二十四夢「おかえりなさい」
部活が終わった後、俺と八重は女子バスケ部の終わりを待って、木町と合流した。日はすっかり傾き、八重の家を目指して歩く。
先頭を歩く八重の後ろを大人しくついていく俺は、全く知らない道を黙々と歩く。
「ハヤシくんはヤエさんの家に上がったことはあるの?」
「ないよ。女子の家なんか久々やわ。そういう木町はどうなん?」
「私も初めて」
今更ではあるが、八重が家に誰かを招く想像ができない。もしかして、俺達が初めてなんてこともあり得るのでないだろうか。
再び無言になって歩く俺達。
しばらくすると、ある一軒家の前で八重はとうとう歩みを止める。
「ここ。さぁどうぞ、上がって」
八重がどうぞと戸を引いて招く。俺と木町は恐る恐ると言った感じで「おじゃましま~す」と言って扉をくぐる。八重は恥ずかしそうに「おかえりなさい」と言った。
八重の家に入るなり、俺と木町は広い玄関で立ち止まった。八重も玄関で固まる二人を見て困っている。
「「ひ、ひろぉ~~~!」」
外からでもわかるほどの立派な家だったが、中に入ってそれは確信した。
まず三人揃っていても余裕のある広い玄関も驚きだが、目の前に続く廊下には更に驚いた。二人がすれ違っても余裕で通れるほどのゆとりがある廊下に、大きく緩やかな勾配のついた階段。
八重に洗面所まで案内してもらいながら、どこを見ても綺麗にされている家に声がでる。
「おいおい、まじかよ」
「す、すごい」
二台並ぶ洗面台で木町と俺は順番待ちすることなく手洗いをした後、リビングにつながる扉を開く。
居間の広さと綺麗に整えられた家具をみても平然としていられるようになった。玄関から洗面所に来る間に散々驚いたことで、綺麗に整えられているリビングを見ても今更驚かなくなったのだ。
リビングに入ってぼーっとしていた俺と木町にキッチンから「こっち」と八重の声が聞こえてくる。
既に準備を始めている八重に続いて俺達もキッチンを借りる。
目的は諏訪が二番のエプロンを持っていたことを証明するための偽装工作。
「ねぇ、本当にするの?」
まだ不安そうにしている木町に笑って返す。
「おう。もちろん。せっかくやし楽しもうや。それに、誰かとカレー作りとか自然教室以来やぞ」
「自然教室……っ! 懐かしい!」
「……あったわ、忘れてた」
一緒にカレー作りに意識が引っ張られたようで、木町の顔から不安の色が薄れる。八重も少し楽しんでいるのか、普段の無表情にも綻びが生じている。
自然教室とは、小学五年生の時に四泊五日で行う自然体験活動のことだ。
学校から緑沢山の自然の中へ移動し、長期宿泊体験を通して人や緑、地域社会とふれ合い、理解を深めることを目的としている。その一環として、チームでの長距離移動やカレー作りがある。最終日には涙のキャンプファイヤーでフィニッシュだ。
「でも、俺、普段家事せんから何したらええかわからん。何したらええ?」
昼休み中に家事はしていると言った俺だが、料理に関しては母さんに任せきりで全く手伝わない。一つしていることがあるとするなら、洗濯物を入れたり、畳んだりするくらいだ。手料理なんて何をしたらいいかはわからないし、下手したらダークマターができるかもしれない。
本当に何をしたらいいかがわからない俺に、呆れ顔の木町と冷たい目をしている八重が決まってある方向に指を差す。
指を差した方向には炊飯器があった。どうやら米を研げと言う意味らしい。
「そういえば、自然教室も洗い場で米をといでたかもしれんわ」
少し情けない気持ちになって、黙って水で研ぐことができなかった。
隣でピーラーを使って皮を剥いている木町が「たしかに包丁使うの苦手そう」と言って、八重がそれに鼻で笑う。
「なんやねん」
「似合うなって思って」
「は? なんか馬鹿にしてるのはわかったぞ」
「まあまあ。……あっ! ほらハヤシくん米が零れてるっ!」
「え? うわ! ごっ、ごめん!!」
「前言撤回。似合わない。甲矢仕不器用すぎ」
「……す、すまん」
何も言えないことが悔しい。黙っているのが情けなくて話しかけたが、結果は黙っている時以上に情けない気持ちになった。これ以上惨めな気持ちにはなりたくないので黙って米を研ぐ。こんなことなら黙って俺一人でやればよかったと後悔する。
木町が皮を剥いた人参やジャガイモを手渡しし、受け取った野菜を八重が次々に包丁でカットしていく。
「わぁ……! ユメちゃんカット上手だね!」
「どれどれ、おお! ほんまや。流石、自炊してるだけあるなぁ」
「……別に。あと、ユメちゃんって何、やめて」
照れくさそうにして顔を背ける八重を見て、俺と木町が顔を見合わせてニヤついた。
「ええ~? いいじゃん!
「俺もユメちゃんってよぼっかなぁ」
「……ダメ。よくない」
「ええ? いいと思うのにな、ユメちゃん」
「どうしたんユメちゃん? 顔を少し強張ってるで、ユ・メ・ちゃん!」
「それ以上その名前で呼ばないで……」
揶揄った後も、木町と八重は話に花を咲かせながらも器用に皮を剥き、渡された野菜を次々にカットしていく。
俺もご飯の準備を進める。研ぎ終わった米を炊飯器にセットして、『スタート』のボタンを押すとピピピと音が鳴った。その直後炊飯器に数字が『00:45:00』と表示された。
「なぁ、八重。なんか四十五って表示されたけど、これでええん?」
「そう、それで完了。それじゃあ、……アナタはエプロンの準備でもしてて」
「おう。おーけー。……『アナタ』ってなんや、仕返しか?」
「……何か問題でも?」
「いや、別に。じゃあエプロン取ってくるわ」
鞄に入れたエプロンを取りに行くと、後ろで野菜の準備をしている女子二人の声が聞こえてくる。
「ねぇ、やっぱりユメちゃん、ハヤシくんと付き合ってないの?」
「……。」
「ねぇってばー。ユメちゃ~ん」
「や、やめて、危ないからっ」
八重が包丁を持っているのを最後に見た。まさか木町は包丁を持っている八重にじゃれているのか、危ないな。止めてやるかとエプロンを持ってキッチンまで戻る。
「ね、ユメちゃーん~」
「付き合ってはないけど、……。」
「おい、お前ら危――」
「好き……みたい」
最悪のタイミングで重なってしまった。
「ぶな――、ちょっ……!」
「――っ! へぇ~!」
未来の記憶があるという八重の気持ちに、全く気付いていないわけではなかった。当然俺も意識はしていたが、ここまではっきりと言葉にしてもらったことはない。
エプロンを持って固まる俺に、木町は意味深にニヤついて俺と八重を交互に見る。
八重はこっちを見て、手にあるエプロンを一瞥した後、キッチンの空いたスペースを見ながら言った。
「……。あ、エプロンありがとう。そこに置いといて」
さっきの告白などなかったことのように、あっさりと次の話題に移る。
数秒固まった後に、木町が動き出したのを見て、俺も遅れて反応する。
キッチンの空いたスペースに青い袋を置いて、手持ち無沙汰になる。
「あの、ユメちゃん」
木町が少し気まずそうに言った。
「なに。……あとユメちゃんはやめて」
「リビングは使っても大丈夫?」
「うん」
「ありがとう。じゃあ、あの、ハヤシくん」
話が俺に振られると思っていなかったので、つい反応が遅れた。
「あ、ごめん、なに?」
「ちょっとの間、リビングに行っててくれない?」
「え? あ、はい」
キッチンに三人もいる状況で、広くて綺麗なキッチンとは言え少し狭い。何もしていないのは俺だけで、邪魔だと言われた気がして大人しくリビングへ移動する。
リビングにはエル字のソファとテーブル、そして大きくて薄いテレビがあった。
ずっと立ちっぱなしなのもおかしいかと、ソファにゆっくりとした動作でかつ、静かに腰を落とす。自宅のソファと違って、柔らかく沈んで心地いい。どこまでも沈んでしまいそうな包容力があった。
ずっと感じていた疲労が溶けるようだ。このソファでダメになっていくことを実感する。眠りに落ちる数秒前のように心地がよい。まるで、自分の帰る場所を見つけたような気持ちに浸る。
「このままテレビをつけてゆっくりしたい気分やぁ」
自分にだけは聞こえる声量で、つい本音が漏れた。
人様の家でそこまでくつろぐことはできない。それくらいわかっている。わかっていてもつい思ってしまうくらいには最高の座り心地だ。
「いいのよ~。ゆっくりしていっても」
ソファでくつろぐ俺の後ろから八重の声がした。いや、八重の声はもっと涼し気な感じだが、耳に残る声は大人びた落ち着きを感じる声だった。つまり、八重と似ているだけで声に違和感を感じた。
ゆっくりと首を後ろに倒すと、ギリギリの視界に八重が映る。ピンクの長髪を纏めて前へ流す八重が俺の後ろに
……いや、違う! 誰や!
「うおっ!? 八重じゃない!」
「あら、サキちゃんと勘違いしてたのね~。どうも、母です~」
「す、すいません。凄く似てたものですから」
八重は黒髪にインナーカラーがローズピンクの色で肩口まで伸びたボブだが、目の前の女性は桃色一色で長髪だ。ここまで綺麗なピンク色の髪は初めて見た。
「――ってお母さん!? わっか?! ってっきり姉かと……」
母と言って胸の前で手のひらを振っている女性はすごく若い。まだ三十歳前後に見えるくらいだ。
「あ、母さん。帰ってたんなら言って」
「あ、サキちゃんサキちゃん! 彼は誰?! イケメンが家にいるわぁ~! 彼氏!? 彼氏なのねぇ~! 愛しの一人娘にとうとう春かぁ」
「ちょっと、やめてよ」
遠いどこかを見るようにしてふわふわとしているお母さん。ふわふわとしている母と冷たい雰囲気の八重は全く似ても似つかない。つい数秒前までは似ていると思ったが、並んでみるとそうでもない。
後、俺はイケメンじゃない。
母さんや親戚に、友達のお母さんとかから言われる『イケメン』や『男前』は真に受けてはダメだが、八重のお母さんに言われると少し調子に乗ってしまいそうになる。改めて、普通より下メンと自覚しなくては勘違いしてしまう。
そうだ、自己紹介がまだだった。
「あ、すいません。自己紹介がまだでした。俺……僕は
「まあ! しっかりしてるのねぇ。お母さん感激! よしっ、覚えた! ケンゴウくんね。いい名前~。きっといいお母様なんだわぁ」
八重のお母さんから『お母様』と、そのワードを聞いて少し胸騒ぎを感じた。なぜかはわからないが、もやっとした何かが……。
すると、キッチンからずっと様子を伺っていたらしい木町が八重の後ろからひょこっと姿を現した。
「あ、すいません。ユメちゃんの友達の木町です! 同じクラスメイトです!」
「あらあら! またまた日焼け?の似合うベッピンさんね! ごめんなさいね気付かなくってぇ」
「あ、いえそんなお気になさらず! 私も背が小さくて、あまり気付かれにくいんです。あと、これ日焼けじゃなくて褐色肌なんです」
「まあ! そうなのごめんなさいね? でも、大丈夫ぅ~。似合ってるわよっ! お母さん太鼓判を押しちゃうからっ!」
「へっ? あ、ありがとうございます」
木町とお母さんは話し続けているが、俺と八重は黙ってやり取りを聞いていた。
「で、あなた達は一体何をしていたのぉ? 何やらキッチンからいい匂いがするけどぉ~」
鼻をすんすんとして、匂いの元であるキッチンまで歩いていくお母さんは、そのまま調理された野菜に鍋を見て「あぁ~」と拳を手のひらに乗せてポンとする。
「花嫁修業ね~!」
「違いますっ!」
「……はぁ」
「あら? 違った? てっきりケンゴウ君を求めて争っているのかと~」
全力で否定する木町と、ため息を吐くだけの八重がお母さんに振り回されているのを、リビングから見届けることしかできなかった。
「
八重が母に対して放った言葉に、目を見開いてしまった。
「え? 今、ユメちゃん私のこと、ミノルちゃんって……っ!」
「……別に。共犯者の仲やから。なに? 嫌なわけ? 人のことをユメちゃんなんて勝手に呼ぶくせに?」
「いや、いやいや!! 全然大丈夫! むしろ嬉しいくらい!」
「……あっそ」
「さて、仲がいいのはわかりました! それで? これ、カレー作りでしょ~? でもなんで三人揃ってカレー作りをしているの? サキちゃんがカレーを食べたかっただけなら、お友達を呼ばないわよねぇ?」
勘の鋭いお母さんに何も言えずにいると、八重が何かを言おうとしたタイミングでお母さんはそれを防いだ。
「まあいいわぁ。これ以上は邪魔かしら? 可愛い娘に、お友達が頑張ってる姿をみれてお母さん満足! それじゃあ困ったことがあったら言ってね~? お母さん二階にいるから」
ほわほわとした雰囲気のまま、お母さんはリビングの扉を開く。そのまま扉を閉じて二階へ上がるかと思ったら、振り返って俺と目が合った。
「ケンゴウくん、いつでもいらっしゃいね~。お母さん歓迎しちゃうからっ」
「――っ。は、はい。ありがとうございます。お世話になります」
「……ええ、またね」
今度こそ扉は閉まって足音が二階へと続く。お母さんの前で自然と緊張していたようで、肩の力が抜けた今自覚した。
「ハヤシくん? 大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫や」
脱力して、思わず前にあるソファに全身をドカッと預ける。そのまま深い息がでた。
あの目だ。
お母さんのあの目が、脳に焼き付いている。まるで、野獣が野生の獲物を狙う瞬間のような……。より正確に言うなら、品定めをする時の目って感じか。
肌の粟立つ体験に動機が荒い。無警戒のタイミングで音もなくやってくるのが一番胸に堪える。
「甲矢仕、ごめんね……」
「え? あぁ、いやすまんなこっちこそ。部活疲れかな、はは」
おかしな俺の様子を心配してくれているらしい八重に、「なんともない」と言ってソファを立つ。
ソファを立ってキッチンに向かう俺に木町はエプロンを渡してきた。
「さ、腰巻つけて!」
「え、つけんの? つけんくてもよくない?」
元々は、エプロンを広げたところにカレーを垂らして染みにしようと思っていた。しかし、木町は違ったみたいだ。
「何言ってるのよ! カレーの染みが付くときはエプロンをしているときでしょ?」
「ま、まあそうやけど」
「悪いことをするなら徹底してしないと! これが偽装工作だなんてわからないように徹底的に!」
どこかでスイッチの入ったらしい木町に気圧されないよう、「そうやな」と語気を強めてエプロンを腰に巻いて準備を始めた。
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