青晴《アオハレ》
クサバノカゲ
渡せなかったチョコ抱え、彼女はぽつんと座ってた
夕暮れ近付く校内は、まだ浮わついた空気が残っていた。
なにせ
さっきも、甘い空気をまとって歩く男女とすれ違った。
あれは三年の高橋先輩と、隣のクラスの長澤さんだ。
大人しくて、長い黒髪に丸顔とタレ目が愛らしい彼女は、俺の周りにも隠れファンが多い。
ひとまず、見なかったことにしておこうと思う。
ちなみに今年も一個たりとてもらえやしない俺は、浮わついた空気がいたたまれず速攻で教室を出たものの、まんまと弁当箱を忘れてしまい、しぶしぶ校舎に舞い戻ったところ。
空の弁当箱を放置して帰ったりしたら、母親からのチョコさえ危うくなる。
「あ……」
無人だと思って勢いよく戸を開けた俺は、窓際の席にぽつんと座った女生徒と目が合って、しばし固まる。
彼女の机には、愛らしくラッピングされた小さな紙袋が鎮座していた。まちがいなく本命向けだ。
「ごめん、誰かと待ち合わせ? 俺すぐ帰るからさ」
「ちがうの、だいじょうぶ。私も出るとこ」
ショートカットに凛々しい眉毛。
すらりと背の高い、陸上女子の清水さんだ。
いつも明るい彼女だが、なんだか声のトーンが低い。
「あ、そうだ! これ貰ってくれないかな」
「えっ。……ええっ!?」
唐突な申し出に、俺は二度見しながら聞き返す。彼女が「これ」と言って差し出しているのは、机の上にあった紙袋だ。
「や、ちがうちがう! ちがくて、うん、ちがうって言うか、なんだろ、
慌てて「ちがう」をめちゃくちゃ強調しながら補足する彼女。
もちろんわかってはいたけれど、ほんの一瞬だけ浮かんだ夢のような展開は、儚くも打ち砕かれた。
胸のまんなかを、ちくちくと微かな痛みが通り過ぎる。
そこで思い出す。
さっきすれ違った長澤さんは、清水さんと仲良しで、よく一緒にいるのを見かけたこと。
そして高橋先輩は、陸上部のエースだ。
たぶん、
「だから、お返しとかいらないから、気にせず食べて」
「いいの? いやあ、今年もゼロ記録更新だと思ってたから、めちゃめちゃうれしいよ。ありがたくいただきます」
わざと明るく声を張って、俺は彼女の想いの込められているだろう袋を、うやうやしく両手で受け取る。
「ちゃんと食べてね。ていうか、いまここで食べて感想聞かせなさい」
「えっ、うん」
俺のノリに乗るように、彼女はちょっと高飛車に、そんなことを言い出した。
急かされるまま袋を開けると、さらに丁寧な個包装のなかから、小さなハート型のチョコをとりだして口の中に運ぶ。
カリっと固い表面をかみ砕くと、柔らかいチョコの優しい甘さが口のなかに広がった。トリュフチョコレートというやつだ。
きっと、愛情をたっぷり込めて手間をかけて作ったのだろう。
そう考えたら、よくわからない感情が内側から溢れてきて、目頭が熱くなった。
「えっ、うま……これ清水さんが作ったの? すごい! めっちゃめちゃうまいよ! お店のやつみたい!」
それを誤魔化すように、俺はとにかく褒めまくった。
「でしょう? 我ながら自信作なんだ」
ようやく、彼女の口元に笑みが浮かんだ。それを見て、俺の目頭もすこし落ち着く。
「いや、ほんとに美味いよ。もしこれを食べ逃したやつがいるなら、一生かけて後悔すべきだね」
俺は言葉を続ける。
心の底からそう思う。ざまあみろ、高橋先輩。
だけど、それを聞いた彼女の口元からは再び笑みが消えてしまった。
しばしの沈黙。二個目をすでに口に入れてしまっていた俺の咀嚼音だけが、虚しく響く。
彼女はやがて、なにかを
「…………優しいんだね」
「優しくないよ。優しいとか言われたことないし」
「ううん、優しいよ」
「優しくないんだけどなあ」
「優しい!」
照れもあって、押し問答になってしまった。
勢いで俺は、つい口を滑らせてしまう。
「じゃあ、好きな子には優しくなるのかな」
「え…………それ……」
再び、沈黙が落ちる。
最低だ。これじゃあ、失恋に便乗するみたいじゃないか。
ずっと密かに大事にしまってきた想いが、台無しだ。
「さてさて! 俺は帰るよ。清水さんは部活とかないの?」
「うん、今日は自主練だけど、少し走ってこようかな」
沈黙に耐え切れず、俺はまた声を張る。
語尾が震えてしまった気がするけれど、清水さんは何事もなかったように答えてくれた。
そのまま、二人で教室を出て、無言で歩く。
昇降口と部室棟の分かれ道で、どちらともなく立ち止まった。
「じゃ」
「うん」
小さく手を振ると、小さくうなずき返して彼女は背を向ける。
俺も背を向けて、振り切るように足を踏み出した瞬間。
「ね」
「うん?」
声に振り向くと、彼女の笑顔があった。
「お返し、してくれてもいいんだぞ」
それだけ言って再びくるりと背を向けると、見惚れるくらい綺麗なフォームで走り去っていった。
呆然と見送った俺は、彼女の言葉の意味を考えてみたけれど、ありもしない恋愛経験をこねくり回したところで、真意はわからなかった。
だから一か月後に改めて、お返しといっしょに確かめようと思う。
歩き出した俺は、そこでようやく気が付いた。
「……あっ、弁当箱……」
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