青晴《アオハレ》

クサバノカゲ

渡せなかったチョコ抱え、彼女はぽつんと座ってた

 夕暮れ近付く校内は、まだ浮わついた空気が残っていた。


 なにせ二月十四日バレンタインデーの放課後である。

 さっきも、甘い空気をまとって歩く男女とすれ違った。

 あれは三年の高橋先輩と、隣のクラスの長澤さんだ。


 大人しくて、長い黒髪に丸顔とタレ目が愛らしい彼女は、俺の周りにも隠れファンが多い。

 ひとまず、見なかったことにしておこうと思う。


 ちなみに今年も一個たりとてもらえやしない俺は、浮わついた空気がいたたまれず速攻で教室を出たものの、まんまと弁当箱を忘れてしまい、しぶしぶ校舎に舞い戻ったところ。

 空の弁当箱を放置して帰ったりしたら、母親からのチョコさえ危うくなる。


「あ……」


 無人だと思って勢いよく戸を開けた俺は、窓際の席にぽつんと座った女生徒と目が合って、しばし固まる。

 彼女の机には、愛らしくラッピングされた小さな紙袋が鎮座していた。まちがいなく本命向けだ。


「ごめん、誰かと待ち合わせ? 俺すぐ帰るからさ」

「ちがうの、だいじょうぶ。私も出るとこ」


 ショートカットに凛々しい眉毛。

 すらりと背の高い、陸上女子の清水さんだ。

 いつも明るい彼女だが、なんだか声のトーンが低い。


「あ、そうだ! これ貰ってくれないかな」

「えっ。……ええっ!?」


 唐突な申し出に、俺は二度見しながら聞き返す。彼女が「これ」と言って差し出しているのは、机の上にあった紙袋だ。


「や、ちがうちがう! ちがくて、うん、ちがうって言うか、なんだろ、あて・・がなくなっちゃったから」


 慌てて「ちがう」をめちゃくちゃ強調しながら補足する彼女。

 もちろんわかってはいたけれど、ほんの一瞬だけ浮かんだ夢のような展開は、儚くも打ち砕かれた。

 胸のまんなかを、ちくちくと微かな痛みが通り過ぎる。


 そこで思い出す。

 さっきすれ違った長澤さんは、清水さんと仲良しで、よく一緒にいるのを見かけたこと。

 そして高橋先輩は、陸上部のエースだ。

 たぶん、なのだろう。


「だから、お返しとかいらないから、気にせず食べて」

「いいの? いやあ、今年もゼロ記録更新だと思ってたから、めちゃめちゃうれしいよ。ありがたくいただきます」


 わざと明るく声を張って、俺は彼女の想いの込められているだろう袋を、うやうやしく両手で受け取る。


「ちゃんと食べてね。ていうか、いまここで食べて感想聞かせなさい」

「えっ、うん」


 俺のノリに乗るように、彼女はちょっと高飛車に、そんなことを言い出した。

 急かされるまま袋を開けると、さらに丁寧な個包装のなかから、小さなハート型のチョコをとりだして口の中に運ぶ。


 カリっと固い表面をかみ砕くと、柔らかいチョコの優しい甘さが口のなかに広がった。トリュフチョコレートというやつだ。

 きっと、愛情をたっぷり込めて手間をかけて作ったのだろう。

 そう考えたら、よくわからない感情が内側から溢れてきて、目頭が熱くなった。


「えっ、うま……これ清水さんが作ったの? すごい! めっちゃめちゃうまいよ! お店のやつみたい!」


 それを誤魔化すように、俺はとにかく褒めまくった。


「でしょう? 我ながら自信作なんだ」


 ようやく、彼女の口元に笑みが浮かんだ。それを見て、俺の目頭もすこし落ち着く。


「いや、ほんとに美味いよ。もしこれを食べ逃したやつがいるなら、一生かけて後悔すべきだね」


 俺は言葉を続ける。

 心の底からそう思う。ざまあみろ、高橋先輩。

 だけど、それを聞いた彼女の口元からは再び笑みが消えてしまった。


 しばしの沈黙。二個目をすでに口に入れてしまっていた俺の咀嚼音だけが、虚しく響く。

 彼女はやがて、なにかをこらえて微かに震える声で、絞り出すように言った。


「…………優しいんだね」

「優しくないよ。優しいとか言われたことないし」

「ううん、優しいよ」

「優しくないんだけどなあ」

「優しい!」


 照れもあって、押し問答になってしまった。

 勢いで俺は、つい口を滑らせてしまう。


「じゃあ、好きな子には優しくなるのかな」

「え…………それ……」


 再び、沈黙が落ちる。

 最低だ。これじゃあ、失恋に便乗するみたいじゃないか。

 ずっと密かに大事にしまってきた想いが、台無しだ。


「さてさて! 俺は帰るよ。清水さんは部活とかないの?」

「うん、今日は自主練だけど、少し走ってこようかな」


 沈黙に耐え切れず、俺はまた声を張る。

 語尾が震えてしまった気がするけれど、清水さんは何事もなかったように答えてくれた。 

 そのまま、二人で教室を出て、無言で歩く。

 昇降口と部室棟の分かれ道で、どちらともなく立ち止まった。


「じゃ」

「うん」


 小さく手を振ると、小さくうなずき返して彼女は背を向ける。

 俺も背を向けて、振り切るように足を踏み出した瞬間。 


「ね」

「うん?」


 声に振り向くと、彼女の笑顔があった。


「お返し、してくれてもいいんだぞ」


 それだけ言って再びくるりと背を向けると、見惚れるくらい綺麗なフォームで走り去っていった。


 呆然と見送った俺は、彼女の言葉の意味を考えてみたけれど、ありもしない恋愛経験をこねくり回したところで、真意はわからなかった。

 だから一か月後に改めて、お返しといっしょに確かめようと思う。


 歩き出した俺は、そこでようやく気が付いた。 



「……あっ、弁当箱……」

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