「夜風と栀子の香り」

夜風がそよそよと吹き抜け、栀子(くちなし)の花の清らかな香りが空気を包み込んでいた。鈴木太白と千葉夕嬌は肩を並べて座り、沈黙が二人の間に漂っていたが、それは決して気まずいものではなかった。


太白は夕嬌をちらりと横目で見た。彼女の視線はずっとベンチの上に置かれた花束に向けられていて、その花を通して遠い昔の記憶を辿っているかのようだった。


「もし彼が、君がまだこうして覚えていることを知ったら……」

太白は静かに口を開き、声を抑え気味に続けた。「きっと喜ぶだろうね。」


夕嬌は少し驚いた様子で、一瞬目を見張ると、顔を彼の方に向けた。口元にはどこか複雑な微笑みが浮かんでいた。

「分からないわ。喜ぶのかも……でも、もう会うことはできないの。」


太白はすぐには返事をしなかった。夕嬢の言葉には一抹の悲しみが混じっており、「引っ越した」というだけの話ではないような気がしたが、彼はそれ以上追及しなかった。ある種の話題は、話したいと本人が思うときにだけ耳を傾けるべきだと分かっていたからだ。


そのとき、太白のスマートフォンの画面がふと明るくなった。彼がちらりと見ると、それは沖田玉妃からのメッセージだった。


「ありがとう、おやすみ。」


たった一言。それでも、穏やかだった心の湖に重い石が落ちたかのように、太白の気持ちは一気に乱れてしまった。彼はスマートフォンをぎゅっと握り締めたが、すぐに返信することはせず、画面を急いで暗くした。


夕嬌は彼のその動作に気付き、顔を上げて尋ねた。「玉妃のこと?」


太白は一瞬たじろいだが、小さく頷き、控えめに「うん」とだけ答えた。隠そうとしたものの、その声にはいくらかの不安が滲んでいた。


「彼女、返事をくれたのね?」

夕嬢の声にはほのかな失望の色が混じっていたが、それでも平静を装っていた。


「そう、さっきね。」

太白はため息をつきながら続けた。「でも……最近、彼女はなんだか上の空で、あまり話そうともしないんだ。」


夕嬌はじっと太白を見つめていた。彼女は言葉を選びながら答えるべきかどうか、しばらく考え込んでいるようだった。そして、静かにこう言った。

「時々、人は何かを一人で向き合いたいと思うことがあるわ。たぶん、彼女も少し時間が必要なのかもしれない。」


「でも、なんだか彼女がもう昔みたいに俺を信頼してくれていない気がするんだ。」

太白は低い声でそう言い、視線を下に落とした。困惑と痛みがその瞳に隠しきれず浮かんでいる。「俺たち、前はなんでも話せたのに。」


夕嬌は目を伏せ、スカートの裾をぎゅっと握り締めた。胸の奥に淡い痛みが走ったが、平静を保とうと努めていた。

「君、彼女と接する方法を少し変えてみたことはある?」

彼女はそう言って一旦言葉を切り、慎重に次の言葉を探した。

「もしかしたら、君の今の気遣いが、彼女には少し……」


彼女はまた一瞬考え込み、低い声で言葉を継いだ。

「プレッシャーになっているのかもしれない。」


太白はその言葉を聞いて眉をひそめ、真剣に考え込んだ。

「プレッシャー……?」


夕嬌は小さく頷いた。

「玉妃は繊細な子でしょ?もし彼女が君の期待に応えなければならないと感じたら、逆に距離を置こうとしてしまうかもしれない。」


太白は黙り込んだ。これまで彼女の冷たさをそんな風に考えたことはなかった。しかし、夕嬌の言葉には妙に説得力があり、それが全く的外れだとは思えなかった。


二人はそれぞれの思いに沈み、言葉を交わさないまま夜風に吹かれていた。夕嬌の髪がそっと揺れ、太白の肩をかすめていった。


「太白。」

夕嬌は突然口を開いた。その声は穏やかで、どこか真剣だった。

「いくつかのことは、そんなに急いで答えを求めなくてもいいのよ。時には、待つことも一つの優しさだから。」


太白は顔を上げ、彼女の言葉に感謝の念を込めて微笑んだ。

「ありがとう、夕嬢。君と話すと、いつも心が軽くなる気がする。」


夕嬢は微笑んだが、それに返事をしなかった。彼女自身、太白への思いやりが彼の苦悩をどれだけ和らげられるのか分からなかった。それでも、たとえ一瞬の支えにしかならなくても、彼の隣にいることを選んだのだった。


公園を後にする際、太白は夕嬢を家まで送ると言い張った。二人は肩を並べて歩き、街路樹の並ぶ通りでは街灯が二人の影を長く引き伸ばしていた。その影は時折重なり合い、すぐにまた離れていった。


「明日、学校で部活の活動があるんだよね?」

太白は何気なく尋ね、場を和ませようとした。


「うん。会場の設営を担当しないと。」

夕嬢は頷きながら答えた。「ちょっと面倒だけど、もう慣れっこだから。」


「手伝おうか?」

太白は笑みを浮かべながら言った。その声には本心からの申し出が感じられた。「どうせ明日は特に予定もないし。」


夕嬢は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。

「大丈夫。このくらいのことなら、一人で十分できるから。」


「そっか。」

太白は肩をすくめて答えた。「じゃあ、頑張ってな。」


夕嬢は小さく「ありがとう」と答えたが、それ以上は何も言わなかった。実際のところ、彼女は助けを必要としていないわけではなかった。ただ、太白にこれ以上の負担をかけたくなかったのだ。


二人は無言のまま歩き続け、夕嬢の家の前にたどり着いた。彼女は振り返り、太白を見上げて控えめな微笑みを浮かべた。

「今夜はありがとう。送ってくれて。」


「気にしないで。おやすみ。」

太白は軽く手を振り、彼女がドアを開けて中に入るのを見届けた。そのドアが静かに閉まるまで、彼はその場を離れなかった。


静まり返った通りに一人残った太白は、夜空を見上げた。彼の脳裏には玉妃の後ろ姿が浮かび、夕嬢の言葉が思い返される。


「待つことも、一つの優しさ……か。」

彼は呟きながら、家に向かって歩き出した。その背中を街灯が照らし、彼の影はひとり寂しく長く伸びていった。

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