傀儡の姫・上巻

安辺數奇

◆◇◇◇◇

◇ただの本好きの街娘と父


いつの頃からか、もはや記憶も定かではないけれど、私は無性に本が好きだ


大公国の首都かつ最大都市で中堅商家に生まれ育って生活は特に不自由なく

少し厳しいけどとても優しい両親、妹と弟の五人家族で楽しい日々を送って

週に一度くらいは近所の親しい商家や貴族などと会食する夜もあったりする

それから毎週ではないけど様々な行事の日など礼拝堂に顔を出したりもして

他の商家の子女と同じように商業組合の女子学校に通う少女時代を過ごした


この学校に上がる頃には少し年上の子たちが読むような本に手を出していて

父はそのことを喜び、次から次へと私のために本を買い込んで与えてくれた

その父は母に、無駄使いするな借りてくればいい、と叱られていたのだけど

とはいえ母は、父と同じように本にのめりこむ私を呆れつつも叱らなかった


古い獣皮紙の本も少しは残っているけど、植物繊維を漉いた紙と版木による

安価な刷り本が登場して百数十年、この刷り本は徐々に普及し、父のような

中堅商家が蔵書で書棚を一杯にすることも少し贅沢だけど可能になっていた

そんな時代だから、私も幼い頃から本に親しむことができたといえるだろう


いやもちろん本に埋もれて生活していたということは決してなく、妹や弟と

また近所の同年代の子供たちとも、一緒になって外で駆け回って遊んだりは

していたし、街には悪ガキもいて言い合いをしたり、ときたま妙なところで

その悪ガキとも意気投合して後で酷く叱られるようなイタズラを仕掛けたり

そういった、普通の子供たちと同じような時間も結構あったのは間違いない

といっても実は、父にも母にも読書時間を制限されて遊びに出ただけだけど



もう少し成長してくると、父がいるときは書斎に入れてもらえるようになり

そのことが同じ本好きとして父にも認められたかなと感じられて嬉しかった


書斎は他の部屋より大きな窓、しかも当時まだ高価なガラス張りだったから

私の生家くらいの中流家庭にとっては割と贅沢なものだけど、父は若い頃に

祖父から事業と家を引き継いで以来、堅実に収益を増やして改装資金を捻出

自宅上層の三階で明るいけど直射日光を避けて南向きに窓を設けてあるから

本が劣化しにくいし、真夏でも室内に射す光は柔らかくて読書に集中できる

むしろ眩しかったのは向かいの家の洗濯物だった、というのが幼い頃の印象


父の書斎で父の本を借りて読む時間は、当時の私にとって最も幸せな時間だ

父は難しい言い回しや古い言葉などわからないことがあれば教えてくれたし

本によって同じ事柄を異なる解釈で説明していることに違和感を訴えた私に

あくまでも書き手が思ったことしか書かれていないのが本なのだと教えたり

そういった、本を深く読むために欠かせない様々なことも私に示してくれた


※訳註:大公国や周辺諸国は赤道より南の地域にあるため、南側は常に日陰

太陽の動きは地球と全く異なり、この世界の季節は赤道の南北いずれも共通



また父は商売で様々な茶葉を扱っているから、季節や気分に応じた選び方や

淹れ方、それに合う菓子なども、書斎での読書の合間に色々と教えてくれた

茶葉の買付から卸売まで手掛けるだけあって知識は豊富で優れた目利き人だ


父曰く、国内産の茶葉なら初夏が旬、熟成の度合いが比較的軽い品が多くて

爽やかで若々しい香りが特徴、初夏から初秋まで季節に合った飲み方がある

淹れたら何も加えず、あるいは柑橘の果皮と砂糖を少々加えて飲むのが美味


逆に遠く東の山脈を越えて輸入される茶葉は熟成が進んでいて味わいが深い

晩秋から春先くらいの季節は、この茶を濃く淹れて牛乳で割って蜂蜜を少々

さらに肉桂の粉末を振ると独特の香りが楽しめるし身体を温める効果もある

国の南部などは牛乳で割らず、甘く煮詰めた果実を口に含んで味わうことも


もっと寒い地域では砂糖だけでなく塩を入れたり、牛乳の代わりにバターを

使うなど、より濃厚な飲み方をすることもあるとか、その逆に暑い地域では

熟成させず蒸した緑の茶葉を使ったり、さらにそれを焙煎した茶もあるとか


まさに本職の目利きならではの生きた知識に、私は書籍とは違った楽しみを

感じながら父の話を聞いて、また淹れてくれた茶を味わいつつ読書も捗った


父が大事な客と商談などするときに書斎から出されてしまうのは残念だった

あと買い付けなど商談旅行で二週間くらい家を空けることもあって、その間

父は家族から離れ離れだし、私には父の不在に加え書斎に入れないのも残念

かなり後で書斎の鍵を預かることを許されたときは、成長を認められた気分


父の商売を手伝えるようになれば商談のときも書斎で一緒にいられるかなと

思ったりもしたけど、きっと他に好きなことができるだろうと父は私に言い

暗に諦めろということかなと考え、私自身も商売がよくわからないので断念



本好きなら自分で文章も書くといいだろう、と日記帳をくれたのも父だった

読むだけでなく書くことを覚えるのも重要と、ペン先の調整も教えてくれる


それまで文字の練習は黒鉛棒を握って書いていて、紙を巻いて汚れにくくは

していたけどすぐ真っ黒な粉だらけになって、手も紙も黒く汚れて嫌だった

それに筆跡も本みたいに綺麗で整った形にならなかったので私は不満だった

だから父が繊細な筆跡を記していたペンは待望の品物、調整も喜んで覚えた


この当時は万年筆がなくて鉄や金のつけペンが主流だった上に、残念ながら

その質も今一つ、すぐ歪んでインクの出が安定しなくなるものばかりだった

手が汚れないよう洗ってから分解し、切り割りを光に透かして隙間を確かめ

紙に引っ掛かるときは砥石で滑らかにして、紙の上を滑らせて具合を確認し

さらにインクを一滴つけて試し書きして問題なさそうならインク溜めを装着

上手く調整できたペン先なら紙の上を滑るようで、書くことも楽しくなった


十代に入る頃になると、金属ペンだけでなく羽根ペンの扱いも教わっている

これも廃れたわけではない、自分で幅など自由に調整できる羽根ペンの方が

装飾性の高い写本を作る職人たちにしてみれば何かと使い勝手が良いものだ

羽根の軸の具合をみながらペン先を削り、いろいろと工夫しては変化をみて

面白くなって楽しんで書いてたら何本も無駄にして父にも母にも呆れられた

けどおかげで古い写本などの筆跡からも色々な情報を読み解けることを知る


一冊目の日記帳を一年ほどで使い切り、紙を束ねて糸で綴って革表紙で装丁

という一連の本作りも教えてもらって私は無地の紙で自分の日記帳を作った

あれから何冊の日記帳を作ったか、少なくとも約十年で棚の横一列が埋まる



学校では授業中に授業そっちのけで教科書を読み耽って教師の話を聞かずに

叱られたり、教科書もすぐ読み終えて別の本を持ち込んで怒られたりもした

おかげで成績は中の上くらいだったか、とりたて勉強ができたわけではない


商業組合の女子学校は後に家政学校と名を改めたくらいで家政科が主だった

その家事実習でも、私はあまり器用でなくて全然だったけど、本を書き写す

ことには人一倍熱中し、休み時間になるたび借りてきた本を自分で写本した


自分が読みたくて筆写していたせいか自然と字も綺麗に書けるようになって

父に道具を借りて製本、装丁まですると、我ながら立派な本が出来上がった

学校の実習ではなく興味の持てることなら、私も少しは器用にできるのかな


私の筆写する様子や出来上がった本などを近くの席の子たちが興味深そうに

眺めてたので見せたら評判になって、同じ本好きの子たちに囲まれるように

なって何人も友達ができて、一緒に街へ出て本屋や他の店を巡ったりもして

私は周りの子たちより小さくてかわいがられて「お花ちゃん」と呼ばれてた


黄金色の髪や瞳が、春の路地に咲く黄色い花々みたいだから、とも言われた

私の誕生日は同学年の中で遅い方だし、小さいのは致し方ないと思ったけど

本名より愛称の方が長いのは、級友たち呼びづらくないのかなとも思ったり


放課後に食べ歩いた店も棚を端から端まで見た本屋も、友達との大切な時間

ときたま街角をふらりと歩く猫など構いながら帰ったり、犬に吠えられたり

そんな、本好き以外は別に特徴ない、そこそこの商家に育った、ただの街娘



だと私は思い込んでたけど、それだけではなかったと知らされることになる

一冊目の日記帳の中ほどに書いてあったから、まだ製本を教わる前だったか




◇不器用な小娘と育ての母、そして血の繋がりのない妹と弟


十歳になった頃だ、父の書斎に珍しく母が入ってきて、読書をしていた私に

話があるから聞いてほしいと言うので渋々本を閉じて従うと、母だけでなく

父まで神妙な面持ちになり、私の生い立ちについての「本当の話」を語った


曰く、私は夫婦の実子ではなく遠縁の娘であり、生まれてすぐ両親とも死去

その私を二人が引き取って、自分たちの子供として育てることにしたという

ほどなく二人の間にも娘が誕生、姉妹として一緒に同じ母から乳を飲んだと


言われてみれば私と妹の誕生日は二カ月違い、他の姉妹よりずっと近いのだ

そして双子というには離れすぎている、どちらにしても不自然な日付の差で

しかも私の方が姉なのに妹の方が背は上、その差も着々と拡大し続けていた

どうやら私の親は、育ての親に比べて相当に小柄な人物だったということか


育ての両親、私が本以外のそういうところに気付く頃合を見計らっていたか

偶然か遠縁だからか髪の色や瞳の色などは似てて、父だけは少し違うものの

育ての母も妹も弟も私より少し濃いだけの差しかなく、家族でない可能性を

意識するのは背丈や誕生日で違和感を持ったとき、という考えだったらしい


私は驚いて固まってしまったけど、これまで読んできた本の物語にもこんな

展開あったなと考えたら、そんなに深刻なことではないか、という気がした


それに、たしかに私はこの年齢まで妹や弟と全く同じように育てられてきた

私自身が本当に全く疑いなく両親の間に生まれた娘だと思っていたほどだし

私にも実の子供たちと同じくらいの愛情を二人から注いでもらえたのは確実

だから装うまでもなく平静な表情で、育ててくれてありがとうと感謝すると

育ての母は私が表情を失ったと受け取ったのか何なのか、涙を流して謝った


「今まで隠していてごめんなさい、でも私にとっては本当の子供も同然よ」

「いえ、あの、本当に感謝しているんです、私。だから謝らなくても……」



育ての母の様子を見かねたのか、育ての父は彼女を支えて書斎から連れ出し

扉を閉める直前で思い出したように私の方へ振り返り、一冊の本を指し示す


学校の家政科の教師が一人引退したので引き取ってきたという、何冊かの本

少しは学校の成績に役立つ本も読むようにと父が言っていた、その一番上だ

これを読んで育ての母への恩返しになるようなことをしろということらしい


例の一冊目は先ほど手に取ったけど今一つ気乗りせず、次は私が好きそうな

物語だったから、先にそれを読んでいたところに母が来て、あの話になった

きっと育ての父は、私が育ての母に感謝しているというなら言葉だけでなく

行動でも示してみろ、その手掛かりは本で探せ、とか言いたかったのだろう


改めて読んでみると、やはり授業で教わった内容と同じ範囲の本なのだけど

生徒が使う教科書は結論だけが記された印刷本、だけどこちらはその背景や

理由、歴史まで詳しく説明した写本で教科書より何倍も詳しくて断然面白い

ついつい興味深く読み耽ってしまいそうになって、そうだ育ての母のために

感謝を伝えるんだと当初の目的を思い出し、自分にできそうなことを探した


普段なら絶対しない流し読みをしつつ、次から次へ項目を読み進めていくと

授業で作ったお菓子の中に、いろいろな意味を込められたものがあるという

そういえば教師も授業でそんな話をしてたっけ? ほとんど覚えてないけど

私が読んでいた生徒向けの教科書では、あまり詳しく紹介してなかったので

少し興味があったから後でじっくり読んでおきたい、けどまず目の前の課題


「あっ、これはいいかも」


目を留めたのは、まさに文字通り「感謝を伝える意図が込められたお菓子」

何種類かの菓子が該当するとあって、同じ枠の中でも細かな意味合いは若干

異なるらしい、のでじっくり読んで考えて、最もふさわしそうなのを選んだ


こういう紹介の仕方なら私も興味を持って覚えてたかもしれない、というか

まさか育ての父、私に譲る前に自分でも読んでて、この項目も知ってたのか?

あの人ならあり得る、というより部屋を出る直前の表情は、まさにそうだな

いつも私に本の深読みを教えてくれるとき見せる、あの表情そのものだった

何だか癪だけど育ての父の計略に乗るとしよう、育ての母は私と同じ学校で

成績優秀だったというし、お菓子にも詳しいはず、やれるだけやってみよう



実家で商う装飾タイルを壁一面に張った台所、育ての母がそこかしこに配置

している調理道具や材料など手当たり次第に引っ張り出して、作業を始める


しかしいくら本で詳しい手順がわかっても、実際にやるのは全く違うのだと

思い知るまでに、さほど時間は掛からなかった、やっぱり私は不器用らしい

しかも後でわかったけど手の込んだお菓子で、割と熟練を要するものだった

ここで簡単そうなのを選べばいいのに、とか思うのは、大人の判断なのです


いや違うかもしれない、授業でやったときに私は読書ほど真剣になれなくて

適当にやってて身に付かなかった、そう気付いて何だか自分が情けなくなる


「ちょっと、何事なの!?」


尋常でない物音や普段なら台所に寄りつかない私が何やら叫んだりするのを

訝しんで駆け込んできた育ての母が、状況を把握するまでには時間を要した


小麦や何やらの粉が飛び散って真っ白になってるし、蜂蜜で手がベタベタに

その手であちこち触ってしまって手も顔も服も白い斑模様、さらには材料を

混ぜるのが下手で失敗した中身まで辺りに飛散し、今や台所は悲惨そのもの

どうなることかと不安になった私は、思わず捨て猫のような哀れっぽい声に


「おかーさん……」

「えっ、ハナ? 一体どうしたの??」

「ごめんなさい。

 ……えっと、お菓子を作って、一緒に食べたいなと思ったんですけど……」

「あなたいつも台所なんて……。いえ、そういうことだったのね」

「あっ……」


育ての母の目線を追ったら、そこには私が作り方を書き写した紙片があった


やはり育ての母は一目で理解したようで、何やら色々な感情が混ざり合った

複雑な表情をしてたけど、深く息を吐いて手拭を出し、私の顔を優しく拭う


「まったく、この子ったら……。

 慣れないことをしたって、いきなり上手にできるはずないでしょうに」

「うぅ……、だって、おかあさんに内緒で……」

「何をしたいか、もう全部バレました。教えるから一緒に作りましょう。

 ほら手を洗って、そして前掛けも着けなさい。あと髪は後ろに束ねる」

「はい……」

「それから、私からも、ありがとう。

 ちゃんと気持ちは伝わったからね。……何もできてなかったとしても」


私が背を向けて手を洗っている間に、惨憺たる有様になった台所を片付けて

改めて調理道具の支度をする育ての母が、そんな言葉を私にかけてきたのは

きっと照れくさかったのだろう、けど私の方も色々見られて恥ずかしかった

よし、それならお互いさまだから、開き直って二人で一緒にお菓子を作ろう

というより普通の母娘と同じように私が育ての母に教わりながら作るのだな


手洗いを済ませて前掛けを着け、髪を平紐で束ねながら、私の心は決まった


「じゃあ、おかあさん、お願いします。お菓子作りを教えてください!」

「よろしい。ではうちの娘として恥ずかしくないよう、厳しく教えます」

「ごめんなさいお手柔らかにお願いします」

「駄目。そろそろ年頃なんだし、やるからにはしっかり身に付けなさい。

 ……大丈夫、ハナが初心者だってのはわかってるから、まず基本から」

「はい」


育ての母の台所修行は予想以上に厳しかったけど、血の繋がった母と娘でも

きっとこんな風に教えるだろうな、と思ったら私も母の娘になれた気がする

大丈夫、そもそも今まで実の母だと思っていたのだから、今後も母娘のまま



ちなみに、そんな本物同然の育ての母は、私が何も知らないのを呆れていた

お菓子を焼き上げるには当然ながら竈を使うものだけど、あれだけの事態を

起こしておきながら私は火を熾してなくて、何をやっているのかと言われる


「竈は台所仕事の基本。パンやお菓子を焼いたり、他の料理を煮たり焼いたりするときは、火加減が全てです。お茶だって、お風呂のお湯だって火を焚かないとできません。

 そして火の扱いは失敗すれば火傷や火事にもなりかねないから、しっかり覚えなさい」

「はいっ!」


城下のような市街地では薪炭は買うもので、だいたい整った状態の薪だから

焚きつけに用意してある針葉樹の樹皮に火打ち石で火を点けて移せばいいと


「それから、台所も掃除も洗濯も、家事は全て段取りが大事。たとえば生地を寝かせている間に火を熾したり、他の材料を用意しておくの。順序良くやらないと、いつまで経っても終わらないし、せっかく膨らんだ生地が抜けてしまったりと、失敗の元です」

「はい……けほっ」


育ての母は簡単そうに説明してくれるけど、竈に火を入れて加減を調整する

のは本当に難しいし大変、あと最初は煙が部屋に入ってきやすくて、むせた


「……でも、ハナはまず一つひとつの作業ができるようになってからかしらね」

「……はい」


炎が安定してくると煙突に煙が吸われていって気にならなくなるのがわかる



竈の温度を上げる間の生地作りも、育ての母の段取りに従えば驚くほど順調

捏ね鉢に材料を順序正しく入れては、混ぜたり泡立てたり、それらの加減も

また重要だし、混ぜる際に小分けにした方が良い組み合わせなど、色々ある


「こういうのは相性とか、ある程度の法則性があるものよ。

 それを覚えておけば応用が利くわ」

「そうなんですね。知りませんでした」

「あらそうなのね。ハナの学年なら少しは教わってるはずだけど?」

「うっ……、バカな娘ですみません……。

 だからあの本には何も書いてなかったんだ……」

「どうせあなた、授業そっちのけで持ち込んだ本を読んだりしてたんでしょ?」

「はい……。今度からもっと真面目に授業受けます」

「心配しないで、読書禁止なんて言わない。あなたにとっては極刑だものね。今後、読書していい場所や時間をわきまえてくれればいいわ。

 読書は読書で、広い視野を持つのに役立つものだから」

「……そうします」


育ての母は、こうして出来上がった生地を寝かせる間に竈の火加減を見たり

台所の片付けなど私と一緒にやってくれて、時間を上手く使うことを教える


「片付けが済んでもまだ時間が余るなら、その間に読書してもいいでしょう。

 ただし、本に夢中になって頃合を逃すようでは駄目」

「おかあさん、それは私には難しいです」

「今はできなくても、できるようになればいいの」

「はい……。がんばります」

「さあ、そろそろ生地の具合を見ましょう」

「えっ? もうですか? これじゃ一頁も読めそうにありません」

「片付けに時間かかってたからそうなるの。手際良くやればいいのよ」

「そんなぁ……」


生地を小さくちぎって丸めてから延ばすまではいいとして、その形を整える

作業はとても難しいし、そこへ感謝の気持ちを込めて綺麗な形を作るなんて

このときの私には到底できるものでなく、熟練した手が必要だと思い知った

もちろん隣で同じ菓子を作っているはずの育ての母の手には全く迷いがない

この形そのものに意味がある、という記述が例の教本にあったのを思い出す



形ができたら卵黄を塗って砂糖を少々振って、油を引いた鉄板に並べて竈へ

これで一息つけると思ってたら、育ての母は次の段取りを私に指示してきた


「ハナ、そこをまた片付けておいてちょうだい。次の作業があるから」

「えっ? 次ですか? これが焼き上がったら完成じゃないんですか?」

「本にはそう書いてあったみたいだけど、ちょっと足すのが最近では普通なのよ」

「そうなんですか」

「あの先生も結構なお歳だったし、気付いてなかったかな。いや、気付いててあえて無視してたんでしょう」

「……?」


育ての母は私たち姉妹と同じ学校の先輩なので、同じ教師を知ってて当然

卒業してから十年ちょっと、まだ知ってる教師の多くが在職していたのだ


私が書き写していた内容から、どの教師のものだったかまで察したという


「その本には、全ての材料の分量を具体的な数字で書いてあったんでしょ?

 細かく書いてあるから、むしろハナは簡単に作れそうだと思ったんじゃない?」」

「それは……。その通りです」

「こことか、ここみたいに、他の教師も多くの料理本も『少々』とか『お好み』で済ますようなところまで、きっちりとね。そうしないと気が済まない方なのよ。

 それで私もすぐ気付いたの」

「なるほど」

「けど、決まっていることは決まった通りにやらないと許せない、という方でもあった」

「はあ……」

「このお菓子に、焼き上がってからちょっと味を足すなんてことも、きっと認めないはず。

 きっと最近の流行もご承知の上で、あえてご自分の教本には書かなかったのでしょう」

「あはは。そういうことだったんですね。

 書き手のことを知っていると読み解くにも役立つなんて、興味深いです」

「ここで読解指南はしません。続きはお父さんに頼んで」

「はーい」

「ハナ、お料理やお菓子に気持ちを込めるつもりなら、この先生のように決まった通り厳密に作るだけじゃ伝わりにくいわ。もちろん基本を知ることは大事だけど、それを踏まえた上で、ここぞというところに一工夫するの。たとえば食べさせる相手の好みとか、伝えたい気持ちに合わせて、味付けを少し変えたり、通常と少し違う食材を使う、といった具合にね」

「む、難しそうです……」

「そうね、まだハナには早かったかも。

 だけど覚えておきなさい。基本をしっかりできるようになったら、いくらでも自分なりに工夫していいんだってこと。そういう経験を繰り返して、あなたの味ができていくの」

「はい」

「じゃあ私は倉庫部屋に行って良さそうなのを見繕ってくるから、あなたはそこを片付けて、余裕があるなら竈を見ておいて」

「あっ、はい。今度はちゃんとやります」

「火傷には気をつけなさいね、ハナ」

「はい、おかあさん」



どうにかお菓子が焼けてきて甘い匂いが家中に漂い始めると、今度は妹まで

台所にやってきた、いやこの子は匂いに引き寄せられたんだな、間違いない


そして育ての母は実の娘に対しても、決して手を抜かず教える姿勢を示した


「あれ? おねーちゃん? なんで台所にいるの?

 ……あ、おかーさん。今日なんかあったの?」

「あら、ミキ。降りてきたのね。

 ちょうどいいわ、あなたも手伝いなさい」

「えー!?」

「そろそろ二人とも、料理をしっかり教えておこうと思ってたの。

 さあ、手を洗って、前掛けを着けて、こっちにいらっしゃい」

「……はーい」


妹よ、巻き込んでごめん、それからありがとう、こんな私の妹でいてくれて


そして育ての母が持ってきた食材を使い、お菓子に添える甘味を三人で準備

焼き上がりが近いので時間をかけず用意できる生クリームと林檎の砂糖漬け

と育ての母は言い、ミキには前者の泡立てを、私には後者を潰すように指示

自身は竈の様子を見て、娘たちに手を止めさせて焼け具合の見極め方を伝授


焼き上がったお菓子を取り出して皿に並べ、二種類の小鉢をつけたら完成だ

けれどごめん妹よ、お姉ちゃんやっぱり不器用だった、お菓子の形は散々だ


そのミキも同じく不器用で微妙に救われた、小鉢に盛ったクリームが溢れた

けど育ての母は、それでも嬉しそうに、そしておいしそうに味見してくれる


「盛り付けと形は全然だけど、味は大丈夫。初めてにしては上出来ね」

「はー……」「よかったー……」


息を呑んで母が下す評価を待っていた姉妹は、ほぼ同時に安堵の声を漏らす

そういえば妹も、血の繋がってない妹だけど、こういうところは私そっくり

同じ両親の下で一緒に育ってきたからかな、まあ妹には読書趣味ないけれど


「今度は、もっと上手に形を作れるように頑張りなさい。見た目も大事」

「うう……」「はーい……」


なお、同時に育ての母が作った作品は優等生との評判を裏切らず完璧だった

比較するどころではなく、別種のお菓子にしか思えない、これが腕前の差だ



その後も、しばしば育ての母から台所へ呼ばれて料理を教えられたし、他の

様々な家事仕事を仕込まれたり、むしろ以前より家族と過ごす時間が増えた

掃除や洗濯も、面倒だと思ったけど習慣づければ大した苦労にならなくなる


ちなみに実家の洗濯場は一階奥の台所の隣にあり、屋内の井戸から苦労なく

水を運べるように、風呂場も合わせて水回りの部屋が近くに配置されていた

合理的な住宅設計だと思うけど、干すときに上の階まで運ぶのは重労働だし

冬場の冷たい水は手が切れそう、私たち姉妹が辛そうにしてると育ての母は

特別ですよと言いながら台所で湯を沸かし、洗濯桶を少し暖かくしてくれた

おかげで石鹸の泡立ちが見違えるように良くなって、楽しく洗濯物ができる


血や脂などの汚れには温水で洗うのも珍しくないと二人が知るのは後のこと

気付いたとき、ミキが何だか少し不服そうな顔をして二人で話し合ったっけ


「おかあさん、私たちに恩を着せたのかな。何が『特別ですよー』ですか」

「うーん、特別なのは事実なんじゃないかなあ。血や脂の汚れなんて、うちではあまりないよね。手が痛くなるくらい冷たい水も、年間でいえば限られた期間だし」

「おねーちゃん、おかあさんに甘いよね。良い子すぎない?」

「そう言われたって、私そう思ったからそう言ってるだけで……」

「だよねー。おねーちゃん、根っから良い子だもんなー。

 もう、疑うことを知らないっていうか、バカ正直っていうか」

「バカとは何ですか。私ひねくれた考え方するの苦手だもの」

「はいはい、わかってます。そんな悪い意味で言ったんじゃないから。

 良くも悪くも真っ直ぐなのが、おねーちゃん。変に勘繰ったり腹を探り合ったりしなくていいから友達付き合いより楽だし」

「なにそれ。友達付き合いって勘繰ったり腹を探り合ったりするものなの?」

「あはははは。おねーちゃんの周りの友達も、きっと楽だろうな」

「ちょっとミキ? そこ笑うところ?」



母と姉妹が料理しているところに、仲間外れが嫌なのか弟まで加わってきて

野菜を洗ったりパン生地を捏ねたり、できそうな手伝いを喜んでしてくれる

その様子に嬉しくなった私やミキが褒めると楽しそうにする弟も、かわいい


私より二つ半ほど年下、学年では三つ下の弟は、幼い頃とてもかわいかった

ミキは姉らしく寝起きから着替えから入浴まで楽しそうに世話を焼いてたし

私は弟の寝床の傍らで本を読み聞かせて寝付かせるのが、毎晩の日課だった


でも男の子の思春期というのは成長が早くて、すぐ私の背丈を超してしまい

いつの間にか声も低くなって、彼の実父に似た印象が感じられるようになる

また次第に姉たちの世話を嫌がって拒否し始め、主にミキが残念そうだった


コンは他にやりたいことができたか台所にも声を掛けない限り来なくなった

けれども力の要る作業などは嫌がりもせずに手伝ってくれるから、いい弟だ

むしろ台所以外でも私が力仕事してるところを見ると手伝ってくれたりする


「ハナねーちゃん、それ、おれやるよ」

「ありがとうね、コン。お姉ちゃん非力だから助かる」

「いや、まあ。

 ……こんな重そうな本を何冊も抱えてフラフラしてるの、見てられなくて」

「あれっ私もしかして子供扱い?」

「ハナねーちゃん、どんどん小さくなってくじゃん」

「ちょっとそれ逆! 逆だから!! あんたが大きくなってるの!」

「でもおれから見たらハナねーちゃんが小さくなってきてるんだよ」

「うう、何だか哲学的な言い方でごまかされてる気が……」


父の書斎の上の階の屋根裏部屋は、大人たちの背丈では使いづらいことから

子供部屋になっていて、だいたい同じ広さになるよう仕切りが設けてあった

各部屋は細い格子の軽い扉で廊下と区切られてて親が呼ぶ声もよく届いたし

料理やお菓子、お茶の香りなども下階から漂ってきて容易に嗅ぎ分けられた


廊下は南側にあって、階段より遠い方から私、ミキ、コンの順に部屋が並ぶ

おかげで私は買い込んだ本を玄関から階段を延々上ってさらに廊下を運んで

こなければならず、手伝ってくれて助かったのは事実だけど、あの言い方は……


何にしても妹と弟は、私が貰い子だと知っても、何ら変わらず接してくれる

「両親がお姉ちゃんをお姉ちゃんとして扱うのだから、私はその妹のまま」

なんてミキは言うだろうし、コンもまた似たような考えでいてくれたようだ

私にとっても、ずっと同じ家で一緒に育てられてきた二人は、大切な妹と弟



家族の絆を培う場みたいになっていた台所に、父だけは普段来なかったけど

私たちが欲しがる調理具や食材などがあれば喜んで買ってきてくれたりした

それから学校の料理の実習も、できるようになってくると楽しく思えてくる


この一件の後も、私の読書趣味は相変わらずで、育ての父とは書斎で一緒に

読書をしたり本好きどうしの会話をする日々が、さらに何年か続いていった

ただ興味は次第に広がり、書斎の本にない分野も次々に気になってきたので

今度は読書好き仲間の級友とともに、次から次へ恋愛物語など回し読みする


そんな恋愛物語の新作写本を借りてきた夜には、妹と一緒に読んだりもした

あまり読書しない妹だけど、この手の話なら興味津々のようで、私としても

父以外の家族と共通の本の話題で盛り上がるのは、少し新鮮な気分になれた


読書仲間の間では、自分で自作の好きな物語を書いたりすることも流行した

けれど読むのが好きなだけでは駄目なのか、私が書いたら全然楽しくならず

もしや私にはそっち方面の才能がないのかなと、残念な気持ちになったりも


なお、私が父の書斎に入り浸らなくなるのと入れ替わるように、今度は弟が

茶葉を教わろうと考えたのだろう、よく書斎に出入りするようになっていく

女三人で作った菓子を届けようと私が書斎に持っていくと、そこに弟もいて

今年の国産茶葉の出来がどうだとか、新たに仕入れた輸入茶葉はどうだとか

そんな話をしながら、私と弟と育ての父の三人で茶を楽しむことも多かった




◇もう一組の父と娘の謎


一部の級友たちが卒業後の人生を意識し始めた十五歳の晩秋に、内乱が勃発

年末には大公側の軍勢が反乱軍に対して「大反攻」と呼ばれる作戦を行った



といっても、この大公城下では当面、それまでと大差ない日々が続いていた

内乱初期の戦場は主に大公国の西部で、北東寄りにある城下からは遠かった


少なくとも越年祭は例年通り、町内に数ある商家が色とりどりに出店を並べ

我が家もこの日ばかりは自宅前に出店を出し父の部下がお茶と葡萄酒を売る


夕方から徐々に活気が出て、日が暮れると街中に篝火や松明、蝋燭が点され

越年祭の最大の山場である深夜の年越しの刻へ向け徐々に盛り上がっていく


大人の男たちがこぞって派手な衣装に身を包み、荷車を飾り立てて練り歩く

育ての父も十三歳の息子を連れて、庶民に許される範囲の衣装で行列に参加

城壁の外の住民など荷車の行列に参加できぬ者たちは踊って目立とうとする


私は、もっぱらミキと育ての母と一緒に屋台を巡って色々と買い食いをして

級友たちや近所の女性たちと出くわしては年越しの挨拶などして過ごしつつ

行列の男たちの中の家族や知り合いに手を振ったり、例年と変わらない一夜


ただこの年は、毎年とても派手な衣装で目立ってた人たちがほとんどいない

その多くは騎士として活躍する貴族や郎党の兵士、あるいは傭兵たちだった

誰々が反乱軍との戦いで戦死したとか重傷を負った、戦に出たまま戻らない

などと、周りの見物人の影が思い出したように噂してるのが私の耳にも入る


どの町内にも顔を出して激しく踊ってた大柄な青年を私も何となく思い出す

静かなのが好きな私は何だか鬱陶しいなという印象しか持ってなかったけど

まさにその青年が大公の甥で、近所の女性たちに一定の人気があったことを

その当の本人が戦死した、すぐ後の祭りで、こんな形で私は知ったのだった


かの大公の甥は、彼の父親である大公の弟が率いる軍勢に加わって大反攻に

反乱軍を討伐すべく臨んだものの、激戦の中で父子ともども戦死したそうだ

他にも有力な貴族や騎士も含め数多くの兵たちが命を落として撃退にも失敗

勝ち目がないと知ったか地方領主の中には勝手に軍を離れる者までいたとか

さらにその敗戦の責任を取らされて宮廷で有力貴族の誰かが失脚しただとか


そんな不穏な噂ばかり幾つも伝わってきながら、城下は以前と大差ないまま



いや実際には目立たないものの徐々に、着々と日常に狂いが生じつつあった

最近は貴族相手の商売が振るわなくなってる、と家業を心配する級友もいた


育ての実家は多彩な陶磁器と酒と茶を扱う卸商、中でも売上の多くを占める

のが焼物で、食器や花瓶などの日用道具から、浴槽や便器といった住宅関連

タイルや屋根瓦、雨樋など建築資材まで実に手広く扱っているけど、どれも

高級な品ほど売れ行きが落ち込みがちで、酒や茶も同様の傾向にあるという


陶磁器や酒の主な生産地は大公の本領だから入荷は比較的安定していたけど

先行きの不安感から贅沢を控え、以前より安い品を求めるようになった客や

多少のひび欠け程度なら目をつぶって買い換えるのを控える客が多いらしい


一方で輸入の比率も多い茶葉は仕入れが次第に難しくなり、どんどん品薄に

国内で貴重な産地は反乱軍が拠点とした、大公国の西辺にある山がちな一帯

隣接する西の大領主領の茶葉生産地も反乱軍が奪うと入荷は完全に途絶えた


食料品や生活必需品なども、程度の差はあったけど大半が品薄になっていく

影響が最も深刻だったのは安い給料や俸禄で生活する庶民たちと下級貴族だ


庶民向け市場は正門を入ってすぐの広場が主に使われてたけど場所が不足し

かれこれ一世紀以上も前から正門の外側にも露店が広がるようになっていて

他にも宮殿前広場や大公私邸の裏手広場を除く、市街の各所の小さな広場に

半ば常設で露店が並んでおり、どこも庶民の台所として賑わっていたものの

内乱に入ると急速に品数が激減し、売り切れや乏しい商品の奪い合いも頻発



今まさに進行中の色々な出来事が少し気になってきて、図書館や書店で手に

取る物語も、歴史上の出来事を題材にした内容に恋愛要素もある、といった

方向性の作品が中心になっていき、気付けば私だけでなく級友たちも同様に

そこからさらに手を広げ、神話や伝説など古典中の古典も読み漁っていった


反乱軍を率いて武装蜂起し大公に宣戦を布告したのは大公の一人娘だという

その姫の名はファウナ、これは父である大公が付けた名だけれど、姫自身は

彼女の母方の一族がよく使う言葉に置き換えて、ベスティアと名乗っていた


生まれたときから母親の故郷で育てられ、つまり大公と距離を置いた生活で

十年ほど前、彼女が十八歳のとき隣国の伯爵領へ出奔して帰ってこなかった

そしてついに戻ってきたと思ったら反乱軍を率いて大公に戦いを挑んできた

といったあたりまでは、だいたい当時の城下でも、ほとんど皆が知っていた



でも何故、姫が自らの父親に対し反旗を翻したのか、それはわからないまま

誰に聞いても納得できる回答は得られず、壮大な父娘喧嘩だと言う人もいた

いくら何でもそれは国全体を巻き込むような内乱の理由にはならないだろう

と、私も級友たちも不思議でならなかったので学校の図書室で歴史の本など

皆で手分けをして読んでみたものの、あまり詳しい本がなく情報不足だった


関係ありそうな情報を皆で抜粋して持ち寄って、私が代表して清書してみた

けどやはり重要な情報が足りないようで、集めた話もほとんどが繋がらない


人々の長い歴史の中では、ときおり権力者親子が争った戦争や内乱はあった

権力者は男が多いから娘が反旗を翻した例は非常に稀だけど、それもあった

いや厳密には歴史というか神代に遡る半ば伝説の物語だけど、一応はあった


ただ権力者の子が親に楯突く理由は様々で、姫が何故そうしたのか全く不明

図書室には当代の大公について書かれた本は僅か、姫についてはほぼ皆無で

辛うじて少しわかったのは少し過去の歴史、姫の母方の一族についてのこと


姫が十歳くらいの頃に死去したという母親は、もともと大公国内でも有数の

大規模な領主の一族、それこそ三大領主に匹敵する勢力を持つ割に、大公や

三大領主とは微妙に距離を保って接しており、同じ大公国内でも異質な存在

その理由がどこにあるのか、どんな経緯があったのか、などわからないけど

姫の母方の先祖、その一族の独特な立ち位置には、私も強く興味を惹かれた



放課後から日が暮れるまでの間に抜粋して集めた情報を司書の教員に見せた

ところ、何やら変な表情をしつつ姫の故郷は独特の文化だよねと話をくれる

ただ時間切れ、もう日没だし閉館するから早く帰りなさいと、追い出された


自宅で夕食後も自由研究で集めた情報を読みながら、やはり情報不足だなと

考え込む私の難しい表情を気に掛けたのだろう、育ての父が話し掛けてきた


「ハナ、どうした? 珍しく何だか考え込んで」

「珍しくって何ですか!?

 あのねお父さん、反乱軍の姫って大公の実の娘なんだよね?」

「ああ、そう聞いてる」

「そんなに仲が悪いのかなあ。国中みんなを巻き込んで戦争するほどなんて。

 ……本物の親子なのに」

「気になるか? まあ、世の中にはそういう親子もたまにいる。血が繋がってなくても仲良しの親子がいるなら、逆もあるというだけのことさ。

 どの家でも、それぞれが気を配ったり付き合い方を工夫して、自分たちなりの一家を作っていると思うよ。ただ中には上手く行かず、破綻してしまう関係もある。特に貴族の場合、ましてや大公ほどの地位になれば、家族それぞれに家臣や部下がついて、当人たちが仲良くしたくても周りの者たちが許さない、といったこともあるだろう」

「うーん……」

「その文章、今の大公と姫との間柄を調べたんだろ? ちょっと見ていいかな?」

「うん」


私が書き溜めた紙束を渡すと父は一通り目を通して、よく調べたと苦笑する

育ての父は商業組合の男子学校の卒業生で、同じような図書室で学んだ先輩

あちらは商家の後継者を育てるための学校で、後に名称を商業学校と改めた


「男子の商業校もそうだったが、女子の家政校も大差ないとお母さんが言ってたな。

 蔵書スカスカだっただろ? それにしては良くやったと思うぞ」

「スカスカとまでは言わないけど、少なくとも私が求めてる回答は見当たらなかった」

「求めてる回答、か。

 じゃあハナ、どんな資料があったらいいと思う?」

「えっ? ……あー、うん。

 なんで姫がそこまでのことをしたのか、もうちょっと材料がほしい」

「それじゃあ漠然としすぎだなあ。司書に相談しても困った顔される」

「うーん、だよねー。ちょっと考えさせて」

「もちろん。じっくり考えなさい」

「えーと、じゃあ私が想像した筋書きが合ってるかどうか確かめたい。

 たとえばだけど、実は姫が大公に強い恨みを抱いているとか。

 逆に何とも思ってないけど大公の治世を終わらせたい、とか……」

「えっ!? 二つめの可能性は意外だな」

「そう? でもありそうじゃない?

 大公そのものでなく、大公の政権そのものを問題視してるかもしれないって」

「ああ、そっちの意味か。ならあり得るな」

「え?」

「お前から、親を何とも思わない子供という仮説が出てくるとは意外だなと思ったんだ」

「まあそういう親子も、古今東西の物語を読んでればたまにいるし、有り得ない話じゃないと思う。ましてや生まれてこの方、ほとんど一緒に過ごしてない父と娘の間なのだから、大した関心も持てないかもしれないでしょ?」

「なるほど。そういう意味では、たしかにハナはうちの子だ」

「お父さんは私の本読みの師でもありますけどね。そしてお母さんは家事全般の師。だから二人には、私からは感謝と尊敬しか出てきません。

 そして私は、そんなお父さんお母さんに私を託すことにした実の親にも、きっと感謝すべきなんだと思っています。もはや会えないとしても」

「……どういたしまして。覚えてもない実の親にも感謝するなんて、実にお前らしい」


話の途中、少しだけ育ての父の表情が曇ったように見えたのは私の気のせい?

まあ、血の繋がらない親とはいえ本物の娘と同然の愛情を注がれて良い子に

育ってきたはずの私から、いささか不穏な発言が出れば親としては驚くかも


だけどお父さん、いろんな人の考えを知っておくことも大事だと思うんだ私

もう自分で気付いてるから、自身の感情が他の人と少し異質な気がするって

級友に聞かれて答えたら変な顔されたもの、普通は取り乱したりするよって

十歳で貰い子だと知らされても平然としてる私が普通じゃない、変な子だと


「そうだな、まず今の大公の治世については、政治や経済を研究している学者が書いた本を探してみるといいだろう。そういう人の最近の著作なら、近年の動向も踏まえて書かれているはず。それから姫が大公をどう考えているかの手掛かりは、姫の母方の血筋、裾野の盟主一族の歴史が参考になるかもしれない」

「なるほど。でもそういうの、どっちも学校の図書室では見た記憶がないな。お父さん持ってる?」

「近年の政治や経済の本なら、俺の書斎にも少しはあるからすぐ出せる。けど、裾野地方の書物はほとんどないな。そっちはせっかくだから他でも探してみるといい。昔の歴史や、当時の有力者たちの関係については、古い時代に書かれた文献がたくさんあるからね、そういうのを今の研究者たちも参考にしているんだ」

「他って、たとえば噂に聞く貴族の図書館とか? いつか行ってみたいと思ってた」

「大公の図書館は宮廷付属、庶民には閲覧が許されないので残念ながらうちでは無理だ」

「だよね。どんな蔵書があるかも、ほとんど聞いたことがないし」

「知り合いの貴族が言うには、あれは図書館というより、文書館と呼ぶのが妥当らしい。今まさに動いている政策などの記録が積み重なっていて、それと一緒に同時代の書物も保管され続けているのだそうだ」

「何それ面白そう! あー私も何とかして潜り込めないかなあ」

「そうだなあ、貴族と結婚して貴族の一員になったりすれば可能かもしれないが……」

「えー!? そのために結婚するって本末転倒だと思うし、お父さんはそれでいいの?」

「いやもちろん冗談だよ、ハナならやりかねん、と思っただけだ」

「もーお父さん、そういうのはちょっと……」

「悪かった。俺だって、ハナの結婚相手は自分で納得する人を選んでほしいからな。

 それで、他の可能性があるとすれば、宮廷で顔が利く貴族に頼み込んで同行させてもらう手はあるかもしれない。付き人か何かのふりをして、それっぽい格好でいれば、あるいは……」


父が親しくしていて、宮廷に顔が利きそうな貴族といえば、心当たりがある

毎月のように私たち一家と会食をする、立派な髭の、しかも立派な髪型の人


「たとえば、お父さんの知り合いの? よく会食してる、あの髭のおじさん」

「こらこらハナ、そんな言い方しない。あの人は宮廷でもかなりの有力者なんだぞ」

「でもあのおじさん、私たちに優しくしてくれるし、見た目と話し方が少し古風なこと以外、普通の人にしか見えない」

「そりゃまあ、両方の親の代からの友達だからな、あの一家とは」

「そうなんだ。だから他の貴族との会食と違って気さくにお喋りできるのかな。

 ……もしかして、こんな風に貴族と庶民が親しくするのって珍しいの?」

「そこそこいるとは思う。けど、友達というより何らかの利害が一致して親しくしている関係がほとんどだ。その点で言うと我が家とあの家の場合は少し珍しいかな、実はあの人とは取引もそんな頻繁にないんだよ。あっても普通のお客と同じ扱いにしろと言われる。あとはときたま、先方が欲しがってる品を扱う商会を紹介するとか、逆にうちの商品が気になる貴族がいたら紹介してくれる程度だな。

 そして大事な点がもう一つ。うちからも宮廷で便宜を図ってくれと頼んだりはしない」

「なるほど。そう聞くと、たしかに友達って言えそう。でもそういう関係だったら、なおのこと頼みづらいね、私の個人的な好奇心ですなんて」

「かもな。

 で本題に戻ると、ハナが探してる情報は貴族でなく、別の連中が持ってると思う」

「えっ? 心当たりが?」

「ああ、きっと情報はある。俺の知り合いというか、俺を小僧扱いするような連中なんだが、まあ親しい連中がいてね。学校の図書室にも普通の書店にもない本ばかり蒐集して、一応は商売としても扱ってる。その連中のところに」

「何それ? お父さんが小僧っていうなら、私赤ちゃん扱いされそう」

「ははっ。でもむしろかわいがってもらえるかもしれないじゃないか。

 とりあえず時間のあるとき行ってみるといい」

「私一人で?」

「ああ。その方がいい。

 一緒に行くと俺のおまけに見られる。それこそ、赤ちゃんどころか生まれてもいないみたいな扱いだろう。一人で行けば、少なくともハナが一個体であるとは認識されるはずだ。もちろん気をつけないといけないことは一通り教える」

「待ってお父さん、そんな注意しないといけない相手なの?」

「大丈夫、いくらハナが美味しそうだからって、取って食ったりはしない。……はず」

「ええ~~!? ちょっと何それ怖い~~!!

 でも知りたいものは仕方ない、やれるだけやってみる」




◇赤ちゃん扱いの小娘と、宝物の前に立ちはだかる怪物たち


父が教えてくれたのは、鋏町の裏路地に古書店を構える稀覯本の収集家たち


刷り本が登場する前の古い写本は部数が少ない上に劣化などで失われやすく

新たな写本や刷り本を作って受け継いでいかないと内容も消え失せてしまう

しかも写本は作り手次第、一冊ごとに装丁や挿画が全く異なるのはもちろん

写本する際に内容まで微妙に変わることがあるので、一冊一冊が貴重なもの


刷り本が大量に印刷され、その新刊書籍を扱う書店が台頭するようになって

顧客を奪われた写本職人や、単なる収集癖で写本を集める者などが、鋏町の

路地裏、それも二階三階など知る人ぞ知るような場所へと追いやられていき

そこで隠れ棲むように店を営み、写本を受け継ぎつつ新たな写本も制作する



一応は商売としているものの、顧客も同種の蒐集家がほとんどなものだから

いずれも店といっても小さなもので、ほぼ個人宅そのものの集合住宅の一室

なので知らない人には店だとも思われない、けど踏み入れると、まるで宝箱

部屋一杯を埋め尽くす本棚には、見たこともないような古い本がぎっしりだ


彼らの蒐集品を垣間見るだけで、父の書斎など安いものだとわかってしまう

これでは小僧扱いも致し方ないな、そしてやっぱり私は赤ちゃん扱いだった

蔵書の主流は百年二百年の写本、その原書は古いものだと数百年になるとか

そんな本が何百冊も並ぶ棚の前では、まさしく私なんて生まれたばかり同然


こうした店主たちは、その筋では『怪物』と呼ばれるそうで、たしかに怖い

写本の制作年代もさることながら、原書からの世代や出来映え、劣化の程度

果ては写本を作った工房や職人の腕前まで、あらゆる基準で評価するという

怪物たちの稀覯本に対する執念が凄すぎて、ちょっと引いてしまうくらいで

一応は普通の人間の姿をしているけど、別種の生物か何かのようにも思える


これは深すぎて手が出せない、というかほとんど手を出させてもらえないし

もちろん店主の許可なく触れることなど許されない、そこは暗黙の了解事項

ただ相談した内容に関する本を何冊か見繕ってくれて閲覧させてくれたので

窓際に用意してある書見台を借りて、探していた記述だけ拾い集めてこれた


ちなみに、その閲覧の謝礼は店主によって、あと客によっても違うのだとか

父には商品として扱っている最上級の酒や茶葉など要求してくるらしいけど

私に対しては近所の店で売ってるお菓子とか、お茶とか酒とか、その程度の

品を要求してくるので、いったん店を出て買って戻って、まるでお使い気分


いや本当にお使いだ、怪物たちは私を送り出す前か帰った後に金を渡したし

さては子供だと思って手心を加えたか、あるいは手頃な使い走りのつもりか

ただしその代わりに小一時間は怪物たちの蔵書自慢を聞かされるのだけれど


私が多少なりとも相手してもらえるようになるのは、何年も後のことでした



ともあれ、父の書斎の本と、怪物たちが巣窟の奥に隠し持った宝物のような

稀覯本とで、多少は理解の手掛かりになりそうな情報を集めることができた


姫の母親、というより母親の一族と、大公一族との間には因縁があるらしい

姫の母方一族の領地は、大公国の他の地域と生活習慣など様々な点で異なり

大公や三大領主と対立することもあった、政治的にも少し独立性の高い地域

西に隣接する伯爵領との国境をなす山脈の裾野にあるので裾野地方とも呼び

この地方を治める大領主の一族は、彼らの言い方だと『裾野の盟主』となる


その地での彼らの歴史は神代にまで遡るとされ、後の大公国となる大平原に

皇帝の命で進出してきた大公の先祖は、彼らの併存を認めて所領を安堵した

以来、国内でも独特の立場を貫いたのが、裾野の盟主一族と裾野地方の民だ


裾野の位置付けは歴代大公の中でも紆余曲折あり、紛争を生じた時代もある

紛争は割と近い時代にも発生していて、父の蔵書の中に概略が記されていた

(数十年前の出来事だから、さすがに怪物どもの蔵書には一切出てこない)


現大公は後に姫の母となった女性を娶るという強引な方法で裾野地方を併合

姫の母親は当時、親兄弟などの相次ぐ病死や暗殺で他に該当者がいなくなり

盟主の地位を受け継ぐ正当な権利が認められる唯一の人物となっていたのだ

そんな女性を現大公が大公太子だった頃に妃として迎えると、婚姻を理由に

先代二十二代目が併合を宣言、紛争も伴いつつ裾野地方の領主を入れ替えた


もちろん二十二代目大公とその息子らが策略を巡らし暗殺や毒殺など企てて

裾野の盟主一族が娘一人だけ残るよう仕向けた可能性は否定できないけれど

逆に大公は無実で、単純に姫の母に惚れて婚姻を迫り、二人の間に生まれた

子供に統一国家を任せようと、安直に考えていた可能性もまた捨てきれない


何にせよ裾野地方が反乱軍の根拠地になったことを考えれば、現地の人々は

大公への根強い恨みを持っていた可能性が高い、盟主一族の周辺人物も含め


姫が生まれるに至った経緯は、姫が大公を恨んでいたという仮説に反しない


一方、もう一つの私の推論、大公の治世が抱える問題については父の蔵書で

色々と参考になりそうな話題を発見できたけど、反乱軍が何を目指してるか

この時点では詳しい情報がなく、またいつか情報が集まったとき検討しよう

ただ私たちが漫然と暮らす大公国内にも、数々の問題があることはわかった



ひとまず幾つかの手掛かりを発見できたのが嬉しくて、資料を整理して一本

書いてみたら数十枚もの大作、達成感の勢いで父に見せたら変な表情された

この前のを図書室で司書の教員に見せたときとそっくりの表情なんですけど?


「いやなに、何というか、お前がそこまで楽しそうに熱中するのは珍しいなと思ってな」

「えー!? そうかなぁ」

「だっていつもハナは本のこと以外、ぽやーんとしてるじゃないか」

「ちょっとお父さん酷くない!?」

「だが、まあ考えてみれば、そんなに不思議じゃないんだろうな。

 読書の延長線上だと思えば」

「私としては、今まさに大きく動いてる歴史が気になっただけですけど?

 その意味では読書とは少し違う気がするなあ」

「なら本の他にも新しい興味の対象ができたってことかい?」

「あー、何て言えばいいかな。たぶん、誰かが一言で答えをくれるようなことじゃない疑問に、自分なりの答えを見つけたい、みたいな感じ?」

「ふーむ。

 そうか、一冊の本を深読みするのでなく、いくつもの本を頼りに現実の謎解きをする、といったところなのかな」

「そうだね、その言い方が近いかも。だけど、言われてみれば一冊の本の深読みの延長線上かもしれない」

「まあ、こういうのが本物の勉強ってことだと思うんだけどな」

「えへへ……。そっか、私やっと勉強できるようになったんだ」

「やればできるじゃないかハナ。じゃあ学校の勉強は?」

「それはちょっと、気乗りしない内容だと駄目なのかなー」

「だとしたら、もっと色々な物事に興味を持つようになればいいんだな」

「うーん。まあ、一応? 頑張ってみます……」

「まあいいか。今回みたいに、また何かのきっかけで興味が広がることもあるかもしれん。

 この論文、まとまりは全然だけど、情報はよく集めたと思う。それに引用元まできちんと網羅してあるし。初めてにしては上出来だよ。ここまで資料を漁ってこられるなら、そこいらの役人の仕事にも負けないぞ」

「そっかー。まあ怪物さんたちのおかげでしょうけど」

「ははは。

 といっても大公国の役人になれるのは貴族の男だけだから、もしやりたいなら別の国でないと駄目だけどな」

「ですよね。そういう身分制度の問題点、お父さんの書斎の本にも書いてあった。

 いや私としては別に役人になりたいわけじゃないから構わないんだけど、身分とか性別だけの理由で仕事を選べなかったりするのは、なりたい人にしたら残念だよね」

「そうだな、まあこの国も内乱で変わるのかもしれないから、どうなるのか見届けよう」



その後、大公国の統治に影ながら重要な役割を担っていた宗教組織が分裂し

大半が反乱軍についたという話を耳にして、その宗教組織について記された

本を探して読んでみたら、実は大公国の宗派だけ他国と違うとあって驚いた

というより、その昔の大公が、自分の治世に都合良い宗派を作っていたとは


そんな国でも宗教とは悩みがちな人の心を救う支えだという点は変わらない

だから大公国教会の中に祈りと救済を重視する一派、修道会が後に登場した

今は男女それぞれの修道院が全国各地にあり、育ての家もお世話になってる


春分の祭礼では育ての母が毎年と同様に、女子修道院へ連れていってくれた

麦の育つ春を迎え、貴族も庶民も聖職者も男女それぞれで集まるのが慣わし

小柄だけど存在感のある修道院長は厳かに儀式を執り行い、参列者に向けて

世界や生命の成り立ちから、人々がどう生きることが望ましいか教えを説く


曰く、早朝の街は靄に覆われ、それが晴れる頃には庭の草木に露が輝く時季

この世の生命は火と風の精霊の戯れから生じた、全てが泡沫の夢の如き存在

生命には等しく大した意義などないけれど、この世は生命を許容してくれる

大地と大空の間に生命は生きていていい、誰もが生を謳歌して然るべき世界


この世の生命は一つひとつ全てが他と異なる独立したものとしてそこにある

どれほど小さき者や弱き者も一つの生命を持ち、その輝きは他に劣らぬもの

あらゆる生命は他に替えが利かない存在、失われてしまえば二度と戻らない


またそれゆえにこそ他の生命にも寛容であってほしいし、互いに尊重すべき

無限に広がる大地と大空の間では他の生命との繋がりがなければ生きられぬ

互いに尊重し合い、許容し合う生き方でなければ、泡沫の世も立ち往かない


全ての生命は循環するものであり、死後は大地と大空とに混ざり合っていく

生命を終えた肉体は土に帰るものの元の大地とは異なったものになっている

生命を終えた魂魄は空に散るものの元の大空とは異なったものになっている

だからその生きた証は決して消えることなく、大地と大空の間に残り続ける

それがまた後に別の新たな生命に取り込まれて受け継がれていくものだから


この混迷の時代、せめて自らの名に恥じぬ行動を、大地と大空の間に残そう

一人ひとり固有の名や、その名が導く縁によって決まる生き方もある、云々



未明から始まった儀式は、外が明るくなっていくにつれて盛り上がっていく

修道院付属礼拝堂の高い天井の近くまで伸びたガラス窓から射す朝の陽光で

祭壇に向かって並んで座る老若貴賎様々な女性たちの横顔が照らし出される

育ての母、私とミキ、隣には例の髭のおじさん宮廷貴族の一家の女性たちも


気品に溢れ、かつ春らしい暖かさや柔らかさをも感じさせる修道院長の声は

礼拝堂に響き渡り、その壁という壁から私たちを包み込むようにさえ思える

この春分の儀式に特有の春めいた華やかな香が焚かれていて心まで落ち着く

日が昇るにつれて室内も暖かくなってきて身も心も安らぎ、何だか眠気まで……


そんなとき、ふと修道院長と目が合って、思わず意識が目覚めて目礼する私

その目には説教の途中で居眠りしそうになっていた私を咎める色など皆無で

私のありのままを受け入れてくれる懐の深さが感じられ、引き込まれるよう


小柄な上に若そうな見た目ながら、国内有数の規模を誇る女子修道院の院長

立ち居振る舞いも上品で、ひょっとしたら高貴な家柄の出身なのかとも思う

実際、貴族の子息令嬢の中には教会に入って有力者になる者も多いとは聞く

けどこの修道院長さん、まとっている雰囲気が貴族のそれとも違って見える

先の説教のように全てに寛容で、私もいつかこうなりたいなと憧れるくらい



街を歩く貴族や傭兵の姿が激減して約半年となる夏至の祭りも侘しくなった

例年なら城下に地方領主たちも勢揃いして大賑わいで、宮殿に上がれる地位

にない下級貴族たちが宮殿前の広場に入りきれぬほど集まるものだったけど

この年は戦時下だからか地方領主は不在、いつも城下にいる宮廷貴族ばかり

正午に大公が宮殿前の広場に出て行う祝福の儀に応える喝采も、少し侘しい


宮廷貴族や近郊領主の誰々がいなくなった、国外へ逃げたなんて噂もあった

庶民でも同様、どこぞの商家が他国に本店を移して一家も城下にいないとか

そういった噂がちらほら聞かれ、祭りの出店も心なしか少なくなった印象だ



秋分の祭礼も同じく女子修道院に育ての一家と仲良し貴族の一家の女たちが

集まったけど礼拝堂の席は空席がみられる程度、やはり人は少なくなってた


この頃には、ほとんど戦線が膠着していて戦死者もあまり出てないと聞いた

けれどあくまでも嵐の前の静けさだ、大公側では橋の街を城砦のようにして

大河の向こうに陣を張る反乱軍と睨み合い、いずれ激しい戦闘になるだろう


戦線膠着の中で再び迎えた冬至の越年祭は、私でも侘しく感じるほどだった

貴族や商家からの寄付金が減って、町内の荷車の飾り付けも極めて控え目だ

町内会所に掲げられる祭礼の寄付者と寄付金の張り紙も例年の半分くらいで

一人あたり幾ら出してたかまでは覚えてないけど、きっとそれも減ったはず

町内の荷車の飾り付けも、これがあの材木町なのかと思うくらい残念な有様


出店もほとんどなかったし、荷車と共に練り歩く男たちの数も半減していて

篝火なども明らかに例年より減ってたから、その点でも暗い越年祭になった

街を歩く人々の雰囲気も、新たな年を祝うというより、せめて悪い状況から

好転してほしいと祈るかのような、少し追い込まれているような印象が強い


そんな祭りを私もあまり見たくないと思ったから育ての父の書斎で読書した

たまに笛と太鼓が聞こえて見下ろすと、他の町内の荷車行列も大差なかった



予想された大規模な戦闘が発生したのは、冬が終わって春分も目前という頃


反乱軍が準備していた奇襲作戦が功を奏したという大公側には残念な展開で

反乱軍との睨み合いを指揮した西の大領主も戦死、数日で橋の街は陥落した

停滞していた戦線は一気に反乱軍優勢となり、急速に城下へ迫っているとか


この知らせが届いたときは、さすがに城下の人々も不安を隠せぬ様子だった

その落胆の理由が気になった私は、再び育ての父の書斎で資料を探してみる

大公国の地理や経済、物流などについて記した何冊か本を開いたらすぐ納得

国内第二の都市、しかも国内各地への街道や水運の結節点という重要な商都

この街を奪われた大公側、そして城下の商家にとっては、相当な痛手のはず


内乱の影響が徐々に家の事業にも影を落としつつあるのだろう、育ての父は

次第に明るい表情を見せることが減っていき、言葉数も少なくなっていった

心配ではあるけど、家業のことはよくわからないので声をかけるのが難しい


それに大公側では籠城を意識し始めていて、城下では人手が動員されていた

とりわけ市街地を守る城壁や城門、塔など外側は突貫作業の補修工事だった

普段なら、城壁の補修などの工事を担当するのは近辺の石材商と石工たちだ

けど当時は包囲される前にと急いでいたのだろう、石工以外の様々な職人や

さらには商家の男たちまで手伝いに駆り出され、つまり育ての父もその一人


育ての父も慣れない作業で疲れて帰ってくるので育ての母が優しく労る日々

私と妹と弟が育ての母に代わって料理をしたり掃除洗濯をして彼女を支える

この頃になると弟も少しは台所仕事を身に付けていたので、あーだこーだと

言いながら三人で頑張っては、毎日の献立を考える主婦の苦労を思い知った


ちなみに調理をしていると、つい育ての母と同じく鼻歌が出てくるのだけど

育ての母がいないと私とミキの音程が合わなくて、弟に笑われたりしたっけ


春分の儀礼は、半年前の秋分よりさらに参列者が減って、それでも礼拝堂に

足を運んでくれた人たちには感謝しますと、あの小柄な修道院長は礼を言い

様々な事情でここにいない人たちのために皆で祈りましょうと促すのだった


また、その夏の祭礼は早くも、城下全町会の会合で中止すると決まっていた




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