで静かに立っている。ドアを開けたあなたは、ふたりを見つめる。ふたりもあなたを見つめる。ふたりのうちひとりの少女が言った、ねえ、あんた、人殺しなんでしょ? あなたは黙っている。ここにいる人たちみんなが非行したなら、ここにいるのはしょうがない。けど、あたしたちはそうじゃない、何も悪いことしてないのにどうしてあたしとかのじょがここに入らないといけないの? あなたは混乱した。…何もしてないのに? わたしもちょっと意味がわからなくなったけど、ああ、そういうことだったの。つまりこのふたりは、実の親とか親戚から性的虐待を受け、実家にはいられず、ここに一時避難されてるってこと。

 かのじょたちのトラウマは闇より深い。トラウマ、いわゆる外傷後ストレス障害(PTSD: Post Traumatic Stress Disorder )は、“通常”の対処システムでは解消できない症状が出現する場合を指すという定義で、通常ではない“非常”の対処システムがあり、外傷性記憶はその対処システムの過剰作動の結果だと考える精神科医もいる。いつも怯えていて、心が落ち着かなく、不安定で、眠ることができず、処方薬を飲んでおり、昼間でも意識が遠のいている。想起は非自発的、受動的、しばしば侵入的であり、その感覚はフラッシュバックとなり、パニック障害かと思われる。いきなりテーブルや石の壁に頭をがんがん打ち続ける。突然、白目を出して口から泡を吹いて痙攣し、職員たちが押しとどめて医務室に運ぶ。一昔前ならエクソシストとか狐憑きとかいって、霊性の高い神父や祈祷師が悪魔祓いに対処したけど、一向に治らなかった。まあ当然でしょ。

 いまは精神科医とか心理カウンセラーに取って代わられたけど、性的虐待を受けた少女たちのトラウマはかなり根深く、簡単に「自分にはトラウマがあって」なんてそうそう言えない。そもそも「トラウマ」という自覚はないんだから。つねに「死の恐怖」が隣り合わせのシェル・ショック(砲弾ショック)の傷病兵と同じ。治るとか治らないとかの問題ではないのかも。非行少女もカウンセリングしてみると、性的虐待があったと判明するに違いない。それを知った職員たちは、少女たちをどうケアしていいかわからなくなる。大人たちにひどい暴力を振るわれ、大人たちが手厚く保護する。性被害の少女たちは見分けがつかなくなって混乱し、職員たちに脅えている。いっぽう、少女たちに性的ハラスメントをするあくどい職員たちもいまだにいる。

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