七の巻

神舞い

 内裏に押し込められてから、幾日が経っただろう。もう、昼夜もわからない。

 突き上げる痛みに気を失い、目が覚めれば、食事か厠か湯浴みをして、また襲いくる痛みに耐える。ただただ、その繰り返し。

「さあ孕め、白梅しらうめ。そして、皇子みこを産め。そなたを国母こくもとしよう。さすれば、永遠に、ともに――」

 もはや心は失せたはずなのに、涙だけが、伝っていく。

 幼いあの頃は、確かに美しかった。淡い恋が、胸を温めてくれた。たとえ結ばれなくても、託宣の折に、健やかな顔を見られれば、それでよかったのに。

(……わたくしは甘かったと、仰せになられますの……? 大御神おおみかみ様……)

 化身もできず、力を失い、ただただ穢れていく。

 それならば、何のために、己は生まれてきたのだろう。

 腕をひねり上げられて、振り向く。炯々と光る、縹色はなだいろの瞳。そこにはもはや、恋しく微笑む色は、どこにもなかった。

 獰猛な唸りが、打ち震えて名を呼ぶ。

「ああ、白梅……白梅……もう二度と、放さぬぞ……ああ、白梅……」

 掻きいだき、寄せる唇。苦しく喘いで、貪る所作を受ける。遠く、急ぎ歩みくる足音を聞く。

 たゆたう絹のとばりの向こう、几帳越しに、明確な声が告げた。

「――主上おかみ。ご無礼つかまつりましてございます」

 おもむろに、唇が離れる。眉間に深くしわを寄せて、青星あおぼしが唸る。

若竹わかたけ。ここには立ち入るなと、申したはずだ」

「畏れながら、事は急を要しますれば――福慈岳ふくじのたけが、神火を上げましてございます」

 霞みがかった意識の中で、恐ろしい光景が立ち上る。

 怒り狂い、猛々しく火を噴く、福慈岳。地が揺れて裂け、闇へと呑み込まれていく、数多の民。飢えに耐えかね、互いを喰らい合う狼。そして――。

「委細は、そなたに任せる。早々に下がれ」

「しかし、主上! 此度の変事は、神意にございます! どうか、御目をお覚ましあそばされませ!」

 揺らめく影が、帳へと進む。地を這う声が、轟く。

「……そうか、若竹。そなた、白梅に懸想けそうしたな? 朕から、奪いに参ったのであろう」

 剥き出した、鋭い歯。骨の軋む音が、硬く響く。

 咆哮が、くうを突き抜けた。

「よかろう! その喉笛、咬み裂いてくれるッ!」

 どこに、そんな力があったのだろう。気がつけば、腰に抱きついて、叫んでいた。

「――青星様っ……! どうか、おやめあそばされませ! もう、もう……っ!」

 ゆっくりと、光が立ち消える。

 肩越しに振り返った面立ち。驚いたように瞪った瞳に、必死に訴える。

「このまま、神々の御怒りをお鎮めになられなければ、この豊葦原とよあしはらは、命なき地となりましょう。どうか、お出ましになられ、わたくしに、〈要〉の巫子みこの務めを果たさせてくださいませ……!」

 おもむろに、青星が座す。柔らかく手が取られ、包み込まれる。

 同じ高さになった、縹色の瞳。静かながら、強い口調が囁く。

「白梅。それはならぬと、申したはずだ」

 しかし、その手は震えていた。哀しくて、それでも強く乞う。

「どうか、主上。わたくしの、生涯の願いにございます」

「嫌だ……! そなたを失うなど、考えられぬ……!」

 きつく首が振られる。元服前の、幼かったあの日が甦る。

 しかし、そっと、言葉を押し出した。

「……主上。たとえ、わたくしがまことの伴侶でなくとも、御心をお寄せくださったでしょうか……?」

 わざわざ問わなくとも、わかっていた。傷つけずにいられたなら、どれほどよかっただろう。

「……何を、申す……」

 覇気の抜け落ちた、幼気いたいけな顔。滲みゆく視界。

 心の底から微笑んで、優しく突き落とす。

「真心から、わたくしをお慕いくださっていらっしゃいますのなら――どうか、わたくしの心を、叶えて賜りませ」

 はっとして、その面立ちが歪む。かすれて震えた声が落ちる。

「酷なことを申すのだな、そなたは……」

 縹色の瞳から、はらはらと、涙が落ちる。静かな低い声が告げた。

「……よかろう。そなたの望みを叶えよう」


 物具ものぐ装束を纏った白梅を見つめる。淡雪の舞う曇天においても、その姿は、白く輝いていた。

 どこまでも澄みきって、清らかな佇まい。

 穢されてもなお、俗世から隔絶された様に、己の罪深さを思い知る。獣のさがに打ち克てず、ただただ苦痛ばかりを与えた。

 真朱の瞳と、目が合う。

 優しく微笑む、穏やかな色。それだけで、よかったのに。

(……愚かであった……私は……)

 おもむろに、細腕が振り上げられ、鈴の音が、玲瓏に響き渡る。

 ひとつ。また、ひとつ。

 華奢な肢体が舞う度に、清澄な音色が、天へと昇っていく。

 灰色の雲間から一筋、日の光が差し、白梅を、皓々と照らした。

 途端、激しく閃き、白い炎が、舞う姿を包み込む。燃え盛る輝く純白にくるまれて、白梅は、舞い続けた。

 その祈りを聴き届けたのだろう。光の道を伝って、尊い陽光が降ってくる。

 言葉では形容しきれないほどの美しさ。誰に問わずとも、理解した。息を呑んで、麗しいかたちを仰ぐ。

(……大御神おおみかみ様……)

 白梅が、ついにくずおれる。

 跪いたまま、高々と広げた腕。美しい光が、白梅をいだく。

 深々と受け入れて、抱き返す姿。その、深い喜びに満ちた笑み。己の知らぬ色。

 どれほど交わったところで、睦み合えなければ、それはただの――。

 まばゆい眼差しと、視線が合う。悠然たる微笑。白梅と寄り添い、天へと帰っていく。

 雪雲が空を覆い、魂を喪った骸が、静かに倒れる。

(全ては、大御神様の手の内に……)

 涙がただただ、頬を伝う。

 それならば、為すべきことを為すまでだ。

「――若竹」

 短い返答。進み出た姿に命じる。

「社を建てよ。この豊葦原のために、命を捧げた――尊い大御巫おおみこを祀る社を」

「主上……」

 悲嘆の声を漏らし、濡れた頬で、若竹は、恭しくこうべを垂れた。

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