序章
第1話
木魚の音とお経がBGMのように絶え間なく響く。肝試しにはぴったりの、あちこち壁紙が剥がれ不気味な染みが付き、埃の積もった廃ビル。真っ暗なそこを、懐中電灯の明かりがか細く照らす。
誰も立ち入らないそこに、今日は複数名が入り込んでとんだ騒ぎになっていた。これはまた近所からクレームが来るかもしれない。
「お疲れさまでした! ゆっくり休んで! きみも! あなたも! よく頑張ったね」
お経の合間を縫って、やけに優雅な声が届く。霊にまでエレガントな男だこと。その割に力が強かったりするので、ぱしん! ぱしん! と勢いよくお札を壁に貼り付ける音もよく響いていた。あれ、大量に貼ったのを最後剥がす作業が面倒なんだよなあ。また手伝わされることを考えて憂鬱になる。
お経の止まないまま、しばらく休んでいた歌声が再開した。お経に負けじと高らかに声を張る、どこまでも届く伸びやかなアカペラのJPOP。ここは三階だったはずだ。一階にいるのによく届くなあ。綺麗な声だよ? 綺麗ではあるのだけど。お経と歌が混ざっているのだ。耳が忙しい。なんだこのカオスな空間。
そんな暗いけれど異様に喧しい廃ビルで私は何をしているのかというと、壁に縋りながらなんとか一歩一歩前に進んでいた。ああ辛い。腕が疲れた。私、朝から夕方までは元気の有り余る小学生を相手に格闘していたんだぞ。夜になってまだこんな重労働を強いるなんて鬼じゃないだろうか。
ずるずる、ずるずる、ととてつもなく重たい何かを引きずる感覚。気を抜いたらすこーん!と後ろに持っていかれそうだ。
「うわ! 何それきもい! え、めちゃくちゃ怖いんだけど! お前、よくそんなの憑けて平気でいられんな」
「うるさいよ! こっちだって好きで憑けてんじゃない!」
座禅を組みお経を唱えていた男の目の前を通ったら大仰に後退りして叫ばれ、お経はぴたりと止んだ。何事か、と向こうで歌いまくっていた別の男も歌を止めてこっちを見てくる。
「何、なんでタイヤ引きのパントマイムしてんの」
「やるかそんなもん! 重くてこんな風にしか歩けないの!」
「颯太。先生、腰に超でっかい蛇巻き付いてんの。俺、こんなん見たことない」
「うげえ。まじ? 鳥肌立ったんだけど。俺だったら正気でいられないわ。見えなくてよかった。早く東に祓ってもらってこいよ」
「やれるもんならやってるわ! あいつ急にどっか行って全然見つからないんだもん!」
「がんばれー」
「がんばれ」
あの野郎、ふらっといなくなりやがって。私一人じゃこうなるに決まってるのに。私といたら効率が良いから来てほしかったんじゃないのか。
「せんせー! せーんせー! ごめーんどこー!」
「東ああああ重いいい動けんん」
馬鹿みたいに脳天気な声が聞こえて、はっとして出せる限りの声を振り絞る。ばたばたばた、と決して速くなさそうな賑やかな足音が近付いてきて、東は私を見つけた。
「うわあ」
人を見て第一声でドン引きするんじゃないよ。動けるようになったら引っ叩くぞ。
「なんかでっかい蛇が近付いて来たかと思ったら重すぎて動けなくなったんだけど。私、巻きつかれてるらしいね?」
「うん、めちゃくちゃに巻きつかれてる。他にもまーたいっぱい引っ付けてえ」
「私が進んで憑けてきたみたいに言うな。向こうから来るんだって」
「はいはい」
私の言うことを軽く流した東は、屈んでそっと私を抱きしめた。途端に体から力が抜けて、どんどん軽くなっていく。目を閉じて緩く口角を上げた東の表情はひどく穏やかで、霊を祓うとかいう目的がなかろうと人にくっつくのが好きなんだろうなあと思う。一歩間違えばセクハラだというに、私に腕を回してきゅ、と抱きしめるときの顔が悔しいことに嫌いじゃない。そしてもう一つ、堪らなく私の心をくすぐるのがその声だ。
「ごめんね、あっちで楽しくやりな」
成仏させる霊に話し掛けているのだろう、東はいつも私に触れると何か話している。
「ごめん、ちょっとキワどいとこ触る」
そうかと思うと今度声を掛けられたのは私だった。
「今更」
ため息を吐きつつ承諾する。ふは、と笑った東は、温かな手で私の脇腹を一度だけ撫で下ろした。
それで終わり。ずるりと重たい物が取れる感覚があって、東は私の背後に向かって話しかける。
「駄目だよ。ううん、この人はだーめ。いずれみんなそっちに行くんだから、先に行って楽しくやってな」
優しく笑って首を横に振って。そうやって簡単に心臓を鷲掴んでくるんだから、大変な人と出会ってしまった、と私はそのときのことを思い返していた。
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