第2話:守りたいものを、守るために

 カルマシティは、夜ごと深まる闇が街の隅々まで覆い尽くし、重苦しい静寂に沈んでいた。かつては笑い声や足音が絶えなかったこの街も、影獣の脅威が増す中、人々は灯りを消し、息を潜めるようになっていた。


「影の守り人」という存在の噂が囁かれる。無明むみょうの力を操り、影獣に立ち向かう彼ら。しかし、その力は影獣を討つたびに使用者の心を蝕み、やがて守り人自身が影獣と化す宿命を抱えていた。守護者でありながら破滅を内包する彼らは、孤独にその運命を歩むしかなかった。


 凛は暗い路地の奥で、眼前にいる影獣を睨みつけていた。妹・香奈を影獣に奪われた彼は、その仇を討つという目的のみに生きる理由を見出している。復讐のために手にした黒い刀には冷たい光が宿り、漆黒の翼を背に広げた凛の姿は、まるで闇そのもののようだった。


「これが終われば、次はどこへ……?」


 彼の独り言に答えるように、黒猫の姿をした結女ゆめが静かに声をかけた。


「凛、これ以上その力を使い続けるのは危険よ。無明の力は、あなたを影獣に近づけるだけだわ」


 凛は一瞥だけ結女に視線を向けたが、すぐに冷たく影獣の残骸に戻した。


「どうなろうと構わない。俺の目的は香奈の仇を討つこと。それ以上でも、それ以下でもない」


 結女は凛の返答に悲しげに目を伏せた。彼が無明の力を使うたび、その瞳には赤い輝きが増し、身体には黒い模様が広がっていた。それでも彼を止める術を持たない自分がもどかしかった。


「それでも、凛が壊れてしまうのを見ているだけなんて……」


 結女の呟きに応えることなく、凛は刀を背負い歩き出した。その背中は冷たく硬い壁のようで、彼女の思いを受け止める余地を持たないかのようだった。


 影獣を討ち続ける日々。凛は疲労すら感じず、ただ復讐を遂行する刃として闇を歩んでいた。しかしその夜、彼の前に新たな影が立ちはだかった。冷ややかな瞳の女性、黒華くろかだった。


「君が噂の黒い影か。なるほど、その姿は影獣と何も変わらないな」


 冷静な声が闇に響く。凛はその言葉に反応し、黒華を冷たく睨みつけた。視界に映るその姿は、夜闇のような黒髪が滑らかに背中まで伸び、鋭い眼差しがまるで矢のように射抜く。身体にぴたりとフィットした黒い軽装アーマーは、動きやすさを重視した設計で、緊張感漂う戦闘の準備を物語っている。


「俺に何か用か?」


「無明の力を使い続ける先に何が待っているのか、君も知っているはずだ。それを理解してなお、その道を進むつもりか?」


 凛は鼻で笑った。


「どうなるかなんてどうでもいい。香奈の仇を討つ。それだけだ」


 黒華は鋭い眼差しで彼を見据えたまま、冷たく言い放った。


「その力でどれだけの影獣を討とうと、君自身が影獣になる未来からは逃れられない」


 凛は黒華の言葉を聞き流すように刀を構えたが、その表情にはかすかな苛立ちが浮かんでいた。


「俺のやり方に文句があるなら、お前も討つか?」


 黒華はわずかに笑みを浮かべた。


「いずれ君が影獣と化した時は、私が君を討つ。それが私の使命だ」


 彼女の言葉は冷たく突き刺さり、凛の心にわずかな揺らぎを生じさせた。しかし彼はその動揺を押し殺し、冷たく答えた。


「ならばその時まで待て。今は俺のやるべきことを邪魔するな」


 黒華はその答えに満足したのか、刀を鞘に収めて背を向けた。


「君がその道を選ぶなら、それを止める権利はない。ただし、いずれ選択を迫られることを忘れるな」


 彼女の背中が闇に消えた後も、凛はその場に立ち尽くしていた。影獣を討つたびに深まる自身の闇と、無明の力がもたらすリスク。その代償を理解しつつも、彼は再び歩き出した。


「香奈のためだ。それ以上の理由なんて必要ない」


 その言葉を心に繰り返しながら、凛は次の影獣を求め、夜の闇へと足を進めていった。


 凛は次の影獣を求め、廃墟となった街を歩いていた。足音だけが冷たい夜風に溶ける中、結女が再びその影に寄り添うように現れた。


「凛……また何も食べてないのね」

 

 彼女の静かな声は、夜の静けさに溶け込むようだった。


「戦いに余計なものは必要ない」


 凛は短く言い捨てると、結女の存在すら意識しないかのように歩みを続けた。


 結女はふっと溜息をつくと、彼の隣を並んで歩く。


「無明の力が、あなたを少しずつ蝕んでいるのを感じるわ。それでも、私はあなたを信じてる。凛、あなたは影獣になんてならない」


 凛は一瞬だけ足を止め、結女を振り返った。その瞳には、赤い光がかすかに浮かんでいる。


「……どうしてそう思う?」


「だって、あなたは香奈を守ろうとしたじゃない」


 結女の言葉には、彼女自身が抱える迷いすら込められていた。


「俺は守れなかった」


 凛は短くそう言い捨て、再び前を向いた。


「守れなかったから、今こうして戦っている。それだけの話だ」


 結女はその背中を見つめ、彼の心に深く根付いた痛みに気づきながらも、それを癒す術を持たない自分に苛立ちを覚えた。


 その夜、凛は廃墟の広場で影獣と対峙していた。無明の力を解放した彼の一撃は影獣を圧倒し、黒い刀が空を裂いた。影獣の断末魔が響くと同時に、その血の霧が凛の周囲に広がる。


「まだ足りない……」


 呟くように言葉を漏らす凛の瞳には、赤い輝きが増していた。彼は無明の力を限界まで引き出し、影獣を斬り伏せるたびに、自分の内側に芽生える異常な感覚を押し殺していた。


 その異常を察知したのは黒華だった。


「また会ったな、黒い影」


 彼女の冷静な声が闇を裂くように響く。


「お前か」


 凛は刀を構えたまま、彼女を睨みつけた。


「影獣を討つたびに君の力が増しているのは事実だ。だが、同時に君の心が影獣に近づいていることもな」


 凛は黒華の言葉に反応せず、無言で刀を鞘に収めた。


「俺には時間がない。話をするつもりなら手短にしろ」


 黒華はわずかに目を細め、彼に一歩近づいた。


「君が影獣になったとき、それを討つのはこの私だ」


 その言葉には、黒華自身の覚悟が滲んでいた。かつて彼女も無明の力に囚われた弟を討たねばならなかった。その記憶が、今目の前の凛と重なって見えたのだ。


「影獣になる気はない」


 凛は静かに答えた。


「だが、香奈の仇を討つためならば、どうなろうと構わない。それだけだ」


 黒華はしばし沈黙した後、背を向けて言い捨てた。


「その覚悟が本物なら、最後まで貫くがいい。だが、その先で自分を見失うな。お前は私が討つ価値のある男だ」


 その後、凛は影獣討伐を続けていたが、結女は彼の変化に気づいていた。無明の力を使い続けるたびに、彼の身体を覆う黒い模様が広がり、彼の瞳が時折獣のような輝きを帯びているのを目にしていた。


「凛、このままでは……あなたが壊れてしまう」


 その呟きには、結女の焦りと決意が込められていた。彼女は凛を止めることはできない。それでも彼のそばで、彼を見守ることが自分の役目だと信じていた。


 数日後、凛が次の影獣を追っている中、新たな気配が彼の前に立ちはだかった。その影は、凛がかつて対峙した影獣よりもはるかに強大なオーラを放っていた。


「……これは?」


 凛の瞳が赤く輝き、刀を握る手に力が入る。


 影獣はゆっくりと口を開き、低い声で語りかける。


「お前もいずれ、俺たちの一部になる」


 その言葉が凛の胸に不快感をもたらし、無言で刀を構える。


「俺が進む道は一つだ。貴様を討つ。それ以上はない」


 闇がさらに深まる中、凛の復讐の旅は新たな局面を迎えようとしていた。


 凛が立ち向かった影獣は、今までのどの影獣よりも強大だった。その巨大な体は闇そのものと化し、動くたびに周囲の空気が歪むような感覚を覚える。影獣の禍々しい咆哮が廃墟の街に響き渡る中、凛は黒い刀を構え、冷徹な声で呟いた。


「どれだけ強かろうと関係ない。すべて斬る。それだけだ」


 影獣が繰り出した禍々しい黒い爪の一撃を、凛は一瞬でかわし、刀を振り抜いた。その一撃は影獣の巨体を切り裂き、黒い霧を吹き出させた。しかし、影獣はその傷口を即座に再生し、不敵な笑みを浮かべる。


「お前の力……まさに影獣そのものだな」


 影獣の言葉に、凛は苛立ちを覚えながらも動じることなく再び間合いを詰める。無明の力を解放した彼の動きは人間離れしており、影獣の猛攻をかわしながら鋭い一撃を叩き込む。そのたびに影獣の体は削られていくが、凛の身体にも異変が起こり始めていた。


 彼の瞳は完全に赤く染まり、手には不自然に鋭い爪が浮かび上がる。背中から伸びる漆黒の翼が、まるで影獣と一体化したかのような異形の姿を形作り始めていた。


 戦闘の場から少し離れた場所で、その様子を見ていた結女は、凛の姿に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。彼の背中に広がる黒い模様、赤く輝く瞳。それは、彼が影獣化に近づいている証拠だった。


「凛! もうやめて! それ以上その力を使ったら……!」


 結女は涙ながらに叫び、凛のもとへ駆け寄ろうとするが、影獣が禍々しい笑みを浮かべて低く唸った。


「お前の友は必死に止めようとしているが……無駄だ。無明に飲まれた者は、二度と戻れない」


 結女の足が止まり、震えた声で呟く。

 

「そんなことはない……凛は、絶対に戻れる……私は、彼を信じてる!」


 その時、闇の中からもう一つの影が現れた。黒華だった。月明かりに照らされたその姿は冷静そのもので、彼女はゆっくりと戦場に歩み寄ると、凛と影獣の間に割って入った。


「凛、これ以上はやめるんだ」


 冷静な声が、しかしどこか切実に響く。


「邪魔をする気か?」


 凛は黒華を睨みつけた。瞳の赤い輝きが増し、彼の声には獣のような唸りが混じり始めていた。


 黒華は一歩も引かず、凛を見据えた。

 

「私はお前を止めるつもりはない。ただ、お前がこのまま堕ちるなら、私が討つ。それだけだ」


 その言葉にはかつて自らの手で弟を討った経験が滲んでいた。彼女の瞳は揺るぎなく、どこか寂しげだった。


「その覚悟があるなら、勝手にしろ」


 凛は冷たく言い放ち、再び影獣に向き直った。


 凛と黒華が共闘する形で影獣に挑む。黒華の精確な剣技と、凛の無明の力による猛攻。二人の攻撃が影獣を追い詰めるが、そのたびに凛の身体はさらに闇に染まり、獣のような姿へと変貌していく。


 影獣が倒れる寸前、凛の身体から黒いオーラが一層強く吹き出した。その場に膝をつくと、彼の背中から黒い翼が広がり、赤い瞳がさらに輝きを増す。


「凛! お願い、やめて!」


 結女の声が響く中、凛は身体を震わせながらも、徐々に獣の唸り声を上げ始めた。


 凛の身体が完全に影獣化しつつある中、結女は震える手で彼に向かって一歩踏み出した。


「凛……私を思い出して!」


 結女の言葉が、彼の中に残された人間らしさにかすかに響いた。その瞬間、凛の動きが止まり、赤い瞳がわずかに揺らいだ。


「結女……俺は……」


 凛の声が震え、理性を取り戻しかけていた。


 黒華がその様子を見て、刀を構え直した。


「戻れるのか? それとも――」


 結女が振り向き、黒華に鋭く叫んだ。

 

「待って! 彼は、まだ戻れる!」


 凛は結女の声に応えるように、ゆっくりと立ち上がった。赤い瞳の輝きが次第に弱まり、彼の身体を覆う黒い模様がわずかに後退し始める。


 その時、影獣が最後の力を振り絞り、凛に向かって猛然と襲いかかった。凛はその攻撃を受け止め、全力の一撃を繰り出した。影獣の身体が裂け、闇が霧散する。


 静寂が訪れる中、凛は刀を収め、膝をついた。


「……俺は負けなかったのか……?」


 結女が駆け寄り、そっと彼の肩に手を置いた。

 

「負けてないわ。あなたは、ちゃんと戻ってきた」


 黒華は二人を見つめながら刀を鞘に収め、静かに呟いた。

 

「無明をここまで抑え込めるとは……だが、次も同じとは限らない」


 凛は結女と共に歪んだ鉄筋が見えるコンクリートの森を出た。影獣の脅威は一旦去ったものの、彼の身体にはまだ無明の力の痕跡が残っていた。


「まだ……終わらないのかもしれないな」

 

 凛はそう呟き、夜空を見上げた。その目には、再び立ち上がる決意が宿っていた。

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